久しぶりの実家は、記憶の中のそれよりも小さく見えた。大尉は口笛を一筋吹き、黒ずんだ表札の掛けられた門を潜った。

 玄関の鍵は空いていた。不用心に思いながらドアを開け、玄関に入る。

「ただいま」

 応答はない。暗く湿った空気の向こうに、人の気配は感じられない。

 大尉はブーツの紐を解いた。輝きを失った廊下の床板が呻くように軋んだ。一歩進むごとに、彼は眉間に皺を寄せていった。台所に入ると、いよいよ鼻をつまんだ。

 流しには洗い物が山を作っていた。ゴミの詰まったビニール袋の玉が、五つも転がっている。目が暗さに慣れていないせいで黒点がちらついているのかと思っていたが、ちらつきの正体は虫だった。蠅にコバエ、何だか得体の知れぬものまで飛んでいる。おまけに異臭である。黴臭さと腐敗臭が手を取り合って台所中を満たしている。台所だけではなく、居間にも臭いは漏れている。居間は居間で、コンビニ弁当やカップ麺の空き容器なんかがあちらこちらに転がっていた。

 大尉は鼻をつまんだまま舌打ちし、目を走らせた。住人の姿はどこにもない。ゴミの中に突っ伏して死んでいる様が脳裡を過ったが、その姿すら見当たらない。

 シーツを被せられた家具が部屋の隅に置いてある。形や大きさからして、椅子に座った人のようにも見える。大尉はシーツに手を伸ばす。一息に剥がそうとして、寸でのところで思い留まる。他の場所も探すべきだと己に言い聞かせる。

 風呂場やトイレにもいなかった(そしてそれらの場所も漏れなく異臭が充満していた)。和室を覗くと、畳の向こうにようやく、小さく丸まった背中を見つけた。大尉は和室に踏み入った。以前は両親の寝室だった部屋には、見慣れない仏壇が置かれていた。そちらへなるべく目を向けぬよう、大尉は進む。

「こんなとこで何やってんだ」縁側へ出るなり、大尉は背中を丸めて座る老人に声を掛けた。

 だが老人は、草木が一掃された殺風景な庭を向いたまま、何も答えない。

「おい、ボケちまったのかよ」

 肩を揺するとようやく、老人は虚ろな眼を大尉の方へ向けてきた。冗談が冗談でなかったのでは、という危惧が大尉をたじろがせた。敵のどんな奇襲作戦にも動じず、戦線の維持に貢献してきた大尉を、である。

 大尉は咳払いした。それから、左胸に並ぶ勲章が相手の目に入るようわざと胸を張る。

「久しぶりだな、親父」


 夢か現か判断しかねた。画面の向こうに映る姿を見慣れていたせいで、目の前に存在しているのが嘘のようだった。

 何年かぶりに対面する次男は、連日何かにつけてテレビに映る〈西部戦線の英雄〉と同じ笑みを浮かべていた。同じ類の笑みではなく、寸分違わぬ同じ笑みである。見たくなくてもスイッチを切るわけにはいかず、木根塚老人は顔を逸らすしかなかった。

「無視かよ」

「何の用だ」老人は言った。久々に発する声は、木枯らしのように渇いていた。

「何の用だはないだろ。息子が久しぶりに帰ってきたんだぜ? もう少し喜んでくれたっていいだろ」

「喜ばしいことなど何もない」荒野のようになった庭を眺めたまま、老人は言った。「自分の母親の葬式にも出ず他人を殺していたお前には、この家の敷居を跨ぐ資格はない」

「ほう。資格がいるほど大層な家だったのかい、ここは。あんまり臭いから、もう誰も住んでいないのかと思ったんだが。こんな惨めったらしい家にした張本人には、その『敷居を跨ぐ資格』ってのはあるのかい?」

「黙れ」

「母さんが生きてた頃は、こんなんじゃなかった。決して広くもないし、日当たりもよくなかったが、窮屈には感じなかった。それが今じゃどうだ。まるで穴蔵だ。防空壕だ。早くも空襲に怯えているのかい、親父? 安心しなよ。敵は俺たちが抑えている。東京までは入って来られないからさ」

「黙れ」

「それから、勘違いするなよ」次男からスッと笑みが消えた。彼は老人に顔を寄せる。「俺がしているのは人殺しじゃない。国を守るための〈戦争〉だ。母さんだって、それは理解してくれていた」

 次男の影が、老人の視界から外れた。

「しばらく仕事を休むことにしたからさ。厄介になるぜ」

「ふざけるな。他を当たれ」

「ここは俺の実家だぜ?」

「ワシの建てた家だ」

「そして俺の生まれ育った家だ」次男は鞄を背負い、縁側を後にする。「掃除、手伝ってやるよ」

 言い残して歩いて行く息子の背中を、老人は肩越しに見送った。やがて彼は、庭へ目を戻した。何もなくなってみると、やけに広く感じられた。

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