第5話 何だかもどかしい

 週末にパルシアンの黒い家リーベン・ヴィラに帰るのは、もはや習慣になっている。

 帰ってきて、ここの景色を見て、気持ちをリセットして。

 そしてまた、あの石造りの美しい街、ロワネスクに帰る。


 いつになったらここから出られるんだろう、早く外の世界へ行きたい。

 ――そう思っていたはずなのにな。いつしかここは、私にとって『帰る場所』になっている。


 そんなことを考えながら、バルコニーから見える裏庭を見渡す。

 今日は新月のせいか、一寸先はもう真っ暗闇だ。


「――マユ」


 声がして振り向くと、いつもの場所――扉のすぐ傍、大きな絵の脇にセルフィスが立っていた。

 いつも、こうやっていつの間にか現れるのよね。


「いいところに来たわね、セルフィス!」

「何がいいところなのか解りませんね、マユ」


 私の出で立ちを見て、セルフィスが怪訝そうに目を細める。


 最近……と言っても、学院に通うようになってからなんだけど、セルフィスは一カ月以内にはこうして夜、しかも月が出ていない時間帯に現れる。

 こちらの世界の月は本当に大きくて綺麗で、かなり明るい。多分、誰にも見つからないように徹底してるんだと思うけど。


 本来なら、お風呂に入り、ヘレンにマッサージをしてもらって後は寝るだけ、という状態。

 必然的に、私はネグリジェにガウンを羽織った状態でいることが多いのだけど。


 今日は新月だし、きっとセルフィスはやって来るに違いない、とわざわざ練習着に着替え、その上にガウンを羽織り、さらに厚手の冬用のコートを羽織った状態で待ち構えていた。

 正直言って、ちょっと暑い。せっかくお風呂に入ったのにまた汗をかきそう。


「どうしてそんな着膨れているんです?」

「セルフィスにダンスの相手をしてほしいの」


 これまた厚手の冬用の皮手袋をはめた指をピッと1本立てる。


「私の魔精力が絡みつくとマズいんでしょ? だいぶん制御できるようになったし、ダンス中はセルフィスの名をうっかり呼ばないようにするわ。これでどうにかならないかしら?」

「……理由を聞いてもいいですか?」

「ええっ!?」


 ひょっとして、大公の間諜のくせにディオン様の誕生日パーティのことを知らないのかしら。そんな訳ないわよね。


「一週間後、大公宮で舞踏会があるのよ」

「それは存じています」

「毎日アイーダ女史相手に練習してるけど……でも、よく考えれば他の人と踊ったこと無いし。……あ、モニカ先生と踊ったわね」

「……」

「だからよ!」

「解りかねます」


 またしてもキッパリ。もう、どうしてこんなに頑固なのかしら。

 それでもって、いつもの通り2m以上距離を詰めてこないし……。


「だーかーらー、私はディオン様の婚約者だから、まずは皆の前で最初にディオン様と踊らないといけないの! 失敗しちゃったら怖いじゃない」

「つまりは本番のための練習台、ということですか」

「そ、そうよ……最初からそう言ってるじゃない」


 まぁ正直言えば、まったくセルフィスに近づけないというのは何だか壁を作られたようで淋しい、というのもあるんだけど。右手で拒絶されたあの日から、何だか胸がモヤモヤするのよ。

 目の前にいるのに届かないのは、何だかもどかしくて苦しい。前はそんなこと感じなかったのに……。


 きっと、「触るな」と言われたのが逆に火をつけてるんじゃないかと思うの。

 ほら、「見るな」って言われたら余計に見たくなるでしょ? あれと一緒よ。

 だから一度ちゃんと触っておけば、満足して落ち着くと思うのよ。


 だけど、ただ「触らせて」と言うのは何だか痴女みたいだし、変だなって。

 ちょうど舞踏会があるし口実に使わせてもらおうと思ったワケ。


 セルフィスは腕を組み、しばらく考え込んだあと、

「ご要望にお応えしたいのはやまやまなのですが」

と断りのニュアンスで話し始めた。


「今度は、何?」

「……なぜそう、怒っていらっしゃるんです?」

「セルフィスが私に触られるのを嫌がるからよ!」


 私って疫病神か何かかしら!?と詰め寄ると、セルフィスはクスッと笑い、


「マユはわたしに触ってほしいんですか?」


と聞いてきた。


「えっ……なっ……!」


 何、その、ちょっとエロい台詞は!!

 しかもいつになくフェロモンが出ている気もする。金の瞳が甘く溶けだしている。

 浅黒い肌と大きな口、長い黒髪とも相まって、何というか……ジゴロみたいよ。間違っても王子様じゃないわ!


「そーゆー意味じゃないわよ!」

「じゃあ、マユが私に触りたいんですか?」

「うー、そうだけど、そうじゃないっていうか」

「わたしはマユに触りたいですよ」

「へっ!?」


 急に何か爆弾を放り込んできた! 聞き間違いじゃないよね?


「ちゃんと触れた方が魔精力が制御できているか解りますし。アイーダ女史も、マユを診るときは必ず触れるでしょう?」

「え、あ、そっち……」


 ガクーッと肩から力が抜ける。

 もう、どうしてそういう回りくどい言い方をするの。変に焦っちゃったじゃないの。はぁ、暑ぅ~。汗かいちゃったわ。

 ……って、あ、そうか。暑いのはこの厚着のせいか。馬鹿だわ、私。


「……マユ、少々つつかれたからと言ってそんなに顔に出しては駄目ですよ?」

「どうしてよ?」

「公では何食わぬ顔でやり過ごさなければならない場面も多いからです」

「今はオフだからいいのよ。私だって、公の場ならちゃんとするわよ」


 どうやらセルフィスは踊ってくれる気はないようなので、手袋を外す。

 コートを脱ぐと首回りにすうっと涼しい風が流れ、思わず安堵の吐息が漏れた。

 ああ、よかった。変な動悸はやっぱりこの厚着のせいだったわ。


「……それ以上脱ぐのはやめてくださいね」

「え、どうして?」


 ガウンに手をかけたところでピシッとセルフィスに止められる。


「ネグリジェじゃないわ。練習着よ?」


 ついでに言うなら、ザイラ印のブラジャーもちゃんと付けてるわよ。


「汗をかいたのでしょう、透けています」

「へ……」

「さすがにその姿を見せるのはマズいのではないでしょうか?」

「え、あ、そうね!」


 慌ててバッとガウンの前を閉じて体を隠す。

 練習着は余計な飾りがついていない分、身体のラインがくっきり出る。それが汗で透けているとなると、さすがに艶めかしすぎるわよね。


 でもそこで、ふと気づいた。

 ミーアの練習に、シャルル様は付き合ってあげているという。それは作法だけではない、ダンスだってある。ミーアは当然練習着だろうし、汗だってかくだろう。

 ……恥ずかしくないのかな? いや、この世界は谷間を出してナンボ。そうやって異性を惹きつけるのはいわゆる常套手段なのよね、きっと。それが手練手管というやつかしら?


「マユも今日は元気なようですし、安心いたしました」

「へ……」

「それでは、わたしは帰りますね」

「ちょっと待ちなさい」


 扉から出て行こうとしたセルフィスをビシッと引き留める。

 うっかり色々と惑わされるところだったけど、そもそものところを聞いてないわ。


「手袋しても厚着しても触ったらダメな理由、聞いてないわ」

「こだわりますね。そんなにわたしに……」

「違うったら! さっき何か言いかけたじゃない! 誤魔化されないわよ!」


 人差し指をビシーッと突きつけると、セルフィスは肩をすくめて両手を上げ、ふうう、と溜息をついた。

 余計なことを言うとまた揚げ足を取られるので、黙って両腕を組み、ソファに腰かける。そしてじっと、セルフィスを見つめた。

 さあ、話を聞かせてご覧なさい、という無言のアピールだ。


 そんな私を見て、どうやらセルフィスも観念したらしい。いつもの身体の前で両腕を組むポーズになり、軽く会釈をした。顔も、いたって真面目だ。


「もうお気づきかと思いますが、わたしは創精魔法の魔導士です」

「それは……えっ、創精魔法?」


 セルフィスが最初に私に魔法を見せてくれたときは……ああでも、そっか。あれは手順を見せただけか。

 それにすごく基本的なものだったしね。


「はい。そして私が会得している魔法の一つに、『影』があります」

「影……」


 確か、魔法学の授業で例として挙がってたわね。魔物に遭遇したとき、自分の影を作って魔物が気を取られている隙に逃げる、とか。そういう使い方をするって聞いた気がするわ。

 かなり高度であまり使える人はいない、と聞いていたけど。なるほど、間諜ともなるとそういう技も必要なのね。

 ……って、えっ、まさか?


「今も、影!?」

「はい」

「だって、喋ってるじゃない! すごくリアルよ!」

「可能なんです、そういうのも」

「ええええ……さ、触ってみてもいい!?」

「だから駄目ですってば」


 ソファから立ち上がりかけた私を、セルフィスが右手でビシッと制する。


「マユの魔精力は強すぎます。『影』が壊れますから」

「じゃあ私、セルフィスに触れないの?」


 本体のときは魔精力が絡みつくから駄目。影のときは影が壊れるから駄目。

 八方塞がりじゃないの。


「はい。……そんなに触りたいんですか? マユのエッチ」

「だから、そういう意味じゃないわよ!」


 シリアスな雰囲気ぶち壊しだわ!

 でも……そうか。私は、セルフィスにこれ以上近づけないのか。

 セルフィスが「いい」と言わない限り。

 セルフィスの仕事の邪魔になっちゃうから。そして、私のところに来ているのがバレたら、きっともう二度と会えなくなるから。


「ロワネスクにはあちらこちらに魔道具がありますし、監視システムもあります。それらの干渉を避けて『影』を維持するのは難しいです。そして、本体でフォンティーヌ邸に潜入するのはリスクがあります」

「だからこっちにしか来ないのね」

「そうです。そしてここはロワネスクからは離れていますから、物理的に来るのが難しいこともあります」


 言われてみれば、週末ごとに馬車で四時間かけて私はここに帰ってきている。

 前なら私の様子を見ることがそもそもの任務だったけど、今は違うものね。ここに来ているのは、あくまでセルフィスの厚意。本来の仕事の合間を縫って来てくれているのだから。


「本体はどこにいるの?」

「内緒です」

「ケチ」

「意識を飛ばしている状態なので無防備なんですよ。イタズラされても困りますし」

「しないわよ!」


 何で茶化すのかな。そうじゃなくてさ。

 ほら、例えばヘレンとか、アイーダ女史とか。親しくなったきっかけは、やっぱり触れ合いだったと思う。

 初めて「マユ様」と呼んでくれたときのヘレンの手の温かさ。

 自らマリアンセイユに付き従ったのだと訴えてくれたときのアイーダ女史の手の力強さ。

 そういうの、大事だから。今でも覚えてるから。


 だから、肝心なことを教えてもらえないのは「これ以上は駄目です」とセルフィスに線を引かれているようで、淋しい。


「そう。……残念だな、セルフィスの弱みが掴めると思ったのに」


 無理矢理笑顔を作り、わざと大きな声を出してそう言うと、セルフィスがフッと柔らかく微笑んだ。


「でも、便利ですよ? いざというときはすぐに来れますし」

「そうなの? だけど、いつが『いざ』かわからないじゃない」


 テレパシーが届く訳じゃないんだからさ。

 結局は解消されなかった胸の空洞を抱えながら呟くと、セルフィスは「おや」という顔をした。


「わたしは間諜ですよ? マユの身辺の情報も取得しています」

「だから?」

「だから解りますよ、きっと。マユのことなら」


 そう言って微笑むセルフィスは、いつものちょっと上から目線な感じではなく、私を慰める感じでもなくて――二人の間に引かれていた線が少し薄くなったような、そんな気がした。

 だけど、決して消えてはいないことも――この先消えることもないんだろうなってことも、同時にわかってしまったんだけど。

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