妻の葬儀の日、木根塚老人は、長男と長女が台所で話し合うのをたまたま耳にした。

「そんな話、父さんが了解するかな」

 長男が言った。盗み聞きは趣味ではなかったが、自分が話の俎上に上がっているのがわかった以上、素通りするわけにはいかなかった。

「了解してくれなきゃ困るわ」と言ったのは長女である。「もう面談の日取りだって決めたんだから。お父さんには話だけでも聞いてもらうわ」

「お前、勝手にそんなこと……。そういうの、父さんが知ったら余計に意地張るぞ」

「だったら兄さんは、他に何かいい案を持ってるの?」

 長男は黙った。口では長女が、兄妹の誰よりも強い。

「父さんが、この家を離れるとは思えないんだよなぁ」

「じゃあ、何? わたし達の誰かがここに越してきて、父さんと暮らさなきゃならないってわけ? 冗談。向こうのお義母さんが何て言うか。また嫌味言われちゃうわ」

「声が大きいよ」

 老人は咳払いでもしてやりたかったが、やめた。

「何も、一緒に暮らさなきゃならないわけじゃない。月に何度か、一度でも、顔を見せに来るだけでもいいと思うんだ」

「休みの日に? 片道小一時間も掛けて? 旦那も子供も嫌がるわよ。こんな湿っぽい家」

「なるべく俺が来るようにするよ」

「大丈夫なの? 兄さんの方が遠いじゃない」

「だってお前は嫌なんだろう」

「嫌とは言ってないじゃない」

 それに、と長男が言うか言うまいか迷ったように言葉を継ぐ。

「奥さんに先立たれた男って、そう長生きしないって言うじゃないか」

 木根塚老人の視界は、大きく揺れた。

「まあ、よくそう言うけど」

「惚けてないだけまだマシさ。この家で一人、余生をゆっくり過ごさせてやろうよ」

 初めは毎週のように来ていた長男家族は、月一回のペースとなり、家族で来ていたのが長男だけで来るようになり、やがて二ヶ月に一遍来るか来ないかになった。長女からは体調を心配する形ばかりの電話しかなかった。葬式にも顔を見せなかった次男は、音信不通のままだった。


 テレビでは相変わらず、「がんばろう日本」のスローガンが連呼されている。「力を合わせてこの試練を乗り切ろう」「絆の力で日本に勝利を」。政府広報のCMが、最近では普通の宣伝と交互に流れるようになった。

 ニュースでは決まって、各方面の戦況が報じられる。北から始まって時計回りに東、南と巡り、最後に西部戦線となる。芳しくない他の戦線に比べ、西部守備隊の活躍は目覚ましく、割かれる時間も四つの内で断トツだ。いつものように「エースパイロット」として無人戦闘機の操縦士の顔が映し出されたところで、木根塚老人はテレビを消した。

「洗い物はわたしが」

 昼食の空いた食器を積み重ね、テーブルを立とうとした老人にユイが言った。

「割るんじゃないぞ。一枚でも割ったら、お前を返品してやる」言いながら、老人はソファーに寝転んだ。

「食べてすぐ横になるのは、消化を鈍らせます」

「黙って皿を洗え」

 ややあって、水の流れが聞こえてきた。触れ合った食器が硬い音を立てる。老人は目を瞑った。

 家事の全てを任せる気にはなれないが、自分でやるのを面倒に感じていたいくつかの仕事に関してはユイにやらせるようになった(それはいずれも水仕事だった)。老人は、幾分か意固地になっていた己の姿を認めた。意地でも機械に頼らぬとしていたのを、少し考えを柔らかくした。自分が楽出来るように雑務をやらせる。そのように考えると、邪魔に思えたアンドロにも一筋の有用性が見出せた。だからといって、彼女を〈同居人〉として扱う真似はしなかった。あくまで雑務をこなすための機械として、そこに〈ある〉という認識を持っていた。老人は、自身の認めた雑務以外は、決して触れさせなかった。

 特にユイが不可侵を厳命されたのが庭に関することである。

 猫の額ほどささやかな広さの庭に、ユイは足を踏み入れることを禁じられた。それも、かなり厳しく。

「妙な電磁波で草花が枯れかねん」それが老人の言い分だった。

「そのような有害電波は、わたしのボディからは発せられておりません。どうしても疑わしい場合は、端末へ仕様書を転送します。お父さん」

「ワシはお前の父親ではない」

「ユーザー呼称を〈お父さん〉に設定したのはお父さんです」

「黙れ、屁理屈」

 そんなやり取りを何度か繰り返したためか、ユイが庭へ下りることはなかった。

 老人は目を開けた。床に映る影の向きが変わっていた。いつの間にか寝てしまったらしい。自分では掛けた覚えのないブランケットをソファーの端に除け、老人は起き上がった。

 縁側に立ち、身体の中心を前へ押し出すように伸びをする。眠りの気怠さと目眩が残ったままだが、サンダルを突っ掛け庭に降りる。花壇の前に屈み込むと、芽は着実に、その背丈を伸ばしていた。

 老人は舌打ちした。端末を持ってくるのを忘れた。この芽をカメラで撮って、画像検索を掛けようと考えていたのである。毎回、花壇の前に来ると思い出す。インプラント端末ならば、こんな忌々しい思いもせずに済むと思うと、余計に腹が立つ。老人は、冬に芽吹くこの花の名をまだ知らない。

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