発動・2 + 発覚

 リビングからラボへ通じるエアロックへと出ると、目を強い光が刺した。

 それはあの時見た光の奔流を思い出させるもので、一瞬、私はここがどこだか、わからなくなる。

 大丈夫だと言い聞かせて、私は真っ白な通路を歩き出す。


 通路は円柱を縦に半分に切って伏せたような形をしている。宇宙線対策のため窓はない。だから眩しいくらいの照明は通路内でギラギラと輝く。


 まるで真っ白な夢の中を移動しているようだ。


 歩いても、進んでいるように思えず不安を抱く。

 同じところをずっと歩き続けているように錯覚する。

 ラボへ通じる道はほかの通路より長い。

 遠いと感じるのは当たり前だ。

 だけど、この道の白さがあのとき見た光の奔流に似ているせいだろう。

 歩けば歩くほど、時間というものが溶けていきそうな気がしてくる。


 私という存在は、わけのわからない経験をして、ひどく薄弱なものになっている。

 私は、不安を感じている私に気がつく。

 息を、整えようとする。


 訓練センターで、初めて音も光もない部屋に放り込まれた日のことをとつぜん思い出す。

 たった十五分が永劫のように思われたあのとき。

 息が詰まる。

 自分がストレスを感じていると冷静に理解していながら私はそれに対処するすべを思いつけない。

 戸惑っていたとき、熱を感じた。

 私ではない温度。顔を上げると、ユアが手を伸ばしてくれている。


「……どこかキツい? 戻って休む、マイ?」


 声を聞くうちに、少しずつ私は私を取り戻す。

 私は頷いて、でも手を握ったまま、ユアに並んで歩き始める。

 考えてみたら、私の正気はいまユアの信頼一つで保たれている。

 もしユアが、私の気が狂ったと診断し、心理検査を受けさせたら、私の解雇は即日決定するだろう。

 それほど荒唐無稽なことを私は言っている。

 だけど、ユアは信じてくれている。そのことが、私を強く、繋ぎ止めてくれた。

 ユアは、私のアンカーだ。

 私が今ここにいると確信するための錨だ。そう強く実感した。


「ありがとう、ユア」


 自然とそう口にしていた。ユアはちょっと驚いたあとで、安心させるように微笑んだ。


 歩いていると、とつぜん、扉が視界の中に現れた。

 様々な個人認証センサが設置されたそれがラボへの入口だ。

 通路は緩やかなカーブを描いているから、入口からは見えないのだ。わかってはいるけれど、なんどここを歩いても、とつぜん現れたような感じがする。

 まるで夢の出口みたいだ。

 私はユアに促され、センサで個人認証を行う。

 網膜、指紋、静脈パタン、そして音声コード。


「怪物は、どんな身の毛のよだつしろものでも、ひそかに私たちを魅惑する」


 ロックが外れる音がした。

 扉が左右に開くと、気温の違いがもたらすかすかな気圧差のせいで、室内から空気が押し出されてくる。

 植物プラントに隣接しているせいで、ラボは常温よりかすかに高い。

 その熱を全身に感じると、私は自身の実在を、改めて感じ取ることができた。


 ラボは大学の学生向けの実験室くらいの広さの部屋だ。ここでは本社の指示を受けて、バイオテクノロジーに関係する実験を主に行う。入口からみて正面の壁は、一面が腰の高さからガラス張りになっており、植物プラントの様子を見ることができる。

 そこには緑と疑似的な太陽光に満たされた世界がある。

 あるブロックではラックに整列させられているけれど、別のブロックでは再現された土壌で生態系が作られており、そこを媒介者のミツバチなんかが飛んでいる。

 いずれもプログラム制御のマニピュレータという農家の手で自動的に管理されていて、私たちの食べ物や、この基地の酸素の数割が供給されている。


 いつもなら社に義務付けられているとおり、まず各ブロックに異常ないか点検するところなのだが、目当てはラボに直結する放射線関係実験室だ。

 結晶構造の解析などに用いられる場所で、探査車に積まれていた機材より出力も精度も高い道具がたくさん揃えられていた。

 それぞれの機械は床面パネルを操作することで配置を変更することができる。特殊な条件で実験したい時の設備だ。

 私たちはX線とガンマ線を同時に一点に照射可能な状態を作り出して、二種類の電子線の交点にキューブを静置した。

 ちょっと神経をすり減らす仕事だった。終えて思わず、額の汗を手で拭う。

 まだ始まってもいないのに、正直かなり疲れている。

 私はコンピュータの前に腰掛けたユアに目を向ける。


「で……これからどうするの?」

「……マイ、考えもせずここに来たわけ……?」

「い、いやだって、ユアがラボいこって言ったじゃない。それで来たわけで…………いや、うん、だからその目で見られるとキツいんだけど……」


 最後は声がしりすぼみになる。じとっ……と呆れている猫みたいな目で見られると、ユアの視線であるだけでもキツいのにいっそう心が砕けそうになる。

 ユアは溜息をつくと、まあしょうがないよね、と言った。

 疲れてるんだろうし。


「マイはユアのミスでX線とガンマ線を浴びたんだよね? で、おそらくそれらはキューブにも照射されていたと考えている。それを再現するだけだよ」

「…………殺す気?」

「マイに向けるわけないでしょ。キューブにだよ」

「ごめん、いや、そうだよね」

「やっぱりわたしのこと、ちょっとバカだと思ってるでしょ」

「…………ごめん、思ってた」

「素直でよろしい。いいよ、見直したなら」

「うん。見直した。ほんとにユアはすごいよ」

「もっといいたまえ」


 ふんすふんすと鼻を鳴らすユア。


「さて。探査車の機材と同じ出力にしてみよっか」


 防護服は室内にあったから、適当に二つをとって着替える。

 効率的な遮蔽体が研究開発されたおかげで、昔と違い、全身を包む合羽のような形状で十分な遮蔽が見込まれた。


「このザラザラしたのヤだなあ」

「文句言わない。宇宙服よりマシだよ」

「慣れないんだよお」


 ユアはあちこちがかゆいらしく、ムズムズと太ももに軽く爪を立てながら、コンピュータで機材の出力を調整する。私は、それぞれの出力レンズを微調整する。

 準備は数分で整った。

 私たちはキューブのそばに立った。タイマーにより、九時三一分に照射されることになっていた。

 沈黙して時を待つ。

 緊張で唇がかわいた。

 落ち着かない気持ちを深呼吸で抑えようとしていたとき、カウントダウンが始まった。

 その途端、ユアは手を握ってきた。


「……どんな感じ?」


 聞きたいことがなんなのかはすぐわかった。


「あまりいい感じはしなかったよ」

「……わかった。覚悟しとく」


 コンピュータが残り時間を読み上げる。

 私とユアは視線を合わせて笑みを作る。

 お互いに、ちょっとこわばっていたけれど、それは見て見ぬ振りをした。


 ……三、二、一……


 ギュッと目を閉じ、体に力を入れる。

 だけど、……しばらくしても、衝撃は襲ってこなかった。


「……あれ?」


 まぶたを開けると、ちょうど照射が終わったことを示すブザーが鳴った。

 キューブにはなんの変化も見られない。


「……どういうこと?」

「……わからない。なにかが足りないのかも」


 キューブに近づく。そして機材を見る。

 出力は、探査車のものと同量だ。

 問題はない。私は辺りを見回した。


「……なにか違うのかな」

「前回は、S12だったっけ。あそこって何かサーベイ出たっけ」

「なにも。宇宙線のノイズしか……」


 言いかけたところで私たちは顔を合わせた。

 ここには、それが、足りていなかった。

 私たちはコンピュータに走った。


「ああっ間違えた、リセットじゃない、さっきの数字なんだっけ」

「もう打ち込んでるよユア」

「はやい! さすがわたしえらい! ところで月に降るガンマ線とかX線って!?」

「わかんない!」

「計算できないの!?」

「ふだんソフト頼りだから」

「あー、いや、いいや、増やそう!」


 ユアは数値を大きくした。それも予定していたより大幅に。

 おもわず声が出そうになったが、理にかなっていると感じて口をつぐんだ。

 宇宙線の有無が影響するならば、キューブが反応しなかった原因として閾値を超えなかったことが候補にできる。

 一定以上のエネルギーが反応に必要だというなら、大きくしたほうが閾値を超えやすいだろう。数値が直感的に大きすぎることを除けばユアは正しい。

 私はつないでいた手を強く握った。


「ユア」

「わかってる、マイ、すぐ機械の影に走ろう」


 私たちは頷きあった。

 ユアはモニタに向きなおり、右手をおおきく振りかぶった。


「よし、エンターっ!」


 キーが押しこまれた瞬間、世界が光で包まれた。



 ○



 二度目の加速体験は加速された粒子に意識を委託するような心地よい嘔吐感とともに開いた。私は意識の肉体からの離脱をふたたび経験し、光に包まれていく世界に追いやられた。

 今度は、無限のような刹那の中で思考を巡らせることができた。私は二回目にしてこの加速感に慣れを抱き始めていた。産まれて初めて乗ったジェットコースターの衝撃が、二回目以降は大したことなく感じるようなものだろうか。理由はわからないが、とにかくいま、私は無限に続く現在――非対称性を失った時間というものを知覚できるようになっていた。


 私の視界もまた変化していた。眼球の制約を失ったためか、三百六十度に開かれている。私は前後左右上下の区別なくすべてを一様に捉えることができていた。いままでの視座が一点から全体を捉えるものだとするならば、いまは全体から一点を捉えるようなものに変わっていた。それがわかったのは、一面の白の中に異物を見出すことができたからだ。


 ユア。

 私たちは、手を繋いだままでいる。


 彼女は驚愕に染まった顔をしていた。なにがなんだかわからない様子でいる。そこからは、はじめての感覚と変容した世界に対する戸惑いがありありと感じられた。思わず笑いそうになったとき、私はあらゆる方向から――しかし特に上から――熱を感じた。


 マイ。マイ……マイ? どこ?

 ユア!


 声は出なかった。しかし情報そのものをやり取りすることができた。熱の強弱が音声を擬していた。私が返事をした結果、ユアは私のいる場所を捉えたらしい。視線を感じた。と同時に、身体感覚がおぼろげに生じた。私が形成されている。私は視界の中心にいたユアの隣に、隣に忽然と現れた私自身を発見した。


 マイ、ようやく見つけた……いままでどこに?

 わからない。……私、いきなり自分が現れたと感じたんだけど。

 わたしはいきなり自分がどこにいるかわかったの。……ここ、なに?

 ……わからない。けど、前回もここに来た。


 私はユアに前回の体験を語った。さきほど語りきれなかった部分を細く。ユアは私の話を聞いている間も、聞き終えてからも、考えにふけっていた。ぶつぶつと、量子空間とか、自発的対称性の破れ、とか呟いている。ユアは理論物理学に理解していて、いっぽうで私は理解できていない。なにを考えているか察することもできない。私はユアの横顔をあらゆる角度から眺めて、異様に引き伸ばされたいまを過ごす。


 私の身体感覚は指先にいくに従って曖昧になっていた。境界線がないような感じだ。そのことに気づくと、つい考えた。

 もし手を離したら、私は私を維持できるだろうか。

 あるいはユアはユアのままだろうか。

 光に包まれたときの状態を変化させるとどうなるだろう。


 あの光は私の身につけていたものや肉体、そういったものは一切変化させず、ただ私の意識だけを過去に飛ばした。しかし前回は私は私自身を見ることなんてできなかったし、状況が異なる。私はユアに見られることではじめて存在した。

 そういえば、どうして私が私を自覚できていたにもかかわらず、私は視界の中に存在できていなかったのだろう。たとえば、誰かに認識されることが存在の条件だとするなら、私の自我は、私の存在の証明たり得ないことになる。そうしたら、私は前回経験した私と、それ以前の私をどのように同一だと考えられるだろう。この意識は連続していると自覚しているが、それが錯覚ではないとは限らない。

 あるいは、ユアが、光に包まれる直前のユアと同一人物であることは、どうやってたしかめればいいだろう。もしかするとこのユアは私の知るユアではなくて別人なのかもしれない。違う歴史、違う経験をしてきて、私たち二人も違う関係だったかもしれない。それを、しかしどう確かめられるだろうか。


 考えていると、不意に体を引っ張られるような感覚がした。私たちの身体は、遠くに見えていた光の収束する一点の暗闇に近づこうとしていた。ユアに呼びかけて、衝撃と頭痛に備えるよう促す。ユアが姿勢をとったと同時に、私は私が引き伸ばされて直線にされたことを感じた。

 そうとしか説明できなかった。いま私は立体ではなく平面で、それも線そのものだった。その暗闇は線と同じ大きさをしている。私はそこに、ユアと一緒に突っ込まれている。今や私の体はユアの体でマイをユアは不可分にしている。細い管に無限大の光を押し込めるような無茶はゲームでも見たことない。頭痛は割れそうに発生する。痛みのなか指先の温度が再び現れると同時に、わたしは私から離れ、わたしと私の輪郭は個々のものに変化した。細い管が二つに分かれていて、マイは左にユアは右へ行ったのだ。

 そのことを理解したときには、私は暗闇の先の光を目撃している。

 急速に私が膨らんでいく。

 私は肌を知覚する。

 そのとき、目の前にユアの顔があった。


 長いまつげが、私の鼻の先に触れそうだった。

 薄桃色のうすい唇が開いて、その隙間から白い歯がのぞいた。


「……マイがいる」

「ユアがいるね、私の前には」


 ひどく平坦な声。

 二つの、平たい、ただの音だった。

 お互いの声が耳に届き、その瞬間、とつぜん感情が発生した。


 私は戸惑いと、緊張と、そしてかつてないほどの接近への動揺でぐちゃぐちゃになる。それと私が経験した加速と収縮、膨張による酩酊――経験したすべての実感が、同時に発生した。私とユアは咄嗟に転がってお互いを避けて、床に向かってえづいた。

 私はなにも吐かなかったけど、ユアはシリアルを嘔吐した。のろのろと歩み寄って、背中をさする。ユアは涙目になっている。


「水持ってくる」


 呼びかけて、よろめきながら立ち上がる。私は倒れたソファをよけながら、考えることもせずキッチンに向かっている。体がなにをするべきか判断している。そう理解したとき、ようやく私は、自分がリビングにいることに気がついた。

 腕時計は七時三〇分を示していた。

 成功した。

 しかし今度は、はるかに長い時間を遡っていた。

 どうして?

 考えようとしたが、いまは水を持っていくことが先決だった。


 私は水で満たして持っていく。吐瀉物を前に涙を目に浮かべていたユアが、情けない顔で私を見上げた。

 コップを渡して口をすすがせる。口に含んでから、ユアは戸惑いを見せた。


「いいよ、そこにぺってして。どうせ掃除されるわ」


 ユアは首を横に振って、子供のような顔をする。私は吐き出すように繰り返した。問答を続けていると、部屋の隅から駆動音が聞こえてきた。目を向けると、白い床面を、魚型自動掃除機プレコが静かにジグザグ移動してこちらに向かってきていた。


 プレコはその名の通り、魚のプレコに似せて作られた自動掃除機だ。腹部が平らな流線型で、シリアルごとに異なる模様を体表に持つ。いまいるのは白と黒の縞模様だ。基地の各部屋に一台用意されていて、通常は部屋に人がいない場合のみ起動する。今回は異常事態だと判断して起動してくれたらしい。


 ユアはプレコをみるとようやく観念したらしく、口を何度かすすいでその場に吐き出す。ユアが残った水を喉に通すころプレコがやってきて、床を掃除してくれる。自然界では分解者の役割を担う生き物らしい働きぶりだ。


「これ、いつ見てもヤだな……」

「え、どうして?」

「だってキモい……」

「キモイとかいわない。掃除してくれてるのに。ありがと、プレコ」


 呼びかけるとプレコはしっぽをふる。接触行動ごみそうじ効率化ついでだとわかっていても、愛嬌があって可愛らしい。


「……ちょっと愛着湧くかも」

「でしょう?」


 私たちは顔を見合わせて笑いあった。


「……あ、そうだ、時間! それとキューブ!」


 落ち着いてきたと思ったら、とつぜんユアは叫びながら立ち上がった。そして私の手を取ると、ずいずいと引っ張って、ラボに通じる廊下へと出る。


「マイ、時間! いまは?」

「七時四〇分。きたときはちょうど三〇分だったけど」

「ごはん食べたときの時刻だ……」

「そう。私たち、ちゃんと遡ったのよ。今度は二時間だけど……私たち、過去に来てる」


 ユアは目を輝かせた。


「マイ覚えてる? さっきの、わたしたちのいた場所のこと」

「うん。ユアが見つけてくれたことも」

「マイが私を見つけて、それからユアがマイを見つけて……やっぱり同じ経験だ!」

 いまにも飛び上がりそうな笑顔になると、ユアは私の腕をぶんぶんと上下に振り回した。

「ってことはこれは錯覚じゃない! マイの経験だけだったらマイの錯覚とかせん妄とかいう仮定はありえたけど、でもわたしたち二人、同じ経験をしてる。過去に戻ったって言えるんだよ!

 もちろん集団幻覚を見ている可能性はあるけど、それでも経験は確実にキューブが原因で過去に戻ったことを示してる、大発見だよ、これ! 意識だけが過去に飛べたならそれは、わたしたちの意識が物質に依存しない可能性も示唆するし、それにあの空間での身体経験、あれはいろいろなことを示唆している!」

「ゆ、ユア、おちついて」

「これが落ち着いてられる!? マイほんとに理論物理学ならったわけ?」


 ラボへの扉を開けながらユアは声を荒げた。


「現代物理学で考えるならこれは自発的対称性がない世界を仮定したときの、時間を負の方向に進んだ体験だって気づくでしょ!! ほら、出張授業の野蘭教授、思い出してよ!」

「うさんくさい顔しか思い出せないよ……私、訓練センターでは武術や工学の実技だけは秀だったんだよ?」

「こっ……こ、このっ……筋肉バカ! ああ、もう、いいよ……とにかく科学的な大発見だよ、これ! エンター押した途端過去に飛んだのはわかんないけど……」

「えっと……それはたぶん、一度リセットしていたからじゃないかな」

「え?」

「タイマー、リセットされてたんじゃない?」

「あ、そうか……ごめん」

「ううん」


 ユアはちょっとしょんぼりしていたけど、実験室の扉を開くなり勢いを取り戻した。

 機械の位置は移動させる前、つまり最初の位置に戻っていたが、そのうちの一つに、あのキューブが設置されていた。


「あった! やっぱり……これなら、わたしたち、なんだってやりたいことがやれる」

「え?」


 ユアは鼻歌でも歌いそうな様子でキューブを持ち上げて、まるで愛しい我が子のようにその胸に抱きしめる。


「だって、いま、キューブの存在を知っているのはわたしたちだけだよ。キューブを使えば任意の過去に戻ることができる。それに、もう少し試行を繰り返して性質を調べる必要があるけれど、キューブは、時間への遡行が発動した地点で位置情報が固定される。前回……マイが最初に発見したクレーターと、それから今回がその証拠。だったら、たとえばキューブを持ったまま過去に飛ぶことができるなら、何度だって過去をやり直すことができる」


 ユアはガンマ線照射装置に腰を預けながら微笑んだ。


「それって、素敵でしょう?」


 誘うように首を傾げて。


「マイだって、やり直したいでしょう。今を、ぜんぶ……」


 一歩、踏み出して。私の手を取って、ユアは頬に近づける。手のひらに、温かい熱を感じる。その目鼻が、私の鼻先へと近づく。


 ――だけど、私は、後退った。


「ダメだよ」

「……え?」


 なにが起きたかわからない様子で、ユアは私に振り払われた手を見つめた。


「ユア、……ダメだよ」


 私は繰り返して言った。

 拒絶するような色を帯びた瞳に、ぎゅっと心臓を鷲掴みにされる気がした。

 でも、ダメだった。


「……キューブを、元の場所に戻そう。これは、使ったらいけないものだ」

「どうして!?」


 ヒステリックにユアは叫んだ。きんきんと、声は実験室に反響する。


「使ったら、いけない? どうして? もう使ってるじゃん!」

「そうじゃない! 過去に戻って……過去に戻って、行ったことを変えようとするのはダメだ、って言ってるんだよ」

「だから、それがどうしてか解らない! まさか映画みたいに、どんな影響が起きるかわからないから、とか言うつもり!?」

「違う! 私は、過去をやり直すなんていけないって言ってるんだよ! だって――だって、私たちがなにをしようったって、過去にやったこと、行ってしまったことは変わらないんだよ。たとえ世界が覚えていなくても、私を作り上げてきた行いは、変えられないし、変えちゃいけない……私たちの時間だってそうでしょう? 私たちの過ごした日々って、かけがえのないもので、だから……」


 言いかけていた言葉が詰まる。ユアの顔に気がついたから。血が上り、首から頬、それから耳まで色が変わっていて――真っ赤になって震えている。


「ゆ、ユア……?」

「あ、あんただって――」


 ユアは唇をわななかせた。

 憎悪に満ちた、腹の底からせり上がった声。


「あんただって、犯罪者のクセに! マイだって私と同じなクセに! そんな時計大事にしてんのも、やり直したいからなんだろ!」


 その瞬間、頭が真っ白になった。


 目の前に薄靄がかかって、ひび割れた意識の隙間から過去が漏れ出てくる。

 事故――そして、復讐――荒れた生活と、深い絶望とが、沸き起こって……それから、ユアの言葉が、ふたたび蘇った。

 そんな時計。


「……マイ?」


 過呼吸を起こしかけている。そんな自分に気づく。ユアも私に、気がつく。


「ご、ごめん、マイ……言いすぎた……」


 ユアは顔面を蒼白にして、キューブを取り落とす。私の顔色を見て、パニック気味になっているのがわかる。


「ユア」

「な、なに」


 歩み寄ってきて、近づいてきたユアが、私を見上げる。背が丸まり、唇が震えている。


「私――この時計のこと、ユアに説明したこと、あったよね?」


 おそるおそる尋ねると、ユアは、首を横に振った。


「時計のことなんて、知らないよ」


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