第4話 ケモノとおじさん④
「はぁっ……はぁっ……っ」
冷たい土の感覚が薄い服越しに身体へと伝う。冬の朝露のせいか、日当たりの悪い土は太陽が昇り切った時刻でもほんのり湿っているようだ。
崩れた瓦礫に背中を預けたケモノは息遣いが漏れないよう両手で口を覆い、乱れた呼吸をゆっくりと整えた。
「探せ探せ!まだ遠くには行ってないはずだ!」
「見つけたらタダじゃ置かねぇぞ、あのクソガキ」
ケモノのすぐ隣を罵詈雑言と共に足音が駆け抜けていく。その数は到底数えられるほどではなく、目の前で忙しなく動き回る影がなくなるのを待ってじっと身を潜めた。
オピウムの粉は人間に快楽を感じさせる、いわば麻薬のようなものである。ここ数年、どこからか持ち込まれるオピウムの粉に頭を悩ませていたグラーコの町の人々は、ちょうどその犯人と思しき獣人を見つけて躍起だっていた。
勿論、偶然グラーコの町に入ってきたケモノにはそんなことは知る由もなく、咄嗟にその場から逃げ出したケモノの行動ははただただ幸運であった。
ケモノが身を隠してからおおよそ十分が経とうとした頃、ようやく辺りが静けさを取り戻してきた。
ケモノは瓦礫の隙間から恐る恐る顔を覗かせ様子を確認する。海沿いの道を随分走ったせいか人の気配はなく、捕まらなかったことにホッと胸を撫で下ろした。
「逃げなきゃ……」
安堵するのも束の間、そう呟いたケモノは帽子を深く被り、早々にその場を離れた。逃げている途中で船長の言っていた酒場らしき建物を見かけたが、今のケモノに事の成り行きを伝えに行く勇気はなかった。
あたりに警戒しつつ、ケモノは荒れた一本道を歩いていく。
改めて見るとそこらに並ぶ建物は今にも崩れそうで、到底人が住めるような場所ではなかった。露店で賑わう港町のグラーコとは思えないほどに朽ちた様子は昼間とは思えないほど不気味で、無意識のうちにケモノは足を速めていた。
逃げてきた方向と逆方向に数分ほど、ようやく人の気配があたりに漂い始めた。と同時に、何かに気づいたケモノが細い路地に素早く身を隠した。
「ほんっと、これだから獣人は」
「いつも騒ぎを持ってくるのは獣人さね。はぁヤダヤダ……」
ケモノは物陰から2人の女性が過ぎ去っていくのを見送る。どうやらケモノのことは既に町中に広まっているようだ。
「こんなことなら……来なきゃよかった」
小さく呟いたケモノは静かにその場にしゃがみ込んだ。
町を出ようにも、今の状況では入口まで辿り着く前に捕まえられるのは明らかだ。とは言え、大騒動になっているせいで船に戻ることもできず、今のケモノには俯いて地面を見つめることくらいしかできなかった。
ケモノの視界の端で一人、また一人と景色が流れていく。まるで自分だけが切り取られたようなそんな感覚に寂しくも、誰にも見つからないこの場所がほんの少し心地良さを覚えた。
しかし、気が落ち着いてくると今度は空腹感がケモノのお腹をじんわりと締め付ける。昨晩からパン一切れしか口にしていなかったせいだということはすぐに理解できたが、こういう時ですら遠慮のない自分の身体がケモノは少し嫌になってきた。
レンガ造りの壁に背中を預けたケモノは小さく溜め息をつく。
今の状況とこれからどうすればいいかを考えてはみるものの、その答えの一片すら掴めそうにない。
ふと、ケモノはさっきまで日の光が差していた地面に影がかかっているのに気づいた。日が落ちるにしてはあまりに早く、突如として現れたその陰が何なのかをケモノは一瞬にして理解した。
背筋が凍る。「動け」という意識に反して、すくんだ身体は一向に動く気配はない。が、そんなことはお構いなく、ゆらりと動く影は着実にケモノへと近づいてくる。
「やっぱりか」
物陰に隠れていたケモノからはほとんど見えていないようだったが、どうやら男からは何かが確認できたようだ。怯えたケモノを見て、男はケモノに聞こえない程度の声で小さく呟いた。
「獣人が問題を起こしたっていうから、まさかと思ったんだが……」
男は歩いていた足を止め、困ったように頭に手を当てた。
その声は低く渋く、ケモノはどこか聞き覚えがあった。顔すら思い出せない、そんな声だが、不思議とその声に恐怖は感じなかった。
ケモノは物陰から顔を出し、声のする方へと視線を向ける。
ケモノよりもはるかに大きい身体。それほど歳を取っている様子ではないが、若いと言えるほどでもない顎の髭は、さしずめ『おじさん』という言葉がよく似合いそうだった。
そんな姿にケモノは一瞬戸惑ったものの、すぐにその男が誰なのかを思い出した。
知り合いでもなければ名前を知っているわけでもない。勿論それは男も同じだろう。
しかし、男にケモノを捕まえる素振りはなく、むしろケモノと目が合った拍子に微かに笑みを浮かべた。
「よぉ嬢ちゃん、数時間ぶりだな」
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