「また血圧が上がってるな」

 画面の向こうで佐藤医師が言った。実家の病院を継いだ彼とは高校以来の付き合いである。お蔭で木根塚老人は、近所でも名高い佐藤医院院長直々の定期検診を週に一度、受けることが出来ている。同時に医師は、老人にとってほとんど唯一の〈友人〉と呼べる存在であった。

「ちゃんと栄養のバランスを考えた食事を摂れ。不摂生ばかりしてると、年寄りはすぐ身体に出るぞ」

「年寄りに年寄り呼ばわりされたくない」

「年寄りは年寄りなんだから仕方ないだろ。いい加減、老いを認めろ」言いながら、医師は画面の向こうで煙草を吹かす。「一度、うちへ来て検査を受けろ。画面越しじゃわからないこともある」

「どこも悪くない。至って健康だ」

 手首に巻いた測定器を外しながら老人は言った。妻が亡くなってから、佐藤医師に無理矢理渡された器具である。「顔見知りに孤独死されると寝覚めが悪い」というのが医師の言い分だった。

「倒れてから泣きを見ても知らないぞ」

「泣きを見る暇があるならまだ大丈夫だろ」

 老人の言葉に、医師が鼻を鳴らした。鼻孔から、白い煙が立ち昇る。

「しっかりした料理を作ってくれる嫁でも来れば問題ないんだがな。そういや最近、若い女が出入りしているそうじゃないか」

 病院は近所の人間が集まる場とあって、噂もすぐ耳に入るらしい。

「ありゃ違う」老人は顔を顰めた。「倅が勝手に送りつけてきた人形だ。最近は買い物に行かせてる」

「なんだ、アンドロか。死んだ嫁さんにそっくりだって、評判になってるぞ」

 今度は老人が鼻を鳴らす番だった。

「まあ何にせよ、傍に誰かがいるのといないのとではやはり違う。気持ちがな。年寄りは気持ちの変化が身体に出やすい」

「〈いる〉んじゃない、〈ある〉んだ」と老人は、今は空いているユイの充電椅子に目をやった。「機械はただ、置いて〈ある〉だけだ」


 テレビと食器、時々味噌汁を啜る音だけが響く。

 老人の食卓は静かである。会話可能なAIを搭載したアンドロがいても、それは変わらない。話し掛ける老人でもない。だが、何もせず後ろに立っていられるとなれば、一声我慢せずにはいられない。

「おい」

「おかわりですか?」

「気が散るからどっか行け」

「ですが、お父さんの傍にいるのがわたしの役目です」

 何度も聞いた言葉に、舌打ちが出る。老人は空いた椀を手に、味噌汁を注ぎに立った。

「わたしが」

「いらん」

 コンロに置いたままのホーロー鍋に手を伸ばす。

 その途端、急に視界が暗くなる。足元が覚束なくなる。前にのめると、伸ばした手が鍋の取っ手に引っ掛かった。梃子の原理で持ち上がる鍋が、暗がりの向こうでスローモーションとなって見えた。

 腕に味噌汁が掛かったとしても、冷め始めていたはずだから、そう大事には至らなかったかもしれない。だが、歳を取った身では何があるかわからない。佐藤医師も言っていた通り、老いを認めるべきなのだ。老人は目を瞑りながら、ある程度の怪我は覚悟した。佐藤医院の夜間診療窓口まで頭に浮かんできた。

 ところが、火傷どころか味噌汁の一滴も、老人の身体には掛かっていなかった。気付けば彼は台所の床に、横倒しになっていた。ホーロー鍋の転がる音が止んだ時、自身がユイの腕の中にいることを知った。

「……苦しい。離せ」

「お怪我はありませんか、お父さん?」

「離せと言っている」

 老人はアンドロを押し退け、身体を起こした。続いてユイが起き上がる。その左腕には味噌汁と思しき沁みが広がり、うっすら湯気が立っていた。老人は小さく舌打ちした。流しの上に干してあった布巾を掴むと、顔を背けたままユイに差し出した。

「大袈裟なんだ。たかが味噌汁こぼしたぐらいで」

「すぐに掃除します」

「まずは腕を拭け」

 床を拭こうとしていたユイの手が止まる。

「故障でもされたら、こっちが迷惑だ」

「それは命令でしょうか」

 老人は何も答えない。

 テレビでは、西部戦線のエースパイロットが国民へ向けて「勇気を与えるため」のメッセージを述べていた。

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