間話5
レグナンド男爵家
「まーったく、面倒なことになったわい」
ロワネスク南西にある、レグナンド男爵邸。
その日、夜も更けてから邸宅に戻ってきたレグナンド男爵は、その巨体をブルルと揺すりながらドシドシと廊下を歩いていた。
その顔はひどく歪み、ギラギラと脂ぎっている。薄くなった頭髪は汗でベットリと張り付いて乱れ、今にも湯気が上がりそうだ。
「……お父様、お帰りなさいませ」
レグナンド男爵が胸元を緩めながら居間への扉を乱暴に開けると、ほっそりとしたひどく小柄な少女が深くお辞儀をしていた。流行りの可愛らしい花やレースをあしらったギャザーたっぷりのドレスに身を包んでいるものの、貧相な少女では服に埋もれている感があり、全く似合っていない。
レグナント男爵は「フン」とだけ言うと、ドカッと乱暴にソファに腰かけた。少女は向かいに座ることは無く、傍で立ったままだ。
「ミーア。厄介なことになったぞ」
「え?」
少女がゆっくりと顔を上げる。男爵家に引き取られてから磨き上げられ肌は陶器のように滑らかだが、その瞳には精気が宿っていない。
男爵家に引き取られたあとも、ミーアは城下町に繰り出して街の人々の怪我を治し続けていた。それは、彼女こそ『聖女』だと街の人間に噂を広げるため。男爵の命令で、いわば“点数稼ぎ”をさせられているのだ。
「マリアンセイユ・フォンティーヌがアルキス山のホワイトウルフの異常種を倒したそうだ」
「えっ……」
「フォンティーヌ隊が『蘇りの聖女』と祀り上げ、その噂が城下町のあちこちへと飛んでいる。平民だけじゃない。子爵夫人も貴族の婦人方を集めた茶会を催し、積極的に広めているようだ」
「……」
「ガンディス子爵も上流貴族の邸宅をあちらこちらと訪ねていると聞く。恐らく根回しだろう。令嬢を学院に、」
「あ、あの!」
ミーアが珍しく男爵の言葉を遮った。「ああん?」と不愉快な様子でミーアを見上げた男爵は、娘の必死な様子に一瞬黙り込んだ。
「確か、マリアンセイユ様はフォンティーヌ領のパルシアンで眠ったままだとお聞きしましたが……!」
「護り神とやらに起こされたそうだ。なぁーにが護り神だ。そんな嘘くさい存在まででっち上げて……その異常種の出現とやらも、フォンティーヌ隊の仕込みじゃねぇだろうな」
ケッと唾を吐き捨てるかのように男爵が悪態をつく。
その傍で、ミーアはそのターコイズのような透き通った瞳をそっと伏せた。肩を震わせ、怯えたように身を縮こまらせている。
そんな娘の様子に、レグナント男爵は軽く幻滅を覚えた。ふはあああっとシガーの匂いが染みついた息を大きく吐く。
「おい、ミーア! 怖気づいてる場合じゃないぞ!」
「は……はいっ!」
ミーアはガバッと顔を上げると、ピンと背筋を伸ばした。これ以上怒られまい、と姿勢を正す。
「いいか? 『聖女』はお前だ。シュルヴィアフェスと同じように治癒と炎の力を持っている」
「は、はい……」
「マリアンセイユが学院に乗り込んでこようが、お前の方が『聖女』に相応しいのだ。これまで以上に町で治癒に……」
「あの、お父様! お願いがあります!」
ミーアは勇気を振り絞ると、グッと両手を握りしめてソファの傍にひざまづいた。ウルウルと瞳を潤ませ、レグナンド男爵をしっかりと見上げる。
孤児院上がりの娘がこんなにまっすぐ貴族である自分を見つめるのはひどく珍しい。ましてやお願いなど、ここに来てから初めてのことだ。
「……何だ」
聞くだけ聞いてやる、と吐き捨てるように言うと、ミーアはじっと見上げたまま全く視線を逸らさなかった。
「レグナンド家の別荘に行かせて頂けないでしょうか?」
「別荘? グレーネ湖のほとりか?」
「はい」
ゆっくりと、だが力強く頷く。
「魔導士たるもの、自然と触れ合い自然を理解しなければなりません。マリアンセイユ様がフォンティーヌの森に籠ってらしたのもそのため」
「あーん? あれは娘の魔精力が迷惑をかけないよう、隠居させてたんじゃないのか?」
「それもあるかもしれませんが、そのフォンティーヌの森がマリアンセイユ様を癒し、目覚めさせたのかもしれません」
いつになく流暢に喋る娘。これが、あの孤児院から拾ってきたみすぼらしい少女だっただろうか?
目を見張る思いでレグナンド男爵はミーアをまじまじと見つめる。
「孤児院にいた頃、届け物をしたり原料を仕入れるために辺境の村に行くこともたびたびあったのですが、その魔精力の豊富さ、清廉さはこのロワネスクとは比べ物になりませんでした」
「……」
「いま一度、自分の魔精力を鍛え直したいのです。このままでは、豊富な自然とその魔精力を味方につけたマリアンセイユ様には勝てないかもしれません」
「……」
レグナンド男爵家は、かつて『聖女の魔法陣』から魔獣を蘇らせた少年を輩出した家柄。
何代かごとに魔精力の強い人間が現れ、そのたびに大公家に申し入れをしていた。上流貴族にも劣らぬ実力があるのになぜ下流貴族の、しかも最低の爵位のままなのか、と。
上流貴族の一員に加わりたい――そもそも『聖女の魔法陣』の効果を世に知らしめたのは、わが先祖なのに。その魔法陣すら取り上げられ、記録も記憶も失わされるとは。
しかし、その願いが聞き入れられることは無かった。上流貴族に入ることはおろか、大公家に妃として娘を差し出すことすら叶わなかった。
だからこそ、トーマス・レグナンド男爵はミーアに賭けていた。爵位なんぞ関係ない。実力で『聖なる者』を勝ち取れるだけの存在。
ここまでは順調だった。根回しと情報操作は上手くいき、大公家も上流貴族もミーアを無視できなくなった。
トーマス・レグナンドとミーア・ヘルナンジェの親子関係が証明され、ミーアは正式にレグナンド男爵の娘になり、レグナンド家の人間として聖者学院へ入学する。
なのにここまで来て、とレグナンド男爵は歯噛みした。そしてミーアは、その想いを察してか自ら『聖なる者』を勝ち取ろうとしている。怯えた表情は消え、水色の瞳がどこか野性的な光を放って。
これは確かに自分の血を引いた娘だ、とレグナンド男爵は強く思い直した。
これまで命令されたことをただ「かしこまりました」と頷き、まるで人形のようだった娘が、変わろうとしている。
「……いいだろう。マリアンセイユの試験は一週間後だが、わしには何もできん。入学なんぞ阻止したいところだが、妨害工作がバレてしまったら我が家はあっという間に取り潰されてしまう」
「……」
「だが、だからと言って黙って手をこまねいている訳にもいかん。勝算はあるんだろうな、ミーア?」
「――はい!」
脅しのような声色にも屈することはなく、ミーアはしっかりと頷いた。
「ならば、許可しよう。それが『聖女』に繋がるというなら、行ってくるといい」
「ありがとうございます、お父様!」
会釈をして満面の笑みを浮かべるミーアに、レグナンド男爵は初めて親子の情めいたものを感じていた。
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