第36話 どんな組織にも悪い奴は必ず存在する⑤

  トロイの木馬:死人が出ちまった。しかしこれも愚民どもがいつまで経っても火災の重要度に気付かないせいだ。こうなったら被害者が出ても構わねぇ。今夜の九時に、千乃木せんのぎ通りの住宅街で放火を決行する。死にたくない奴は、早めに避難しとくんだな。

 

 男は自分の書き込みを、目を白黒させて見ていた。

「な……なんだよ、これは。俺はこんなもん書き込んだ覚えはないぞ」


 その日の夜、男の姿は千乃木通りにあった。手には何も持ってはいない。男がしばらく歩くと、街灯の灯りが切れ、薄暗くなった道端の隅で、金髪の男が何やら不審な動きをしていた。しばらく傍観していると、金髪男の手元が明るく光った。

「おい、お前。そこで何をしている」男は金髪男に声をかけた。

「何って、花火をしようと思ってさぁ」金髪男は、全く悪びれる様子もなく話した。

「こんな夜に、こんな住宅街で?巫山戯ふざけるな」男が恫喝するように叫んだ時、側に停まっていた乗用車のヘッドライトが、男を照らすように点灯した。

「そこまでだ、トロイの木馬。いや、消防士、檜本 忠彦」車から古山警部が降りてきて、警察手帳を提示していた。

「な……何の事です。俺はネットの犯行予告を見て、消防官として阻止する為に、見回りをしてたんです。するとこの男が」檜本は金髪男を指差した。

「檜本さん。残念ながらその見回り行為自体が、貴男がトロイの木馬である証拠なんですよ」車の助手席から、探偵が姿を現した。

「見回りが証拠?何を言ってんだ。俺は確かに見たんだよ。トロイの木馬ってハンドルネームで、犯行予告が書き込まれてたのを」

「そう。それを見たと言うのがトロイの木馬だと言う証拠なんですよ」

 

 今から十一時間前、美々はトロイの木馬こと檜本 忠彦のパソコンに、ある仕掛けを施した。それこそが “トロイの木馬” と呼ばれるマルウェア(悪意あるソフトウェア)であった。一見、有用に思えるソフトウェアが、実は相手のパソコンをウィルス感染させる有害ソフトウェアである。

 トロイの木馬とはギリシャ神話にあるトロイア戦争に於いて、トロイアを滅ぼした原因となる、人間が中に潜めるように作られた木馬の事で、思わず取り入れてしまった物が、自分にとって有害だったと言う物の例えとして使われる。恐らく檜本もそれらを分かった上で、ハンドルネームをトロイの木馬としたのだろう。

 そんな檜本の思想を逆手に取った、美々のプログラムであり、探偵が立てた罠であった。

 トロイの木馬は檜本のパソコンを乗っ取り、勝手にコメントを書き込んだ。しかしそれはネット上ではなく、檜本のパソコン上のみの事だった。つまりはそのコメントが見られるのは、トロイの木馬本人しかあり得ないのである。

「檜本 忠彦。現住建造物等放火罪の容疑で逮捕する」こうして檜本は探偵の罠にまり、検挙された。



 探偵はバーにいた。隣の席には、髪に白い物が混ざったスーツ姿の男が座っている。

「我々警察には思いもつかないような、見事なやり口だったな、練斗」

「思いついても、今の警察じゃ、実行出来ないでしょ、古山警部」二人は同じバーボングラスをかち合わせた。

「ところでマスター。ツケのチャラは今回まで?」

「そんな訳ないでしょ、伊集さん……って言いたいとこだけど、まぁ今日はおごりますよ」マスターは磨いたグラスを照明に掲げた。

「ですって古山警部。だから今日は遠慮なく飲んで下さい」探偵の言葉を聞き、マスターは呆れたように鼻から空気を抜いた。

 入口のベルが鳴り、目を向けると、スーツスカートの美女が立っていた。

「伊集さん。やっぱりここにいた」鳴海 凛子は探偵の隣の席に着いた。

「ほう、この方がお前さんが良く言っている、美人の敏腕弁護士さんか」古山と凛子は互いに軽く会釈した。

「なぁ、練斗。やはりサッチョウに戻ってくる気はないのか?」

「よして下さいよ、古山警部。もしかしたら僕は今でも警察を恨んでいるのかもしれません。力を持たない警察をね」探偵の表情は、どこか影を落としていた。

「そうか、やはり父上の件が許せんか。まぁお前さんの言う真実に、いつか辿り着ける事を願ってるよ」古山は探偵の肩を軽く叩き、出入り口へ向かった。

「もう帰るんですか」

「すまんな。明日も早い。また一緒に捜査出来る事を楽しみにしているよ」古山の背中も、どこか寂しげであった。

「何?今の話し、どう言う事」凛子は興味深げに聞いた。

「ただの昔話さ」更に深くなった探偵の影に、凛子はそれ以上は聞く気になれなかった。

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