6
木根塚老人の妻は、味噌汁を作るのが上手かった。料理の腕全般が良かったが、取り分け味噌汁に関しては、彼女が作ったものより美味いものを老人は知らない。
もっとも、そう気付いたのは妻が亡くなった後のことだった。
会社での地位も上がり仕事が忙しくなると、妻の手料理どころか、家で食事をすること自体が減った。朝は支度を待っている時間が惜しかったし、夜はすぐにベッドへ入りたかった。一秒でも長く仕事の方を向いておく必要があった。妻は、夫がどんなに遅く帰ろうと、起きて待っていた。必ず食事はいるかと訊ねた。予め夕食はいらないと伝えてあっても、律儀に用意して待っていた。いつ何時、夫が夜食を所望するかわからないからだ。
妻の問いを、若き日の老人は疎ましく思った。ネクタイを解きながら、蠅を追い払うような返事ばかりをした。家族を養うために遅くまで働く夫に労いの言葉一つ掛けられんのかこの女は、と憎さを覚えたことも一度や二度ではなかった。
夫が食べなかった味噌汁を、妻がどうしていたかはわからない。少なくとも翌朝には、台所は綺麗に片付いていた。
懐かしい匂いがした。
寝室を出た木根塚老人は、台所から起こる物音を耳にした。まだ夜が明けきらず薄暗い廊下を進んでいく。LEDの灯りに照らされた台所には、ユイが立っていた。
「おはようございます、お父さん」
茫然と立ち尽くす老人に、彼女は言った。老人は老人で、そこに別の人物の影を見ていた。だが、幻はすぐに立ち消える。
「何をしている」
「朝食を作っています」
「見ればわかる。なぜ作っているのかと訊いている」
「昨晩のような事故を防ぐためです。お父さんへのリスクを加味した結果、〈料理はするな〉という命令より〈わたしが調理を行う〉というプログラムの優先度が上位に来ました」
「それもアシモフ・プロトコルか」
「そうです」
「便利な方便だな」
すっかり用意された食事を無碍には出来ず、結局それが朝食となった。不味くはなかった。いや、正直申せば、自分で作るよりも美味かった。中でも味噌汁は、危うく声が漏れそうになるほどだった。
「如何でしょう?」
妻が言ったように思えた。だが老人は、すぐに緩んだ心を引き締める。
「悪くはない。及第点といったところか」
「ありがとうございます」ユイは頭を下げた。
老人は鼻を鳴らしてから、味噌汁をもう一口啜った。
「こいつは驚いたな」次の定期検診の日、佐藤医師が画面の向こうで目を瞠った。「数値が改善されてる。機械の故障かな」
「健康になったということだ。素直に認めろ」老人は言った。
「変な薬でも始めたんじゃないだろうな?」
「何も呑んでおらん。普通に生活しているだけだ」老人は鬱陶しく思いながら言った。彼は佐藤医師の処方した薬さえ呑まないほどの薬嫌いである。死ぬか薬を呑むかの二択を迫られても、老人が前者を選ぶことは、誰であろう佐藤医師が一番よく知っているはずだった。
「例の〈嫁〉のお蔭かな」と、佐藤医師が他意を含んだ笑みを浮かべた。「大切にしろよ」
「ふん」老人はそっぽを向いた。
事実として、ユイの食事を摂るようになってからこっち、身体の調子は良くなっていた。今までは節々に鉛の重りを巻いていたのではと思うほど、身も心も軽かった。目眩もしばらく感じていない。もっとも、それらの変化(というより改善)について老人は、食事による効用よりも、食事の準備をせずに済むようになったことで疲労が少なくなったため、と考えた。慣れない家事は、自分にとって思いのほか大きな負担だったのだ、と。
思えば、食事の準備は最後の砦だった。体内に入ってくるものの調理を任せたとなれば、意固地になって他の家事を渡さないのも馬鹿らしくなった。
やがて木根塚老人は、全ての家事をユイに委任した。
ユイは与えられた仕事を卒なくこなした。荒を見つけて小言の一つも言ってやろうと眼を光らせる老人だったが、口を挟む隙が全くなかった。掃除をすれば塵一つ残さない。シャツを洗えば眩しいほどの白さが戻る。
まるで己の身が清められていくようでもあった。清潔な家に住み、まともな恰好をするだけで、人はここまで変わるのだと老人は思い知った。
一方で、このままではいかん、という気持ちも存在した。初めは小さなシミだったのが、日を追うごとに広がっていき、今では目を背けるのが難しいほどの大きさとなっていた。慣れない家事には無意識に疲れを重ねていた老人だったが、彼は元来、何もせずにはいられぬ性格だった。
夕暮れ時、彼は縁側に立って庭を眺めた。
橙色に染まる芝生は、無秩序に伸び過ぎている。最後に手入れをしたのがいつだったか、もう思い出せない。名を知らぬ花が育つ花壇にも雑草がちらほら見受けられる。名前を調べることと同様、雑草を抜こうと思うのだが、いつも忘れてしまう。
「冷えてきましたので、そろそろ閉めましょう、お父さん。お身体に障ります」
静々とやって来たユイが言った。
「大きなお世話だ」
老人は踵を返し、縁側を後にした。硝子戸の閉まる音を背中で聞いた。
この時彼は、一旦足を止め、振り向くべきだった。縁側より闇に沈みゆく庭を、主人が眺めていた手入れをしていない庭を見つめるアンドロの姿を目にしていれば、その後の出来事が変わったかもしれないのだ。
少なくとも、彼の大事な領分を守ることだけは出来たはずである。
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