第5話 篠原伸2
「馬鹿げている」
俺は新聞を投げ捨てた。今までに培われてきた常識と信じられない現実が葛藤している。昨日をもう一度、そして全くに違うに人間として繰り返すなんて。あまりにもフィクションじみていて、笑えない。
「やけ酒でも飲んだか」
俺はそう呟きながら天井を眺めた。しかし、じっとしているとその恐怖は冗長していくのみだ。夢なら目が覚めて欲しい。幻覚なら早く戻ってほしい。俺は切に願ったが現実は無慈悲にも変わらなかった。
それから、部屋に戻った俺はテレビをつけた。するとやはり朝のニュースは今日、九月九日の天気を報道している。どのテレビ番組をつてもハイジャックのニュースなど一つもなく、九日以前のものばかりだ。
テレビを消せば、見知らぬ男の顔が暗い画面に映り込む。
俺はこの空間が夢でも幻覚でもないことに気が付き、それを受け入れるまでの時間はそれから長くはなった。
俺はこの素性のしれない男の正体を探ることにした。布団と脇ある小さな折り畳み式テーブルの上に台湾行き375便のチケットとパスポートが無造作に置かれある。そこから名前などの個人情報を。さらにスマホの画面ロックはなぜかパスコードを指が覚えていた。
一台のスマホからは様々な個人情報が入手できた。何気なく使っているスマホにはこれほどまでに人の情報が入っているのかと不意に怖くなるほど、完璧にこの男の人間像がつかめていった。
「やっぱり、こいつは俺じゃねえ。でもいまの俺はこいつか」
俺はベランダに顔出し、煙草を吸い始めた。昨日まで禁煙者だった。体質なのか煙草を吸うと咳が出るし、うまいと思ったことはない。以前何度か勧められたが、一度もその良さを理解できなかった。
しかしこの男の体になってから妙に煙草が欲しくなった。
篠原伸。それがこの男の名前だ。篠原はかなりのヘビースモーカーだったらしい。スマホの画面ロックにせよ、煙草にせよ。中身は変れどもこの体に染みついた記憶だけは残っているようだ。
篠原はジャーナリストではないが仕事で台湾を経由し、インドに出張する予定だった。これもなぜか覚えている。篠原が見て感じた映像的な記憶はないが、なぜかこれからこの男がするべきことだけは分かっていた。
奇妙な感覚だった。人の体を乗っ取って動いている。今、俺が動かしている体は俺のもではない。
そしてこの男もこのままではハイジャックに巻き込まれて死ぬ運命を辿るのだ。
俺が一本吸い終わり、灰皿の中に落とすと、隣の部屋の住民と目が合った。厚化粧の女で顔は疲れていた。その女はベランダに出て洗濯物を干していた。朝六時に洗濯物なんて、見た目からしても水商売だった。
「おはようございます」
俺が話しかけると、その女は驚いた顔で挨拶を返す。
「おかしなことを聞きますが、今日って何日ですか」
「えっ……九日ですけど」
女はさっさと洗濯物を干し終わり、部屋の中へと入った。おかしな人に思われただろうか。しかし今の俺は篠原だ。俺からすればご近所付き合いなど知ったことではない。しかし今日は昨日を繰り返している。それだけは明確となった。
二本目の煙草を吸い終わると、スーツに着替えた俺は颯爽とアパートを出た。目的はたった一つである。妻を375便に乗せないことだけだ。いや、今の俺、つまり篠原にとって由和は妻ではない。一人のフリージャーナリスト、今村由和という可憐な女性に過ぎない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます