発動・1
それはまるで、内臓の内側から、私をバラバラにするような力だった。
まばゆい光が視界を覆った。すべてが加速されていくようだった。
その場に留まろうとする本能的な意志が生じたが、抵抗もむなしく、私は私を維持したまま、細く長く引き伸ばされていった。
比喩ではなく、そう体が感知していた。
すべてが一瞬で過ぎ去った。その一瞬が何なのか私には解らなかった。だが根拠もなく私は静止していることを理解しており、また同時に加速していることも理解していた。
私が、私を離れていく。
感覚が遠ざかり、亀裂から発せられた光と、ユアの悲鳴じみた声が、加速して、早回しのビデオを逆再生にスクリーン投射したように、開いて、それから、光の流れそれだけになる。
見えるものは白一色となる。その奥に複雑な模様が見え隠れするのが見えたが、それはほとんど光そのものの色をしていて、見分けることは不可能だ。
強烈な浮遊感と分裂感が全身を貫いた。引き裂かれるような苦しみに叫びそうになる。が、声は出ない。聞こえるものは高い音だけ。あらゆる音を最高速に加速したような甲高いヴァイオリンの響きのようなそれは、もし光子が音を発するならば伝えていたであろう振動数に一致しているように思われた。
永遠のような刹那の中で私は加速を続け、ついに静止が破れてしまった。
光が私を押し出して、私は流れに逆らっていた。光はあらたな光へ変わり、遡行する私を押し返そうとする。だけどエネルギーがそれを押しのけ、私は、遠くに見えていた光の収束する一点の暗闇にねじ込まれた。
万力で潰されるような頭痛が一瞬で開放感に変わり、音と光が消える。
我に返ったとき、私はまず、ビートルズを知覚した。
「......We all live in the yellow submarine, yellow submarine, yellow submarine......」
顔を向けると、隣で、ユアが陽気に歌っている。
車内に居たはずのユアが隣にいて、そして私は、車内にいる。
体がハンドルを握っていることに気がついたとき、探査車が小石にぶつかって揺れた。
ユアは小さく悲鳴を上げた。そして抗議するように眉をいからせた。
しかしユアはこちらを見たとき、ちょっと呆気にとられた後、からかうように笑みを浮かべた。
「なあに、ぼうっとしちゃって。見とれた?」
私は答えられなかった。ユアは恥ずかしそうに顔を赤くし、私の肩を軽く叩く。反応しろよ、と顔を真っ赤にしている。だけどその痛みが本物の痛みだと理解した私には、もうそれどころじゃない。
「……ユア……あのさ」
「うん?」
「……S12地点は、もう通り過ぎた?」
「え? ちょ、ちょっとまって」
コンソールを操作するとユアは身を乗り出してモニタを覗く。
私の膝の上で、拡大された地形図と、外の景色を見比べる。
焦りに満ちた表情は次第に落ち着きを取り戻し、ユアは大きな溜息をついた。
「驚かせないでよ……まだ手前も手前じゃん。見落としたのかと思った」
ユアは座席に戻ると不安そうに私を見る。
「どうしたのマイ。そんなに嫌なこと言われたの? わたし、運転変わろうか……?」
心配する声が、どこか、遠い。
手袋を外した。
ユアが、ひどく驚いた。
与圧もされていない車内は、月面と気温を同じくしている。太陽があまり当たっていないから、ここらはひどく寒かった。
凍傷になるよ、とユアが言った。
私は宇宙服をずらした。
手首を露出させて腕時計を見る。
時刻は、午前八時五〇分を指している。
記憶より三〇分、遡っていた。
私は、考えるよりも先にアクセルを踏み込んだ。
「うわっ」
急加速に驚いて姿勢を崩し、ユアは咄嗟に私の腕を掴む。どうしたの、いきなり。当惑した声に、反応する余裕はない。
私はハンドルを切って、S12に直行する。ユアはすぐその事に気がついた。
「あ、なに? サボろうってこと? いいじゃん、マイもわかってきたね」
戸惑いを陽気に押し隠して、ユアは腕に抱きついてくる。
私は答えず、モノクロームの丘陵を走る。
S12に到着すると、隣でユアが、息を呑んだ。
「なに、これ……」
S12地点には、記憶の通り、大きな亀裂が走っていた。
だが記憶と異なるのは、その崩落の度合いだ。クレーターの下の空洞をあらわにしていたはずの月面は、まるでそれを忘れたように、きれいに整ったた白い肌をあわく輝かせている。
私は車を停めて手袋をつけて、ユアを腕ごと、扉に押した。
「ちょっ、なに!?」
「車を降りて、ユア」
「な、なんで?」
「いいから!」
思わず声を荒げてから、怯えたユアの視線に気づく。罪悪感が胸に広がる。だけど謝るより早く、ユアは震える声で、わかった、と言った。
車を降りて距離を置く。無線モードにした操作パネルで車を遠隔操縦する。深い亀裂に引っかからないようにしながら、荷台を記憶のとおりに動かし、固定脚を展開する。自動でウイングサイドパネルが開き、色とりどりの機械が姿を出す。ユアはヘルメットに手を当てた。その下にある、小さな口を押さえるように。
『あ、えっと……これは、その……』
「大丈夫、知ってたから」
ユアの訝しむ声をよそに、私はアーム展開を指示した。
荷台の設備が動いてスペースを作り、下部のパネルが左右に開く。外から、三本指のマニピュレータが伸びるのが見えた。
マニピュレータ先端にはカメラがあり、操作パネルの液晶にその映像が表示されている。前方ライトを起動して映像を確認する。感度良好だ。私はドリルを起動して、深さ五メートルまで掘るように指示した。
ユアは私の隣で、ずっと私の顔色をうかがっていた。
私は声を発しなかった。そんな余裕はなかった。
ドリルが作業を終えると今度は向きを変えて掘らせた。そしてソナー用のアンカーをその穴に打ち込んだ。私はユアになにか言われるより早くアンカーを起動した。出力は、通常の倍以上にして。
『きゃっ』
アンカーから伝わる振動が地面を揺らした。ユアは姿勢を崩して私の腕を掴む。ユアは抗議の声をあげようとして、私の態度に気がつく。視線の先をたしかめたとき、ユアは息を呑んだ。
『……なにこれ……クレーター……? でも……不自然だ、これ』
ユアは顔を上げた。
『ね、ねえ、マイ、これがなにか知ってるの? これ、いったいなんなの?』
「すぐにわかるから」
答える気がないと知るとユアは口をつぐんで私から離れた。それから両腕で自分をかき抱く。不安なときの仕草だ。
慰めたい気持ちを堪えてアーム操作を開始する。
映像が、左右から流れ落ちるレゴリスを映す。
白い大地は、しかしアームを下ろしていくうちに途切れ、映像はどこまでも続く奈落へ変わる。
アームの伸長は十五メートルと表示されている。
あのときユアが言ったように、確かにS12の地下に空洞があったのだ。
ライトは深海を照らすようにうつろな闇に光を投げる。
マニピュレータの先端を上下左右に動かして周囲の様子をうかがいながら、ゆっくりとさらに下ろしていく。
地下二十メートルの深さに達したとき、何かがライトを反射した。
画面を覗き込んでいたユアが息を呑む。
私は慎重に操作して、それを掴み、引っ張り上げる。
アームが亀裂から出たところで、表示されていた収納のボタンを押す。
アームは自動で元の位置へ折りたたまれ、回収されたサンプルが、その根本のケースに収まる。
危険であることも忘れて、思わず駆け寄っていた。
荷台に乗り上げ、パネルで収納ケースを開くように命令する。
伸縮式のアームの根本でランプが点滅した。私は機械の間を縫ってなんとか体をねじ込むと、金属の扉をスライドする。
そこには、青白い立方体があった。
薄暗いのに色ははっきりしていて、表面には複雑なフラクタル模様が見て取れた。
光もあたっていないのに、それが金属光沢を発していることがわかった。
未知の物質であることも忘れて手に取る。
持ち上げるとその大きさに反して重さは感じられなかった。
かすかに光が当たると、模様が刻み込まれたのではなく、この立方体に固有のものだとわかった。
荷台を降りると、歩み寄ってきたユアがそれを覗き込んだ。
「……これ、なんなの?」
「……タイムマシン、かも」
「……はい?」
ユアは妙な目で私を見た。
◯
帰り道で会話はなかった。ユアは助手席の端っこまで体を寄せて、じっと外を眺めていた。
嫌われた……わけではないだろう。
おそらくユアは、あれを視界に入れたくないのだ。
あの立方体は私とユアの間でシートベルトを着用して、車の振動に合わせて揺れている。
落ちないように固定するにはこれしか方法がなかったのだが、そもそも、後部車両に載せたままにしておけばよかったといまさら気づく。私も動揺していたらしい。
冷静になれば、この物質はガンマ線やX線単体では反応すら示さなかった奇妙な性質を持っている。加えて、亀裂の下の空洞が更に深くまで続いていたことを考えると、宙に浮いていたことになる。わけのわからない物質だ。そんなものなのだから、本来ならばそれなりの扱いをするべきだ。
ちらりとユアをうかがうと、まだそっぽを向いている。
彼女の、ユアの歌を聞きたかった。
こんな状況なのだから、なおさら。
二十分ほどかけて来た道を戻って、トラックをガレージに駐車する。
いつもなら降りるとき絡んでくるユアが、何も言わずに車を降りる。
声をかけようとしたけれど、それより先に、扉が閉まった。
私は立方体を抱え直すと、エアロックを抜けて、リビングへと戻る。
戻ってみると、倒れたはずのソファがもとの姿勢に戻っていた。そろそろと様子をうかがうと、真剣な表情を浮かべたユアが、向かいのソファで腕を組んでいた。
「マイ、そこ座って」
言い訳を許さない口調を前に、私はソファに腰掛ける。
持ったままなのも場所を取るので、テーブルに立方体を置く。
ユアは私の一挙一動をじっと見つめていた。
ソファに腰掛け居住まいを正すと、ユアは大きく溜息をついた。
「あのさ、マイ。わたしがいっちばん嫌いなことがなにか、前に話したこと、あったよね」
「……うん」
「だったら、二度と置いてけぼりになんかしないで」
私たちはお互い過去に背負うものがあってここに来ている。
私にとっての一線があるように、ユアにも侵されたくない一線がある。
ユアの場合は、それが置いてけぼりにされることだった。
月面に派遣される前に過ごした訓練センターでの日々の終わりにそのことを伝えられた。そのことを、ようやく思い出しはじめる。
迷惑をかけたくないから、だから先に言っておきたくて。
月面への旅へ出発する数日前、ユアは私にそういったっけ。
そして私は、約束していた。置いてけぼりにはしない、って。
ユアの態度の原因がわかってホッとする。
同時に、慌てていたとはいえユアを傷つけたことに罪悪感を抱いた。
「ユア」
「なに」
「ごめんなさい」
頭を下げると、少しして、ユアの溜息が聞こえた。
顔を上げると、ユアは微笑んで、首を横に振った。
「教えて、なにがあったのか」
「……信じられないと思うけど――」
ユアの言葉に促されて、私は、何が起きたのかを語った。
できるだけ整理しながら。
まず、ユアとS12地点に向かったこと。
そこでユアに操作を任せたところ、なにもなかったはずの地下に半球状の空洞が見つかったこと。
しかし掘削に失敗し、亀裂が入り、誤ってX線・ガンマ線探査装置が作動して……
「そしたら、光を感じて、浮遊感とか……こう、ぐちゃぐちゃってなって、気づいたら八時五十分に戻ってた……そういうこと?」
ユアの言葉に私は頷く。
ユアは腕を組んだまま思案している。
少しして、腑に落ちないといった顔をした。
「……それで、どうしてキューブがタイムマシンってことになるわけ?」
「キューブ?」
「その立方体のこと」
ユアはよく手入れされた人差し指のまるい爪をテーブルの上に向けた。
「名前がないんじゃ呼びにくいでしょ」
「なるほど。……いや、待って」
「なに?」
「どうしてそんな質問になるの?」
私の言葉にユアは溜息をこらえたような表情になる。
けど結局こらえきれなくて、はあ、と大きく息を吐いた。
ユアは私に体を向けると、あのね、と切り出した。
「まず、マイは時間を遡行したんだよね。そしてその直前に、光の奔流のようなものを感じた」
「うん」
「その光がキューブによってもたらされたものだ、ってどうして断定できるの?」
「……えっと……?」
「たぶん……マイは根拠があるんだと思うんだけど……話を聞いた限りだと、マイは探査車の陰に隠れようとしていたとき、わたしのミスのせいでX線とガンマ線に暴露されたんだよね? でも、キューブからの発光を直接確認したわけではない。キューブがなんらかの形で作用したと断定する根拠は、ちょっと欠けるんじゃないかな」
言われてからはじめて、そのことに気づく。
キューブに視線を向ける。
青白い、フラクタルな模様の物質が、時間をさかのぼる前のユアの操作で反応した証拠はない。
私自身目撃したわけではない。
「……だけど、これしか考えられない」
私はユアの目を見て言う。
「もし、単にX線やガンマ線への過度の暴露だけが原因なのだとしたら、過去に類例があるはずよ」
「でもいま、マイは先例の有無を知らない」
「そうだけど、でも直感的にありえない」
「直感的な理解より論理的整合性を選択するのが科学。そう、わたしたちは学んだはずでしょ。あの訓練センターで、嫌ってほど座学したじゃない」
視線が左右に泳ぐ。反論が思いつかなかった。
あのとき、あの光に押し出されたと感じたときから、私はキューブが原因であることを確信していた。だけどそれを証明するためのロジックは像を結ばない。なぜなら、私が依って立つ根拠はただ身体感覚にのみ基づいているからだ。
そして身体感覚なんてものは再現性が存在しない。
再現性のないものは、科学的な根拠としては薄弱だ。
思わず、腕を組む。
暗礁に乗り上げた気分だった。
だんだんと、自分自身が間違えているような気がする。
意識を取り戻した時の感覚は、夢から覚める時の感覚に似ていたんじゃないだろうか。
もしかしたら私は夢を見ていて、偶然、本当に亀裂が入っていたのかもしれない。
そういった偶然があるだろうか?
そもそも考えてみたら、過去に戻ったというならなぜこの時間内に未来から来た私と、過去の私が同時に存在していないのだろう。
意識だけが旅をするだろうか?
仮にそういった事があるとしたら、むしろ意識それ自体の感覚だと捉えたほうが違和感がない。何らかの原因で時系列をうまく捉えることができなくなり、夢を未来の記憶だと誤認する形で現在の私が目覚めた……そんな可能性もありえるだろう。
だけど、亀裂の存在をどう説明すればいいだろう。夢と偶然合致していた、じゃ説明になっているようで、思考停止にほかならない。どうしたらいいか――
思考は、正面の溜息に気づいたことで中断する。
ヒヤリとしたものを感じながら顔を上げると、ユアは呆れたように私を見ている。
「置いてけぼりにしないでくれる……」
「え、あ、いや……いまのは違う、んだけど」
「そうじゃなくて……わたし、マイの言うこと、全部信じる、って言ってるの。だから悩んだりせず話してよ。どんなことでもわたしは聞いて、おかしいならおかしいって反応する」
「けどその前に考えこんだっていいでしょ?」
「悪くはないけど、わたしがイヤ」
拗ねたような声に、ちょっと、思考が止まる。
ユアはふんすと鼻を鳴らすと、さて、と立ち上がった。
「それもってラボいこ」
「え?」
「マイは、それが原因だって思ってる。だったら確かめるだけだよ」
ユアの自信ある笑顔に虚を突かれた。
私の反応のせいで、その笑顔は一瞬で不機嫌そうなものに変わった。
「なにその顔。なんか不思議?」
「いや……その……あのさ、ユア」
「なに」
「本当に信じてくれてるんだね」
「は? なにそれ」
「いや、その、ユアを信じてなかったっていうんじゃなくて……私が言うのもなんだけどさ、正直、信じられないのが普通だろうし……」
「あのね、マイ。わたしはマイを信じてるんだよ」
ユアは強い口調で断じて、おおきな溜息をついた。
「理屈とかじゃなく、もっと違うところでさ。信じてるんだ、強く、すごく。そのマイが血相変えて、おかしなことして、一度も踏み越えなかった一線を越えた。一度だけじゃなく何度もね。だったら本当だって信じるよ。当たり前でしょ? 変なこと言ってないでさっさと行こうよ。時間の無駄。あ……でも遡れるなら時間の無駄なんて言い方へんかな……」
顎に指を当てて首をかしげる。私はというと、しばらく、呆気にとられていた。すぐにこんな言葉が出てくることと、それと、見たことない顔をしていることに。
「あのさ」
「ん?」
「ユアってさ、前からそんなに頼もしかったっけ」
「…………あのさ」
「うん」
「マイってさ、わたしのことバカにしてるでしょ」
「…………え、いや……?」
「その間! なんなの!? あームカつく、別にゲームで勝ってるからっていい気にならないでよね、わたしだってマイと同じ訓練パスしたんだから」
それだけじゃあないんだけれど。
そう加えようとしたけれど、こみ上げてきた笑いのせいでかき消される。
思っていたよりはるかにユアに頼られている気でいた自分に気がついて、それがおもしろかった。
いきなり笑い出した私に驚いているユアを見ながら、ひいひい息を整えながら目尻の涙を指でぬぐう。
「そうだね。いつも助手席、座ってくれているもんね」
「言いたいことがあるならはっきりしてよ」
「ない、ない」
私は笑いながら首を振った。そしてキューブを持って立ち上がった。
「ありがとう、ユア。行こう。元気出た」
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