第4話 篠原伸1
夢だったらよかった。目を瞑ったまま、ただそう思っていた。
「由和!」
俺が妻の名を叫びながら目を開けるとそこは見知らぬ場所だった。あれから車の中で寝てしまったのだろうか。六時の時報と共に俺の記憶は途切れていた。不思議と時間の感覚が曖昧で、あれからどれ程の時間が経過したのか分からない。
目をこすりながら、体を起き上がらせることで、自分が敷き布団の上で寝ていたことに気が付く。さらに傍らにはじりじりとうるさい目覚まし時計が転がっていた。
「なんだここ……全く記憶にないぞ」
俺はまず初めに、誘拐を疑った。フリージャーナリストの夫である俺は一連の事件を起こした犯人の所属する組織に拘束されたのかもしれない。しかしそれにしてはあまりにも無防備で、この場所もただのアパートに思える。手には拘束具などは見当たらず、声を上げれば通報されるような壁の薄いアパートの一室だった。見たところ冴えない一人暮らしの男の家であろう。部屋には洗濯物が干されていて、布団の周りは散らかっている。
「とにかく今何時なんだ……」
起きたばかりの霞んだ目をこすり、目覚まし時計を持ち上げた。
「六時……あれから十二時間も経ったのか」
薄いカーテンから早朝の朝日が差し込んでくる。俺はこんな状況でもどこか冷静だった。昨日、妻を失っている夫とは思えない。記憶が無くなり、目が覚めたら見知らぬアパートの一室。色々なことが立て続けに起き過ぎていて、脳が感情を操作しきれていない。
現状把握できるのはデジタル式の目覚まし時計が六時を示していることそれだけだ。
「なんだ……一日ずれてるのか」
デジタル時間の下に日付も表示されていた。九月九日……残暑が厳しい昨日の日付だ。しかし画面の右上には電波を受信しているマークが刻まれている。これは電波時計だ。衛星が狂わなければ、電波は正確に受信できる。
俺は枕の近くにあったスマホを手に取った。
画面の覗き込み、電源をつけようとした瞬間、さらなる衝撃が走った。
「お前は誰だ……」
暗い画面に映る自分の顔を見ながらそう言った。いやそれは自分の顔ではなかった。見知らぬ男の顔だ。
「どうなっているんだ!」
スマホを放り投げた俺はすぐに、玄関の近くにある洗面台へと走った。
「悪い夢でも見ているのか」
鏡に映ったその光景は到底、現実と呼ぶには信じがたいものだった。俺の顔、体、手、そして声までが全てが別人だったのだ。
俺は洗面台から後退りをした。玄関口の廊下の壁に背を付け、そのまま座り込む。何が何だか分からない。
目の前の鏡には見知らぬ男の顔が映っていて、俺の表情筋と見事に連動している。俺は現実から目を逸らしたくなって、すぐに玄関のほうに視線を流した。
すると玄関ポストには新聞が挟まっている。今は新聞なんてそれどころではない。しかし今を生きている確証が欲しくて、おもむろに手に取り、廊下で広げた。
「ない、ない、ない……」
いくらページを捲っても、昨日の台湾行き375便のハイジャック事件は取り上げられていない。あれほど大きな事件だ。新聞の一面を飾ってもおかしくない。
俺はまさかとは思ったが新聞の日付を確認した。
「おいおい、勘弁してくれよ」
九月九日、これは昨日の新聞だ。いや……今日は昨日なのかもしれない。
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