第9話 篠原伸6

「もう大丈夫だ。落ち着いた。騒がない。だから離せ」


「とは言ってもだな」


「次、騒いだら逮捕でも何でもしろ……」


 俺がそう言うと、羽交い絞めにしていた警備員も他の奴らと目配せしながら俺を解放した。武器を持っていないことを示すために両手を高く挙げた。テロリストからすればいいカモだ。この騒ぎのどさくさに紛れてゲートを突破できる。

 俺はただ悪人だった。鏡を見ていないが酷い顔をしていただろう。俺はただじっと、由和が消えていったゲートを見つめていた。


「おい、お前」


 俺は両手を挙げたまま、尚志に話しかける。警備員が見守るの前だ。近づくことすらも許されない。


「何をしたいんですか。あなたは」


 尚志の軽蔑した顔が俺に突き刺さる。


「奥さんを守れるのは夫のお前だけだ」


「ええ、あなたみたいな人がいますからね」


 俺は自分の皮肉に対して、笑ってしまった。この先に深い絶望が待っている。それは未来を体験した俺からの忠告だった。

 時計を見ると、搭乗時間の締め切りまであと三十分くらいになってしまった。俺はゲート脇にあるベンチに腰掛けた。

 尚志は俺を睨みつけたまま去って行った。次第に警備員も離れて行き、俺は独りになる。じっと座り込み、行き交う人を観察していた。この中にハイジャック犯がいることは確かだった。そいつを捕まえれば、まだ由和は助かるはずだ。

 俺はチケットを見つめた。墜落する飛行機のチケットが俺の手の中にある。ここで犯人を見つけられなくても、もう一度この日を繰り返せるなら、犯人の顔だけでも知っていれば次に繋がる。


「クソ……」


 俺は呟いた。

 チケットを強く握り過ぎて、紙はひしゃげていた。俺はハイジャックされる飛行機に搭乗する勇気がない。

 乗れば必ず死ぬ。それは事実だ。もう一度、この日に帰ってこれると仮定しても俺は一度、死というものを経験することとなる。人は死ぬ瞬間にどうなるのだろうか。それがどのような感覚なのか誰も知らない。

 しかし俺は死を体験し、その記憶を保持したままもう一度、繰り返すこととなる。それは恐ろしいことだった。死の苦しみというものは誰も覚えていないため、誰も知らない。

 俺は搭乗時間ぎりぎりまで考えていたが、俺の足は結局動かなった。ゲートが締まるのを確認する。


「俺は……」


 言葉が出なかった。

 臆病な俺に呆れていた。俺しかできないことを俺はしなかった。悔しさもない。ただじっと自分のことを惨めだと思った。

 チケットは喫煙所の灰皿の中で燃やした。灰になり、跡形も無くなってしまった。空港内がバタバタ騒がしくなっていくのを横目に一本だけ煙草を吸った。

 由和を見送ってからもう一時間ほど経っている。つまり、昨日俺の記憶が途切れた六時までもうすぐだった。

 ガラス張りの喫煙所で鉄の腰掛に寄っかかりながら、呆然と燃え炭になったチケットを眺めていた。


「畜生!!」


 喫煙所のガラスを右の拳でを全力で殴った。ガラスにはひびが入り、俺の右手からは血がしたたり落ちていた。

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