決別

 真っ先に喉の渇きを思い出した。

 気付かないうちに眠っていた。

 私は、毛布の中の薄闇のなか、自分の指を見つめる。

 どれくらいの時間が経っただろう。

 あのあと――私の過呼吸はいっそうひどくなってから。

 ユアは私をベッドまで運び、寝ているように言ってくれた。

 そのことは、嬉しかった。だけど、お互いに、ごめんも、なにもなかった。

 決定的に終わっていた。

 だから、布団をかぶって、ずっと、ベッドの中、呼吸だけに意識を向けていた。考えることをやめていた。そのうち、寝てしまったのだろう。

 けっきょく、考えることから、ユアとの決定的な齟齬から目をそらすことからは逃れられなかった。


 一回目の時間遡行で過去に戻ったのは私だけだった。

 つまりそれは、私がユアと共有した、とっても大切な思い出が、失われていることを意味していた。

 ユアの色に、心を揺さぶられたこと。そのことに、感謝を告げたこと。そして、私が、この時計をどれだけ大事に思っていて……ユアのことも、どれだけ大事に思っていたか告げたこと。

 それを伝えたユアはもうこの世界にはいない。永遠に巡り会えることは、ない。この世界の、つまり、私と一度同じ経験をしてくれたユアに伝えても、ダメだ。

 同じ経験は、二度と訪れない。

 取り返しのつかないことはもう起きていたのだ。


 そして……それだけじゃ、なかった。

 あの一言で。

 ユアの、一言。私の腕時計を軽んじた、その一つで、私はひどい思い違いをしていたことに気づいてしまった。


 ――私のとる態度を見て、ユアはうっすらとでも、腕時計をどれだけ大切か、気づいてくれていると思っていた。

 言わなくても私たちは、ある程度かもしれないけど、通じあえていると思っていた。

 だけど、違った。

 当たり前だけど、それは幻想だったのだ。

 ユアはユアの考え方をしていて、私の思うユアではなくて。もしかしたら、私に、不満を溜め込んでいて……

 もしかしたら、あのとき共有した思い出――私の、ユアに対する色の思い出、それが転換点だったかもしれなかったのに。


 もう、戻れない。

 同じ体験はもう、二度と、できない。

 すべてが根底から覆された。


 どうしようもなく、胸が揺さぶられる。


「……ユア……っう、うう……」


 涙がこぼれそうになる。

 吐息とともに漏れた小さな声が、耳に、彼女の名前を伝えた途端、いろいろなものが、あふれかえる。

 私はユアのことを本当に大切に思っていて、同時に、ユアに自分を預けてもいた。

 そのことに、気がついたのに。

 これから、もっと親密になれると思っていたのに。

 ユアの提案を許せば、自分が自分でいられなくなる。そのこともわかっているから。

 ――終わっていることがわかっていても、ふたたび向き合わないと、いけなかった。

 これを逃せば、二度と訪れないとわかっていたから。


 毛布をおろす。

 いつのまにか、モニタの電源が着いていた。

 灰色の月面。白と黒ではない、色のある世界。色があることに今まで、そのことに気がついていなかっただけかもしれない。だけど、私の意識は、間違いなくユアの色で変化させられていた。

 太陽が当たると月面は茶色っぽくなる。そう、アポロ11号のクルーが語る映像を見たことがある。だけど、この目では見たことがない。

 外にいるとき、目にしたかもしれない。けど、よく覚えていない。

 ユアに、どんな色か聞いてみようか。

 そう、自分をごまかしながら画面の端に表示された時刻を読むと、もうすっかり正午ごろになっていた。

 あの口論から数えたら……だいたい五時間が経っただろうか。それだけの間倒れていたことに実感は伴っていなくて、まるで時間が止まったようだ。


――今日のタスクはどうなっただろう。


 ユアがやってくれただろうか。

 きっと、やっているだろう。あれで、根は真面目だから……それで、ごはんを食べて、……ゲームをして、それから……もしかしたら、この時間なら、二段ベッドの下かもしれない。ユアは昼寝のくせがある。


 そう思ったとき、物音がした。

 顔を横に向けると、寝室に光が射し込んでいた。誰かが、リビングに移動した。それで照明がついたのだろう――射し込む光は出入口のあたりから少しの距離を照らしていた。その中に、人影が見えた。


 ユア。


 私は息をひそめた。反射的に、声を手で塞いでいた。頭の中で、警鐘が鳴り響いていた。だけど、わかっていても、信じたかった。

 祈りが通じたかのように、動いていた人影が留まった。影は出入口に留まった。ときどき腕を触ったり、髪に触れたり……神経質な仕草は、躊躇を感じさせた。

 私はまぶたを閉じた。

 じっと、体に力が入っていた。

 お願いだから、どうか。

 そう、強く、願って。


「――マイ」


 震える声が聞こえた。


「ごめん」


 まぶたを開ける。

 人影が、走り去っていく。

 私はベッドから飛び降りる。


 着地のことを考えていなくて勢いのまま地面に落ちた。

 肩からしたたかにぶつけたから痛かった。

 痛いけどためらってはいられない。

 よろめきながら立ち上がる。

 名前を呼ぶ。顔を上げると視界の中に背中が見えた。

 それが消える。ユアがリビングの奥へと消える。

 来ないで!

 悲鳴じみた声。うるさい。

 追う。

 ユアに追いつかなくてはいけない。手遅れになるから。

 だから走る。

 私も。

 無理矢理に。

 起きたばかりだったからとつぜんの運動に肺が驚く。痛みを発する。構わず走る。

 走る。

 走る。

 走る。

 キッチンを抜ける。

 足が痛む。

 リビングを抜ける。

 肩が痛い。

 廊下へと出る。

 白。

 色が消えていく。

 ユアの背中が見える。

 赤い髪の毛。

 ユアの色。

 赤。

 走っている。

 遠ざかる。

 追いかける。

 赤と白だけが見える。

 息と足音だけが聞こえる。

 届きそうなのに届かない。

 歯を食いしばる。

 背中が消える。

 カーブを曲がる。

 その先にあるラボへの入り口で、ユアがまごついている。

「ユア!」 

 距離が縮まる。

 追い詰める。

 一瞬だけ視線が交わる。

 怯えている。

 扉を抜ける。

 ユア。

 私は閉まりかけた扉に体をねじ込む。

 手を伸ばす。

 その先端が引っかかる。

 襟首。

 ユア。

 Tシャツを、そのまま引っ張った。


 ぐぇっ、とカエルが鳴くような声。


 引き倒された体が、私の上にのしかかる。

 こらえきれずに倒れる。

 仰向けになった私のお腹にユアが尻餅をつく。


「痛ッた……」


 呻き声。

 膝を立てて、地面を蹴って上体を持ち上げる。ユアの足が地面から離れる。


「きゃうっ」


 間の抜けた悲鳴をあげてユアは転び、私は横に転がって脱出する。

 立ち上がって、私は、実験室の扉の前に立ちふさがった。


「……ユア」


 後ろ頭をさすりながらユアが顔を起こす。


「マイ……そこどいて」


 ユアはよろめきながら立ち上がる。その目には、涙が滲んでいる。だけど、冷たい、目的を遂行することにすべてを捧げている人間の瞳をしていた。

 一メートルの間隔を空けて向かいあう。

 私は、つばを飲んだ。

 荒く、肩で息をして、必死に自分を堪えるユアの目を見る。


「ユア、聞いて。私に……もう一度だけ、チャンスを、私に、ちょうだい」


 ユアはなにも言わない。


「話さないといけないことがあるの。とても大事な、こと。私が……ユアのすることに反対するのも、ぜんぶ、ユアに関係するんだって、こと……」


 私は息を整えた。


「私は、あなたがいたから、……自分のことを、振り返って、生きていこうって思うようになって――」

「ダメだよ、マイ」


 ユアは目に溜まった涙を拭った。


「ダメだよ。だって、マイは私に、キューブを使わせたくないんでしょ」

「……うん……」

「じゃあ、……話すことなんて、ないよ」


 ひっくと、しゃくりあげる。

 こらえきれずに涙がこぼれる。

 下唇を痛いくらいに噛む。

 舌に血の味が流れた。


「そんな顔しないでよ」


 滲んだ視界の中で、ユアも泣きそうな顔をしていた。

 目をごしごしふいても涙は止まらない。

 つらくて、苦しくて、もうなにも、この先が、一方通行だと――決別への道に続いているとわかっていても、止まることも、逃げることも許されない、そのことを、恨みたくなる。


「だって――私、ユアとかけがえのないこと、を、経験したから、考えるように、なったんだもの。少しずつ……少しずつ、いまを、大事にしようって……私……過去に起きた事故も……起こした事件も、変えられないから……ぜんぶ受け入れようって……」

「ああ、……だからか……」


 ユアが鼻をすすりながら言った。


「マイのは、事故がきっかけだったんだったね。だから……そう、考えられるんだね」

「……どういうことっ……?」

「わたしは……言ったよね、むかし……わたしは、自分の意志で人を刺したんだよ。そのことに、後悔なんてないんだ」


 取り繕うような明るい声でユアは言った。


「だから、起きたことをやり直すなんてわけないんだ」

「そう……だったんだ」

「そうだよ」


 自然と、笑みがこぼれた。

 泣きながら、私たちは笑った。


「ぜんぜん知らなかった」

「うん」

「もっと、話せばよかった」

「そうだね。ぜんぜん、話してくれなかったもの」

「ごめん」

「……もう、遅いよ」


 ユアは腕になにかを構えた。

 自動点灯したラボの明かりが反射する。

 包丁が、ちいさな手の中にあった。


「マイ、邪魔するなら、死んでよ」


 涙が引っ込む。

 刃が、風を切った。

 とっさにその腕を払って、くるぶしを蹴りつける。

 無意識に体が動いた。

 転がして、包丁を払って足で挟んで拘束する。

 訓練センターで叩き込まれた合気道は身についている。

 だがそのとき、手に鋭い痛みが走る。

 噛まれた。

 とっさに拘束が緩んだ。股間を殴られた。激痛にぶざまによろめく。

 ユアは立ち上がりざまに頭突きを続けた。

 視界に星が飛ぶ。

 寸でのところで、ノックダウンは避ける。

 ユアが走る。実験室の扉を開ける。

 明滅する視界のなか追いすがる。

 キューブの光沢が、闇のなかでも、目に届く。

 小さな手が伸びている。

 掴ませてはいけなかった。

 考えるよりもはやく、足が地面を蹴った。

 飛びつく、腰に。

 タックル。原始的に、打ち倒す。

 頬に背骨の硬い感触が押し当てられる。

 ユア。

 細い腰が。押し倒されて、鈍い、硬い音がする。

 ごつん、と。

 その音と同時に、抱きついた体から、力が抜ける。


「……ユア?」


 立ち上がる。

 ユアの頭から、血が出ていた。

 キューブが設置されたままの、ガンマ線照射装置。その角に頭をぶつけたらしい。

 赤黒い血が、白いタイルに、広がっていく。

 白い顔が青ざめていく。


「ははっ、げーむおーばー」


 ユアは、薄笑いを浮かべていた。

 立ちすくむ。

 体が、動かない。いや、動かそうとして――それ以上の意志で、私は動かなかった。動けば、どうするか、自分のことだから、よくわかっているから。


「……マイ」

「……なに」


 かすれた、ろれつの回らない声で、名前を呼ばれる。私は、こみ上げるものをこらえながら、震えることばを返すしかできない。


「動く気……ないよね」

「……うん……」

「そっか。まあ、動けば……なおしちゃうもんね」


 うなずく。

 今からなら――今からなら、止血用のペーストとバンデージを貼ればなんとかなるはずだ。緊急用の対応マニュアルは、頭に入っている。ユアも、私も。

 薄笑いが、諦めたような、卑屈なものに変わる。


「終わりかあ」


 宙を見つめて、放り投げるように、ユアは言った。

 瞳が揺れる。白い、天井の照明を映している。そこに、私が、ぼうっと突っ立っている私が、映っている。

 諦めきった、泣きそうな、腑抜けた顔をした私が。


 ――とつぜん、強い怒りが湧いた。


「…………認めない」

「え……?」


 ユアがゆっくりと私のほうを見た。

 そのときにはもう、体が動き出していた。


「認めない、認めない、こんなの――こんな末路、認めるもんか」


 心の底から湧き上がった真っ赤な感情に塗りつぶされて、私は気づけば、実験室のほうへ――応急処置キットの置かれた場所へ足を向けている。背後から、ユアの戸惑った声がする。


「なに、してるの……なにしてるの、マイ? そんなことしたら、わたし――」

「うるさいっ!」


 口を開いたとたん、ぼろぼろと涙がこぼれおちた。私は走った。キットを取って、ユアのもとへ戻って。よたよたと抵抗するユアを押さえつけて、その後ろ頭に、ぱっくり割れた傷口に、止血ペーストとバンデージを貼り付ける。

 そしてユアの頭をそっと下ろして、抵抗する彼女を押さえつける。


「離してよ、離してよマイ! わかってるでしょ、こんなことして――わたしが諦めないって――ぜったいに諦めないって。過去に行ってやり直そうとするって、マイには――」

「だったら私がぜんぶ止めるよ! 私が、ぜんぶ――どれだけユアが望もうと、どれだけユアが本気だったとしても、私を殺そうとしても、全部止めて、ぜんぶこうして治してやる」

「ふざけてるの!?」

「ふざけてない! 私は本気だよユア!」


 ユアをまっすぐ見つめて言う。


「私はユアのいない世界より、ユアを殺す世界より、この世界のほうがいい!」


 黒い瞳が揺れて、その目尻から、透明な宝石がこぼれはじめた。大粒の涙を、ぼろぼろとこぼして、ユアは唇をかみしめる。


「――バカ、ほんとうに、バカだよ、マイ――」


 私は、笑顔を作ってやった。

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