第5話 ケモノとおじさん⑤




 ケモノはその男が背負った金色に輝く剣は見覚えがあった。剣だけじゃない、その声も顔も、それは紛れもなくグラーコの街へ来るまでの馬車に乗っていた男だった。


 突然のことに驚いたものの、ケモノは男と見つめ合ったまますぐに足に力を入れ、砂利をわざとらしく鳴らした。今にもお前に飛び掛かるぞと言わんばかりに男を牽制する。

 とは言え、既に疲労困憊のケモノにとって大の男に飛び掛かるなんてことはできそうになかった。いや、仮に元気があったとしてもそんな勇気はなかった。牽制とは名ばかりの、最後の抵抗だった。



「……座ってもいいか?」



 そんなケモノの作った緊迫感を、男いとも簡単に一蹴する。そして普通の子供に話しかけるように男はニヘラと笑った。そのあまりにも予想外の言葉と態度に、ケモノは思わず首がゆっくりと小さく頷いた。



「ふぅー……よっこらせっと」



 ケモノのしぐさを確認した男は、年を感じさせるような深い息と共に腰をおろす。

 手を伸ばせばすぐにでも捕まえられそうな距離。そんなすぐ近くに人間がいるにも拘らず、ケモノの心は平常を保っていた。



「嬢ちゃんこれからどうすんだ?」



「……」



 黙り込むケモノを横目に、男は服の中に手を突っ込んだ。そして何かを探すフリをして、何事もなかったかのようにその腕を戻した。



「なぁ嬢ちゃん、俺はこれから海を渡ろうと思ってんだ」



「海を……?」



 男の言葉に惹かれたのか、ケモノが声を漏らす。

 男が来てからというもののケモノが一度も言葉を発していなかったせいか、男はうっすらと笑みを浮かべて、またその口を開き始めた。



「そうだ、海を渡るんだ。なんでもロディニア大陸の山奥にゃあどんな願いでも叶える女神がいるって噂を聞いたもんでな」



 男は女神を想像したのか、どこか嬉しそうに口元をにやつかせた。



「なぁ嬢ちゃん、ここでまた会えたのも何かの縁だ。俺と一緒に来ねぇか?」



 男は唐突に立ち上がり、隣で少し驚いた様子のケモノを見下ろした。

 ケモノは少し渋った顔を浮かべ、その誘いにはあまり乗り気でないのは一目瞭然だった。が、男にあきらめた様子はなく、建物の間から見える空を見上げた。



「せっかく自由があるってのに、こんな影にいちゃあ勿体ねぇだろ」



「でも……」



 小さく呟いたケモノは男から視線を外し、地面に生えた元気のない草を見つめた。



「お金も持ってないし……私のせいで騒ぎにもなってるから船なんて……」



「はっはっは、心配すんじゃねぇ。そのためにこれがあんだ」



 機嫌よく笑い声をあげた男は胸元に手を潜り込ませ、先ほど確認したであろう小さく折りたたまれた白い何かを取り出した。そしてその白い何かを丁寧に広げ、ケモノの視界に入るように見せびらかす。



「どうだ?立派なもんだろう」



 男が自慢げにフフンと鼻を鳴らした。

 それもそのはず、男が広げたのは大人一人が入れるほどに大きな麻袋だった。ケモノ一人程度なら悠々と入れることは一目見て明らかで、それほど大きな麻袋がそう簡単に手に入るようなものではないことをケモノも知っていた。



「なあ嬢ちゃん、俺と一緒に来ねぇか?」



「でも……」



 男の誘いに、ケモノが場を濁す。

 ケモノが獣人であることが知られている以上、いつまでもこの町に留まっているわけにはいかない。むしろバルバーラ大陸から出たいケモノにとっては最大のチャンスでもあった。


 ただ、今のケモノにとってはここから動かないことが一番楽で、一番安全であることは確かだった。

 だからこそ、ケモノは男の誘いに頷けずに、そして断れずにいた。



「俺はよ、人間と獣人が一緒に暮らせる世界を作りたいんだ」



 男は持っていた麻袋を地面に置き、悲しそうな表情で口を開いた。



「なぁ嬢ちゃん、もし嬢ちゃんが今迷ってるっていうなら、この歪んだ世界を変えるのを手伝ってくれないか?俺は人間だから……獣人の気持ちを分かりたくても分かれねぇんだ……」



「……」



 ケモノは男を見つめ、開こうとしたその口をすぐさま閉じた。何か言いたくて、しかし何かが邪魔をしてケモノは声が出なかった。

 が、数秒ほど黙り込んだケモノはどこか意を決した様子で、目の前にいる男の顔を改めて見つめた。


 ケモノにとってここまであたりまえのように話せる人間は、これまでの人生で数える程度にしかおらず、まるでお互いを知っているようなそんな感覚だった。

 どうしてここにいるのか。どうしてケモノを連れていくのか。そんな疑問すら思い浮かばないほどに、ケモノはそんな理想郷を目指す男を信じてみたいと思った。


 普通であれば、獣人にとって誰とも知れない人間を安易に信じるなんてことは到底あり得ることではない。それはこれまでのケモノにおいても例外ではなかった。

 が、そんな普通のことにさえ頭が回らない程、今のケモノの心は弱っており、誰かに縋り付きたかったようだ。そしてまた、その弱りに上手く漬け込んだ男の話術も立派なものだと言わざるを得なかった。



「私……役に立つかな?」



 不安げに尋ねるケモノに、男は『勿論』といわんばかりに大きく頷いた。



「じゃあ私も……」



 そう言ったケモノを見て、男の表情が少しだけ綻んだ。



「んじゃあこの中に入ってくれるか?」



そう言って男は麻袋の口を広げた。何の変哲もない、本当にただの大きな麻袋のようだ。

ケモノは男を一切疑うことなく、男に誘導されるがままに大きく開いたその口に足を踏み入れた。



「よし、じゃああんまり動くなよ?」



袋の中で膝を抱えて座り込むケモノを見下ろし、男が声をかけた。

ケモノは声には出さないものの、その言葉に一度だけ頷いた。そしてゆっくり閉まっていく麻袋の口から、にんまりと笑う男の顔を見つめた。



「よし行くか」



満面の笑みを浮かべた男は麻袋から垂れた紐を肩に担ぎ、勢いよくその腰を上げる。

想像していたよりもずっと軽く持ち上がった麻袋に一瞬戸惑うものの、港町には似合わないほどに大きく膨れ上がった袋を肩に下げ、船が待つ港へと軽やかに足を進めた。





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