第二話 真実への分岐点
私が魔族領から戻ってきて三日が経った。朝も昼も夜もなく、私は食事どころか水すらほとんど口にしなかった。
お風呂も入っていない。物語のことも考えられない。抜け殻のようになった私の身体を、お母様が毎日優しく拭いてくれる。申し訳ないと思いつつも、何も出来ない。
ぷっつりと、何かが切れてしまった。ふとした拍子に溢れる涙。涙腺が壊れてしまったのかと、ぼんやり考えた。
「……ジェラ」
ベッドの上で膝を抱え込んで、ジェラの名前を呼ぶ。もう居ないのに、何度も名前を呼んでしまう。
「ジェラ、ごめん……私のせいだよね」
あの時、ジェラを連れ出さなければよかった。ちゃんとリュシオンやシェレグに護衛を頼めばよかった。私が迂闊だった、取り返しのつかないことをしてしまった。
もう何十回繰り返した後悔か、わからない。でも、やめられないのだ。
「ごめん。ジェラ、ごめんなさい。私……何も出来なかった」
ジェラの願いを叶えてあげることが出来なかった。トゥルーエンドは燃えて失くなってしまった。同じ人族なのに、誰も私の話を聞いてくれないのだ。
私は一体、何がしたかったのだろう。吐きそうなくらいの自己嫌悪。ジェラにたくさんのものを貰ったのに、何も残せなかった。何も返せなかった。
残ったものと言えば、あとは手首にはめられたお守りのブレスレットだけ。
「……このお守り、ジェラがお父さんに貰った大事なものなのにね」
私は指でブレスレットを撫でながら、思い返す。もうすっかり薄れてしまった、血色の悪夢。私が魔族領で暮らし始めたばかりの頃に見た夢だ。
あの夢では確か、幼いジェラの手首にこのブレスレットがはめられていた。もしかしたら、父親から授かった形見なのかもしれない。
ジェラは何を思って、そんな大事なものをくれたのだろう。
「これだけは、絶対に失いたくない。でも、どうすればいいの」
私はブレスレットを握り締める。このままではトゥルーエンドと同じように燃やされてしまう。脳裏にあの瞬間が蘇って、振り払うように頭を振る。
この世界に一冊しかなかった、大事な物語。それが、真っ黒な炎に飲み込まれてしまう光景。嫌な光景。思い出したくない。
「真っ黒な炎……魔法の、炎……?」
でも、それこそが『鍵』であった。
「……炎。そういえば、イグニスくんのお父さんも、他の仲間たちも火傷を負っていたって……まさか!」
思考が到達した結論に、私は思わず口を手で押さえた。そうだ、あの夜……ジェラは断言していた。勇者はそそのかされたのだと。それなのに、どうして今までこの結論に辿り着かなかったのか。
居るじゃないか。勇者の仲間で、たった一人だけ生き残った男が。
「そう、そうだったのね……今までずっと、騙されていたのね、私。お父様も、他の皆も」
なぜ、ジェラが名指しするのを拒んだのか。今ならわかる。あの時の私は、その名前を知ったとしても信じなかっただろうから。
でも、今なら信じる。そして知りたい。
十年前に起こった、魔王エドガルドとその家族の惨殺。さらに勇者一行の襲撃。二つの事件の真相を。
「でも、一体どうすればいいの……私の話なんて、誰も聞いてくれない……ううん、そんなことを言ってる場合じゃない。ジェラが死んでしまった以上、真相を解明出来るのは私だけ。燃やされたからって何よ、トゥルーエンドを諦められるわけないじゃない!」
考えよう。どうすれば、皆に話を聞いて貰えるか。この部屋に身内だけを呼ぶのは駄目だ、それこそトゥルーエンドの二の舞になってしまう。
ならば、もっと大勢の前だったらどうだろう。王族の権力を使えば、人を集めるだけならば難しくない。
「でも、ただ集めるだけじゃ意味がないわね。変に勘付かれたら逃げられてしまいそうだし」
大勢の人を集められ、かつ簡単には逃げられないような状況をどうやって作り出すか。久しぶりに頭がぐるぐると動いているのを感じる。
と、その時。控え目なノックと共に、身支度を済ませたお母様が部屋に入ってきた。
「ネモフィラ、起きてる? ……ああ、その様子だと、一晩そのままで過ごしたのね」
「お母様……」
お母様が小さく微笑むと、部屋を歩いてカーテンを静かに開けた。すでに太陽は高い位置にあるのか、あまりの眩しさに目を手で覆う。
考え事をしている内に、もう朝になっていたのか。
「ネモフィラ、あなたにお話があるの」
「お話?」
「ええ。あなたは魔族領でとても怖い思いをした。それは、あなたが一人で抱え込むには大きすぎるし、重すぎるわ」
だからね。お母様が私の手をとり、両手で包むようにして握る。そして優しく柔らかい微笑みで、ゆっくり編んでいくように言った。
「ネモフィラ。あなたは、イグニスと結婚するべきよ」
「け、結婚!?」
これっぽっちも予想していなかった申し出に、声が裏返った。
久しぶりに人らしい反応をしてきた娘が嬉しいのだろう、お母様が頷きながら話を続ける。
「そう、結婚。どうかしら? イグニスになら、あなたのことを安心して任せられるわ」
「で、でも結婚だなんて! 急に言われても……そのこと、お父様はなんて」
「もちろん、喜んでいるわよ。もう式の手配やドレスの準備をしているくらいだもの」
「ええ!? 気が早いどころの話じゃないわね。それなら、イグニスくんは? まさか、彼に無断で話を進めているわけじゃないわよね?」
あまりにも予想していなかった角度からの話題に、私は完全に混乱してしまっていた。口調も姫のものではなく、素が出てしまっている。
でも、お母様は気にしていないらしい。
「嫌だわネモフィラったら。あなた、イグニスとずっと一緒に居たのに気が付かなかったの」
「気が付くって、何に?」
「イグニスの心に、よ。そうね……そのことは、本人から聞いた方がいいわね」
おもむろにお母様が肩にかけていたショールを手に取り、包むように私の肩にかけてくれた。
心地よい温もりと、柔らかな香りのおかげで少しだけ心が安らぐ。
「今ね、イグニスが部屋の外に居るの。呼んでくるから、詳しい話は彼から聞くといいわ」
そう言い残して、お母様は部屋を出て行った。そして入れ替わるようにして、イグニスくんがドアのところに立った。
でも、それ以上は近づいては来ない。
「え、えっと……おはよう、イグニスくん」
「おはようございます、ネモフィラ姫。王妃様は大丈夫だと仰っていましたが、お身体の具合はどうですか? お辛いようなら、日を改めますが」
「う、ううん。大丈夫。いや、大丈夫っていうかなんていうか……」
どうしよう、何を話せばいいかわからない。だって、結婚だよ? 大事よ?
「あの、さ。イグニスくん、けっ、結婚のこと……聞いた?」
「はい」
「そ、そっか。お父様もお母様も、無茶苦茶よね。私は姫だから、結婚相手を選べるような立場じゃないのはわかるけど、イグニスくんは違うのにね」
イグニスくんは勇者だが、勇者は身分や役職とは少し違う。彼はお父さんを亡くして以来、このお城で暮らしてきた。私とは兄妹みたいな関係だ。
それでも、彼には自由に相手を選ぶ権利がある。
「勝手に決められて、嫌だったよね? ごめんね。後で私から二人に言っておくから――」
「いいえ、それは違います。結婚について申し出たのは、他でもない僕だからです」
「へ?」
「ネモフィラ姫、僕があなたと結婚したいと申し出たのです」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を見つめてくる。
「父が亡くなってから、十年が経ちます。この十年間、何度も後を追おうと考えました。勇者になった後も、まっとうな戦いでなかったとはいえ、父を超える力を持つ魔王に勝つことが出来るのか不安でたまらなかった。それでもここまで来られたのは、あなたのおかげなのです」
「私の?」
「……傍に寄っても、よろしいですか」
戸惑いながらも頷くと、イグニスくんがベッドの前まで歩み寄ってきた。そして片膝をつき、私を見上げてくる。
「お慕いしております、ネモフィラ姫。挫けそうになる僕を、あなたは何度も助けてくれました。無邪気で愛くるしい姫が、憎悪で狂いそうになる僕にとって唯一の光でした。もう二度と、あなたに恐ろしい思いはさせません。これからは何があっても、僕が守ります」
「イグニス、くん」
紫色の瞳は熱っぽく、心臓を射抜かれるかのよう。それなのに、なぜだか私の心は彼の言葉を聞くたびにどんどん凍り付いていく。
知らなかった。イグニスくんがそんなに私のことを思ってくれているなんて。
嬉しかった。辛い過去を持つ彼の力になれていたことがわかって。
でも、それだけだ。
私は、イグニスくんに同じ思いを返すことが出来ない。
それどころか、この機会を利用して最低なことを思いついてしまった。
「……イグニスくん。その言葉、本当? 何があっても、私のことを守ってくれるって」
「はい、必ず守ります」
私の手をとり、イグニスくんの両手が握り締めてくる。お母様と同じしぐさなのに、彼の手は大きくて熱くて全然違う。
それでも、私の心は少しも溶けたりしない。
「そっか。頼もしいね」
私は冷たい手で、彼の手を握り返した。
そして、私は決断する。
「結婚しましょう、イグニスくん」
真の結末のために、彼を利用することを――
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