近所から〈ゴミ屋敷〉と言われてもおかしくなかった台所と居間は、見る間に片付いていった。ゴミ袋を手に立ち回る次男とは反対に、老人はほとんど何もせず立っているだけだった。

 次男は掃除の最後に、シーツの掛かった家具へ手を伸ばした。老人の止める声も聞き入れられず、白いシーツが翻った。

 次男が口笛を吹く。

「機械嫌いの親父がこんな物を持ってるとはね」

「好きで手に入れたわけじゃない。勝手に来たんだ」

「その割には大事に扱ってるじゃないか。椅子に座らせ、布まで掛けて」

 次男は屈み込み、充電椅子に座ったユイの顔を覗き込む。その頬に手を添える。ユイは薄目を開けたが、拒むでもなく、されるがままになっている。

「母さんに似ている」

「まったく趣味が悪い。捨てるに捨てられん」

「なんだ、いらないの?」

「そんなものなくたって、生きていける」今しがた拵えられたばかりのゴミ袋の玉が視界に入った。老人は目を背けた。

「へえ。じゃあ、こいつは俺が貰おうかな」

「何だと?」老人は次男に視線を戻す。

「だって、いらないんだろ? こんな最新型のアンドロ、使わないなんて宝の持ち腐れだぜ。ほとんど人間と変わらないんだから」

 言いながら次男は、ユイの頬に充てた手を首筋、胸元と、形を確かめるように下ろしていく。腰まで達した所で、老人は激しい目眩に襲われた。手近にあった椅子の背もたれを支えにしながら、彼は呻くように言った。

「やめろ……」

「妬いてるのかよ」次男が高笑いする。

「大丈夫です、お父さん」と、ユイが久しぶりに口を開いた。「大丈夫です。何も心配ありません」

「『お父さん』だと」

 次男の笑いが一層大きくなる。老人は背もたれを握る手に力を込めた。が、自分で思っているほど強くは握れなかった。

 ユイを立ち上がらせ、次男は彼女の腰に手を回した。

「彼女に自己紹介しないとな。色々、俺のことを知ってもらわなくちゃならない。俺は何と呼んでもらおうかな」

 老人は、居間から出て行く二人を止める術を持っていなかった。ユイはついぞ、一度も木根塚老人の方を振り返らなかった。


 次男は絵が得意だったらしい。断定出来ないのは、妻の口からそう聞いただけであるからだ。木根塚老人自身は、次男の描いた絵を一度も見たことがない。

 見るチャンスはいくらでもあったし、今でも押入れを探せばどこかにはあるはずだ。だが、老人は行動を起こさない。自分にはもう、それを見る資格がないのだと思う。妻が亡くなった今、永遠にその資格は剥奪されてしまった、と。

 いつのことだったか。

 仕事から帰った彼に妻が、次男が小学校で描いた絵が展覧会に出されることになったと報せてきたことがあった。都だったか区であったか、何の展覧会か覚えていないのは、話半分で聞き流していたためである。むしろ、返事をするのが億劫だったことはよく覚えている。

 当時は、仕事以外の雑事を全て妻に委ねていた。子供たちのことももちろんそうで、良いことであれ悪いことであれ、いちいち自分の方まで報告せずに、妻の中だけで処理してほしいと思っていた。彼は〈家族を守るため〉に仕事をこなすことで手一杯だった。意地もあった。〈ゆとり世代〉というレッテルを貼った上の世代の者たちにナメられてはならないという気持ちが、そして自分たちより濃密な教育を受けて育った下の世代への対抗心が、彼を余計に仕事へ駆り立てた。

 そんな気も知らぬ妻の言葉は、能天気な響きを持って夫に伝わった。今度の休みに、一緒に展覧会へ行こうという妻の申し出が、若かりし木根塚老人の癇に障った。

「そんな暇はない」短く言って、クローゼットを閉めた。

 妻の横を通る際、何か言いたげな気配が頬に当たった。だが妻からは、それ以上食い下がるような言葉はなかった。


 翌朝居間に行くと、ユイが元の位置に座っていた。

 朝食の準備はやはりない。何かしたら舌を噛んで死んでやると伝えてあるから、彼女には何も出来ないのだ。勝手に庭を除草された怒りは、鬱陶しいアンドロを封じ込める妙案を木根塚老人にもたらした。無論、失ったものの方が遥かに大きかったが。

 ユイは瞼を上げた。だが、何も言わない。何も言えない。老人は口を開きかけるが、すぐに噤んだ。

 次男の部屋で何をしていたのか?

 一言で済まされる質問はしかし、口にするには重かった。老人は彼女の前を通り過ぎ、冷蔵庫を開けた。


 画面の向こうの佐藤医師が、渋い顔を浮かべる機会が多くなった。

「一度、病院へ来い。こりゃ本当に検査が必要だ」

「いらん。ただの風邪だ」

「勝手に決めるな。お前は医者か?」佐藤医師の唇の間から煙が立ち昇る。彼は眉間に皺を寄せたまま、手元へ目を落としている。自身の端末を見ているのだろう。煙の臭いが鼻に付く。気のせいではない。「血圧が特に高い。一時は持ち直したってのに、一体どうしたんだ?」

「どうもしない。元通りになっただけだ」

「嫁さん似のアンドロは? 食事を作ってくれてたんだろ?」

「忙しいから切るぞ」

「こないだ帰ってきたっていう倅もいるんだろ? 何か関係あるのか?」

 老人は一方的に回線を切った。すぐに医師から着信があったが、無視した。

 居間の方から笑い声が聞こえる。行ってみると果たして、ソファーに寝転がった次男がTVを観ながらケラケラ笑っていた。画面に映るのは、大昔のB級映画である。

「外で吸えと言っただろ」次男が指の間に挟んだ紙巻き煙草を睨みながら、老人は言った。

「いいだろ、寒いんだし。後でちゃんと換気するよ」

 テーブルの上には、ビールの空き缶が三つ転がっている。いずれも真ん中が凹んでいた。

「それより、酒がもうないぜ。買ってきてくれよ」

「自分で行ったらどうだ」

「有名人だからな、俺は。ここにいることが世間に知れたら、親父に迷惑が掛かっちまう」

「それなら心配に及ばん。既に迷惑は掛かっているし、世間にも知れている。少なくともこの近所には」

「サインでも頼まれたか?」

「頼まれるほどのことをしているのか、お前は?」

 次男が舌打ちする。彼は身を起こした。

「彼女に行かせよう。買い物ぐらい、いいだろ?」

 老人は、充電椅子に座って目を瞑るユイを見やった。それから鼻を鳴らした。

「好きにしろ」

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