第7話 篠原伸4

 その男と別れてから腕時計を見ると、時間は既に一時五十分を示した。そろそろ由和たちが到着する時間だった。

 昨日のことを鮮明に思い出す。ロータリーで話した会話、表情、仕草、どうしても涙がこみあげてくる。しかし今は泣くわけにもいかない。何としても搭乗を阻止しなければならないのだ。

 こうなればもう周囲の視線など気にしてる場合ではない。俺はベンチから立ち上がり、息を整えた。

 それから二人の行動を陰から観察すると、昨日の言動とは何の変化もなく、淡々と時間が過ぎていった。全く同じ情景がそこにあったのだ。

 まるで昨日の場面を切り抜いたようだった。そこには俺とまだ生きている由和が楽しそうにしゃべっている。

 その間に介入し、「搭乗を取り止めろ」などと言える雰囲気ではない。なかなかタイミングを掴めずにいた。

 第一に俺は由和の台湾行きに賛成しているはずだ。そこに見知らぬサラリーマンが現れて、そんな苦言を呈したところで言うことを聞くはずがない。俺は全力で由和を支援するだろう。

 ただじっとしてるだけで時間は着々と進んでいる。新聞を広げ、あたかもスパイのようにその隙間から二人の様子を見ているだけだった。


「なんだ芸能人か」


 昨日の俺、つまり今村尚志がそう言った。ついにこのテロの一番のターゲットとなる芦谷聡が空港に現れた。ハットに杖を突いた老人、その周りには幾人ものSPが付いている。

 改めて見るのその風格は尋常ではない。心なしか空港の空気が一変しかようにも思える。腕統計を確認すると、四時を回っていた。そろそろ搭乗ゲートへの移動が始まる。俺は二人の後ろを黙ってついて行った。

 そして俺と由和が別れるゲートの前まで来た。これが最後のチャンスだ。ついに動く。


「今村由和さんですか」


 俺はぎこちなく話しかけた。長年、寄り添ってきた妻だというのに、出会った時よりも緊張している。


「出版社の方ですか」


 隣にいた尚志が質問してくる。この質問に対し、乗ったほうが自然なのでうまく乗ることにした。


「はい、担当編集に代わりまして、お伝えしたいことがあり、こちらに参った次第であります。事態が急でして、このような直前になってしまったことをお詫び申し上げます」


「別に大丈夫ですよ、なんですか」


「今回の台湾内戦の特集は取り止めにしたいと、上からの命令が下りました。こちらでチケット額は負担するので、どうか取り止めていただけないでしょうか」


 俺がそういうと、尚志と由和は顔を見合わせた。


「いいえ結構です」


「はい?」


 由和の言葉に困惑してしまった。


「だから私は行きますよ。誰に何と言われようと」


「いやその仕事はもうありません。行く必要はないんですよ」


「あなた本当に出版社の方ですか」


 俺は背中に冷たい汗が流れる。


「よくいるんですよ。他社の社員がジャーナリスト狩りをすること。あなた私の担当の名前言えるの?」


 伊達にフリージャーナリストやっているわけではない。この人は世界を飛び回っているのだ。その炯眼な眼差しが俺の嘘を見通す。

 さらに由和は言い出したら聞かない強気な性格をしていた。恐らく、俺がどんな手を使っても由和の探求心を止めることが出来ないのかもしれない。


「ほら言えないでしょ。それに私は何としても行きます。出版社の意向で左右されていては真のジャーナリストとは言えませんから」


 完全に怒らせてしまった。これではもう収集が付かない。頭をいくら回転させても次なる一手が見つかることはなかった。

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