第8話 篠原伸5
俺はこれでもかと言うほどに深く頭を下げた。由和の冷たい視線が後頭部に突き刺さる。
「ではあたしはこれで失礼します」
由和は俺に背を向けて、ゲートへと足を運ぶ。
「おい。いいのか、放っておいて」
尚志が由和を引き留める。俺はそれを前髪の隙間から見ていた。しかし由和は日本に留まる気など微塵もない。夫である尚志しか引き留めることができないのだ。時間が巻き戻れども、外見が変わってしまえば意味がない。さらにたった一日で説得できるほど由和の気持ちは安くない。
堅く揺るぎない信念を曲げるにはそれ相応の時間と信頼を要する。それは俺が一番知っていた。そのガードの硬さはイージスの盾のようで近寄ってきた男を石のように固めてしまう。
だから俺自身も安心して送り出せるわけでもあった。
「ちょっと、待ってください」
俺は苦し紛れに手を出した。七分袖のワイシャツから伸びる細い腕を掴み、最後の交渉に移る。
「なんなの! しつこいわね」
俺の手は簡単に振り払われた。
「帰ってくださいよ! あなたにそんなことを言う権利があるんですか」
それを見た尚志の怒った声が響いた。自分から自分への説教は胸に響くものだ。この結果は分かっていた。だからなかなか動けなかったのだ。由和を止めるとこは出来ない。
悔しいが由和の背中は遠のく一方だった。こうなったら強硬手段に出なければならない。引きずってでも飛行機に乗せなければ、由和の命は助かる。出発時間まで残り三十分ほどあった。その三十分間、引き留めればテロには巻きまれずに済む。
「行かせないぞ!」
俺は尚志を押しのけて、走り出した。精一杯手を伸ばし、死に物狂いで止めにかかる。傍から見れば悪質なストーカーだ。しかし、なりふり構っている場合ではなかった。ここで由和の乗せるわけにはいかないのだ。しかしその足は一歩届かなかった。気が付くと周りを警備員に囲まれている。
「ふざけんな!」
尚志は俺の顔面を横から思いっきり殴った。公衆の面前である。しかし由和に何人たりとも触れさせなくなったのだろう。俺が未来を知らなかったら、間違いなくそうしていた。
動揺はしていない。怒りなんてある分けない。俺は殴られた痛みだけを感じた。
ふらっとよろめいたところを警備員たちに羽交い絞めにされた。俺は傍から見れば狂乱者だ。沢山の警備員が一気に押し寄せてきて、もみくちゃにされる中、由和がゲートを潜るのを見た。
「早く行け!」
尚志は俺に背を向けながら叫んでいる。
「乗るな! その飛行機は堕ちる!」
「黙りなさい! 縁起でもないことを言うんじゃない!」
警備員が俺の口を押えようと手を伸ばす。
「この飛行機はハイジャックされる。危険なんだ! 乗ったらダメなんだ!」
警備員に押さえつけられながらも必死に叫び続けた。しかし、由和の姿は消えていった。
愕然とする。
仮にこのまま元の姿に戻れなくてもいい。それでも由和さえ助かるけることができればよかった。しかし俺は過去を変えることが出来なかった。由和を死という運命から救うことが出来なかったのだ。そんな絶望に打ちひしがれた俺は、例え何度繰り返しても、この過去だけは変らない気がした。
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