終戦記念日は命日
松本 せりか
せんそうのおはなし(わたしのまわりのひとたちのたいけんだんのみ)
私の伯父は今日が命日です。
うちの母の20歳離れた兄は、軍艦の通信兵でした。
真実はともかく、75年前、8月15日終戦の日に敵国の魚雷に当たり軍艦と共に帰らぬ人となった、いわゆる戦死したという報告が来たそうです。
遺骨と言う名の、石ころが入った骨壺と共に……。
多くの人がこの8月15日が命日とされていると聞くので、そういう事なのでしょう。
私の母は、幼すぎて戦争の事をあまり覚えて無いようですが、空襲があった時にお空から綺麗な物が降って来てると感じたそうです。当時、3~4歳児だったので仕方ありません。
その綺麗な物が降って来ていた下では、大勢の人々が逃げまどい死んでいっていたのですが。(←私たちの仲人をしてくれた方の奥さんが話してくれたお話です。)
うちの夫のお母さんは、私の母より10歳くらい年上です。
田舎道、友達と学校帰りに土手を歩いていて米兵が乗った飛行機から狙い撃ちされそうになってます。
私が結婚する前に勤めていた税理士事務所の先生は、学徒動員で戦争に行かされてました。
家族に縁が薄く、居候同然に親戚の家でお世話になっていて居心地が悪かったのと、軍ではご飯がちゃんと食べれると聞いていたので悲観することなく行ったそうです。
拒否権は無かったので、行くしか無いのですが。
いざ行ってみれば、ご飯をちゃんと食べれるのは軍の上層部だけで、先生はイナゴとかバッタとかそういう虫をみんなで捕まえて食べていたそうです。
先生の部隊は、内地(日本)にいるうちに終戦を迎えました。
そして、帰ってみれば「何で、生きて帰って来たんだ」と言われる始末。
食糧難で、食いぶちが増える事に怒っていたそうです。ひどい親戚だ。
そのうち、税務署に勤務できることになり、最初の給料が出るまでは靴が買えず下駄ばきの許可をもらって働きだしたそうです。
このお話は、知らない人から聞いたものではなく、すべて私の周りの人たちの体験です。(講演会等でも、聞いた話はあるのですが省きました)
私の周りの話だけでも、戦争にいかない女性や子供もひどい目に合っているし、敗色が強くなると本来戦地に行かなくても良い年の子どもや年寄りも戦争に行かさされています。
私の子どもの頃には、まだ戦争で腕や足を無くした人が街を歩いていました。
つい最近、某お笑い芸人さんが、『食い詰めた女性が風俗に流れる』的な失言をしてましたが、昭和20年代半ばまで、赤線(赤線地帯)での売春は合法でしたので、食い詰めた女性の行き先は今も昔も変わらないのかもしれません。
日本がいつまでも平和であることを祈ります。
終戦記念日は命日 松本 せりか @tohisekeimurai2000
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。