一章

物語がないのなら自分で作ればいいじゃない

第一話 ケーキで口をパンパンにしたままさらわれた姫を想像すると胸が痛む。頭も痛む。


「陛下、テオバルト様。お気づきですか、わしが誰かわかりますか?」


 何者かが余の名前を呼びながら、労るように肩を揺すっている。それでようやくわかった。自分が、意識を失ってしまっていたことを。

 どうして、床なんかで眠りこけていたのだろう。一国を、全ての人族を治めるこの余が。

 頭が割れるように痛い。それでも歯を食いしばって、何とか上体を起こす。


「う、うぅ……ヴァルナル、か?」

「ええ、そうです。無理はなさらず。ゆっくり椅子に座って、薬を飲んで休んでくださいませ」


 ヴァルナルの枯れ枝のような腕に支えられて立ち上がり、余は用意されていた椅子に腰を下ろした。次いで渡されたコップを受け取り、中身に口をつける。うっすら薬草の苦い味がした。

 自分の身に何があったのか、上手く思い出せない。確か、久しぶりに妃のカトレアと、愛娘のネモフィラの親子三人で茶会をしようと用意していた筈。現に部屋の真ん中にあるテーブルには茶器や菓子が乗ったままだ。

 それなのに……どうして余は、床などで眠っていたのか。


「ヴァルナル、余は一体……何が、あったのだ」

「落ち着いて聞いてください、陛下。この城が、魔王に襲撃されたのです」

「なっ、なんだと!?」


 ぼんやりとした意識が、一瞬で覚醒した。あまりの衝撃に、カップが手から滑り落ち、半分以上残っていた中身が絨毯を濡らした。

 だが、そんなことなどどうでもいい。魔王に襲われたのだ。


「か、カトレアはどうした⁉ ネモフィラや皆も無事か!?」

「カトレア様は無事です。今、寝室でわたしの弟子が診ております。他の者も、軽い怪我を負った者は何人かおりますが、死者はおりません」

「そ、そうか」


 ほっ、と安堵に胸を撫で下ろす。愛する家族と、国民達。余にとってどんな財宝よりも大事な宝が無事であるだけでも安堵した。

 だが、ヴァルナルの報告には続きがあった。


「しかし、ネモフィラ姫様が」

「ネモフィラが? 姫が、どうしたのだ?」

「……お姿が、見えないのです。動けるようになった者が城内を探しているのですが。ただ、こちらだけが窓際に」


 そう言って差し出されたものに、血の気が引いた。靴だった。ネモフィラの、愛娘の誕生日に贈った真新しい靴。彼女の為にと職人に依頼した、花の刺繍が色鮮やかな、この世でただ一足だけの。

 今日……いや、昨日の茶会で嬉しそうに履いていた靴だ。


「窓際に僅かですが、靴痕が残っておりました。この部屋の窓は大きいので、恐らく魔王はネモフィラ様を抱えて窓から脱出したのでしょう」

「そんな……では、ネモフィラはさらわれたというのか?」

「残された痕跡から考えるに、間違いないと思います。多少物色された形跡はあるものの、特に盗まれたり破壊されたものは見られません。魔王の目的はネモフィラ姫であったと考えて良いでしょう」


 申し訳ありません。ヴァルナルが悲痛な面持ちで膝をつき、頭を下げた。


「わしが居りながら、魔王の卑劣な罠にはまるとは……職務の怠慢だと言われても弁解はしません。相応の責任はとる所存であります」


 今にも折れそうな痩身を深々と折り曲げるヴァルナル。今は離宮に住む両親と同世代の彼が頭を下げる姿を見ていると、呼吸が出来なくなる程に胸が苦しくなってしまう。


「……いや、いい。顔を上げてくれ。そなたは悪くない。いくらそなたが先代の勇者と共に魔王を打ち倒した賢者であろうとも、歳には勝てまい。本来ならば、余の父と同様に引退し余生を好きに過ごすべきなのだから」

「しかし――」

「大丈夫だ、ここにあの子の亡骸がないということは、きっと人質として連れて行かれたのだ」


 ネモフィラの命が目的ならば、この場で殺せばいいだけ。しかし攫ったということは、ネモフィラは交渉材料として使われる可能性が高い。

 つまり、すぐに殺されることはない。


「ネモフィラのことは心配だが、余は父であると同時に人族の王だ。今は人族を護る為に、早急に態勢を整えねばならん。ヴァルナルよ、改めて状況を説明して欲しい」

「……かしこまりました」


 余が話を促せば、ヴァルナルが顔を上げて話を始める。


「まず、魔王がここに現れたのは約一日前。この城だけではなく、城下町をも含めた全域に眠りの魔術を放ちました」

「つまり、我々は丸一日眠りこけていたというわけか? そんなことが可能なのか?」


 信じられなかった。人を強制的に眠らせることは、魔法であれば可能だ。しかし、時間と人数が常識の範囲を軽く超えている。

 ろうそくに火を灯す程度の魔法しか出来ない余にとって、理解不能な芸当だ。


「……わしがあと十年若くても、同じことが出来る自信はありません。やはりあの時、先代の魔王共々始末出来ていれば」

「悔いても仕方がなかろう。アキムとユーリヤが死に、ゲルハルトも瀕死であった。そなたも傷だらけで、歩くことすらままならなかったではないか」


 苦笑を漏らしながら、余は十年前の決戦を思い出す。思い出すといっても、決戦自体は魔族領で行われた為、余はこの城でヴァルナル達の帰還を待っていただけなのだが。


 それでも、あの日の凄惨さは十年経った今でも忘れられない。


「……あの日は確か、冷たい雨が降っていたな」


 ――先代勇者ゲルハルトと、三人の仲間たち。彼らは先代魔王エドガルドとの死闘の末、エドガルドは打ち倒したものの、ヴァルナル以外の全員が死亡した。

 正確にいうと、戦士アキムと聖女ユーリヤは戦いの中で力尽き、満身創痍だった賢者ヴァルナルが二人の遺体と瀕死のゲルハルトを、転移の魔術でなんとか連れ帰ってきた形だ。

 そして駆け付けた皆に向かって、ゲルハルトが泣きながら口を開いた。


『次代の魔王は、エドガルドとは比べ物にならない程の恐ろしい素質を持っている。僕なんかでは、歯が立たなかった』


 息も絶え絶えにそう言い残し、ゲルハルトは力尽きた。


 ――そして数日後。ゲルハルト達の葬儀を終えたのを見計らうように、新たな魔王としてエドガルドの、ジェラルド・オウロ・ティアルーンが即位したという宣言が出されたのだった。


「確か、魔王ジェラルドは今年で二十歳だったか。いよいよ本格的に動き出したというわけか」


 余は後悔した。魔王エドガルドを打ち倒した後、更に戦力を注ぎ込むべきだった。多少の犠牲を払ってでも魔族領を占領すれば、長きに渡る争いを幕引きに出来たかもしれないのに。

 手をこまねいてしまった。魔王は勇者にしか倒せない。そして十歳のジェラルドが魔王に即位した時、新たな勇者も同じく十歳の少年だったのだ。

 幼い彼を、余は戦場に出さなかった。ゲルハルトが宝物のように大事にしていた息子を。父親の死に目を泣き腫らして、託された聖剣を引き摺って魔族領に行こうとした彼を止めた自分の決断に後悔はない。

 だが、人族の血が流れることを恐れ、勇者にだけ重責を負わせたことを余は悔いる。


「イグニスはどうしておる?」

「彼は昨日からクィンライム大神殿にて儀式を受けております。それが終われば、正式に勇者として魔族領へ旅立つことが許可されます」

「そうか……我らはまた、待つしかないということか」

「やはり、わしもイグニスと共に行きましょうか?」

「ははっ! そなた今年でいくつになった? 腰が痛い、が口癖のくせに旅など出来るものか」


 思わず吹き出して、膝を叩く。ヴァルナルは年老いた今であって尚、魔族にも引けを取らない魔力の持ち主だ。

 齢六十を超えた彼は十年前よりも老いた。紺青色の髪は半分が白髪に変わり、シワも増えた。

 それでも、たった一人生き残ってしまったことを悔いるように王国の為に休むことなく献身的に働いてくれている。

 これ以上、彼に無理をさせるわけにはいかない。


「そなたはここで後進を育てつつ、余が道を誤らぬよう支えてくれればよいのだ。頼んだぞ、ヴァルナル」

「……はい、陛下」

「では、大臣達を集めてくれ。今後の対応を早急に決めねばな」

「お任せください。しかし、陛下こそ無理はなさらないよう」


 小走りで部屋を出て行くヴァルナルを見送ってから、余はカトレアの様子を見に行こうと腰を上げる。

 その時、ふとテーブルの上の小さな違和感に気がついた。


「……む? これは、どうしたことだ?」

「ああ、陛下! 申し訳ありません、すぐに片付けますので」


 ヴァルナルと入れ替わるように駆け込んできたのは、メイド長のナーシャだ。魔王のせいとはいえ、ここに置いてあるお茶や菓子は既に一日このままだったということだ。

 それも、茶会は始まる直前だった。放置されたケーキとお茶を、ナーシャが慌てて片付けようとする。

 そんな彼女を、思わず止めた。


「待て、ナーシャ。このテーブルは、昨日からずっとこのままなのだな?」

「え、ええ」

「ならば、なぜネモフィラのチョコレートケーキだけ跡形も無く消えておるのだ?」


 余が指差すと、ナーシャも不思議そうに首を傾げる。記憶が正しければ、茶会が始まる寸前で魔王の襲撃があった。だから、誰もお茶やお菓子には手をつけていない筈。

 それなのに、なぜ。


「……ネモフィラ姫様が、意識を失う前に召し上がったとか?」

「あの娘が生まれた瞬間から十七年間、ひたすら甘やかした自覚はあるが、さすがにそこまで食い意地の張った娘に育てた覚えはないぞ。礼儀作法はちゃんとしておる」

「しかし、チョコレートケーキは姫様の大好物ですし。レンガと間違えるくらいには好きですし」

「……確かに、そうだが」

 

 ネモフィラは子供の頃からチョコレートケーキが大好きだ。チョコレートケーキと間違えてレンガを齧っていたくらいには好きだ。

 だから、魔王の襲撃で気を失う直前に口に詰め込むくらいのことはする……かも、しれない。しないとは、どうしても言い切れない。


「陛下、気になるようでしたら他のメイドにケーキの在り処を確認して参りますが」

「いや、よい。仕事の邪魔をして悪かった。この部屋は頼むぞ」


 この妙な虚しさは、きっとネモフィラがさらわれてしまったせいだ。余はざわつく心にそう言い聞かせると、代わりに魔王への怒りを燃やしつつカトレアの元へと急いだ。

 

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