第26話 名探偵は安らぎの地でも事件に遭遇する⑤

「今回の犯行は貴女が行なったんですよね。元警察官僚、村上むらかみ 史明ふみあき氏のご婦人、村上 千代乃さん」探偵に指差された仲居頭、千代乃はその場で膝を崩した。

「許せなかった。夫を自殺に追いやった、あの男だけは」千代乃は四つん這いの姿勢で、止めどもなく流れる涙を床に滴り落とした。


 今から二十年前、警察官僚の村上 史明は、とある疑惑についての調査に当たっていた。それはここ数カ月の間に起こった事故や事件、不祥事などの忖度そんたくを含んだ隠蔽いんぺいがあるのではとの庁内での噂であった。

 例えばのところ、ある青年が轢き逃げ事故を起こした件があった。後に運転者は検挙されたが、当時、飲酒運転が疑われたにも関わらず、なし崩し的に事故は有耶無耶うやむやにされ、容疑者は釈放された。その容疑をかけられたのが、現役代議士の息子であった。

 他にも政治家周りの関係者による事件などが、全て納得のいかない、証拠不十分による不起訴処分や、何かの力が働いたとしか思えない、情状が酌量された起訴猶予処分が成されていた。その調査が史明の手により、秘密裏に行なわれていた。

 そんな時だった。週刊誌にスクープ記事が掲載されたのだ。記事の内容は、幾人かの政財界の大物から、賄賂わいろを受け取る史明の姿が写った写真と共に、噂されていた隠蔽工作が史明の手によるものでは、との疑惑の文章が誌面を埋めていた。

 もちろん史明にそのような身に覚えはなく、上からの尋問にも、断固として無実を訴えたが、週刊誌の写真が動かぬ証拠とされ、史明は自宅謹慎を申し付けられた。

 仕方なく謹慎を受け入れた史明だったが、真実は必ず明るみになるとの信念を持ち続けた。

 しかしそんな史明の覚悟とは裏腹に、報道は過熱。連日の如く報道陣が自宅を取り囲む事態を招いてしまった。その上、自宅謹慎を申し付けられた際に、必ず真実を解き明かすと約束してくれた上役うわやくは、テレビのインタビューで、もはや隠蔽工作をしたのは史明以外に考えられない、といった発言をした。

 追い詰められた史明は、自宅の書斎にて、首をくくり、自ら命を断つに至った。

 千代乃の哀しみは尋常ではなく、哀しみはやがて怒りへと移行し、記事を担当した黒川 宗介への殺意と変わっていった。


「予約をしてきた黒川の名を聞いた時、二十年前の苦しみが蘇ってきました。夫を亡くした私は、死に場所を探してこの桃園郷にきたんです。そんな時、先代女将の文華あやかさんに出会いました。文華さんは私の話しを聞き、全てを知った上で、私を住み込みの仲居として雇ってくれたのです」千代乃は目尻の涙跡が乾く隙もないほど涙を流して話し続けた。

「そんな恩ある先代に、今回の事件を起こして、迷惑をかけるとは思わなかったのですか」探偵は膝を付く千代乃に、優しく手を差し伸べた。

「もちろん考えましたわ。でも……私の胸の奥底から溢れる夫の怨念が、あの男を許すなと燃え盛るように熱く、私を衝動に駆り立てたのです」千代乃は探偵の手を取り、立ち上がりながら叫んだ。

「それは違います。史明氏の怨念などではない。貴女の個人的な私怨だ。そうやって貴女が犯罪者になる事を、史明氏は本気で望んでいたとお思いか?」探偵の言葉に、再び千代乃は膝を床に付き、肩を震わせた。

 

 千代乃は黒川への出迎えの接客を申し出て、黒川の容姿を確認した。その時から千代乃の黒川殺害計画は始まった。

 先ず、千代乃は出来るだけ黒川の警戒心を解く為に、二十年間培った接客術で信頼を勝ち得た。

『なんか仲居さんと話してると、実家に帰ってきたような安堵感を覚えるよ』黒川のこの台詞で、千代乃は計画の第一段階をクリアした事を確信した。

 次いで千代乃は、内風呂があるにも関わらず、大浴場の素晴らしさを謳って、部屋を空けるよう仕向けた。そうして大浴場へと向った黒川を見届けた千代乃は、菊の間に入り、梁に油を塗り、ロープを掛け、庇に積もっていた雪をスコップでほぐして、雪掻き道具をバルコニーに隠しておいた。

 そして予め美久から聞いておいた美久が食事を運ぶ時間に、菊の間を見張り、美久が部屋を出たタイミングから少し時間をおいて、黒川の部屋を訪れた。

『黒川様。お食事の方はいかがですか?』仲居頭として、当然のように訪れた千代乃を、黒川は訝しんだが、気さくに話す千代乃に心を許した。

『あら、えらく肩が凝っておられるんじゃ』こう言って千代乃は自然に黒川の背後を取った。そして肩を揉みながら、間合いをみて、一気に首にロープを掛けて力一杯に引っ張った。

「後は探偵さんが言った通りです」千代乃は項垂うなだれながら言った。

「残念です、千代乃さん。黒川氏は先の事件の黒幕で、警察庁長官の安佐川あざかわ 豪一ごういちに脅迫を行なっていた節がありました。身のほど知らずからの行動だったんでしょうが、いずれにせよ、奴は消される運命にあった。貴女が手を下すまでもなくね」影を落とす探偵の表情を見て、千代乃は号泣した。

「東。連行しろ」言いながらも、南警部補の表情にも、苦渋が滲み出ていた。

 立ち去るパトカーの赤いパトライトの点滅は、旅館関係者たちの心に、深い傷を残した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る