第5話 赤色の辞書
「……これは?」
「この前教えた飴です。袋を剥いて食べてみてください。ご飯食べ終わった後にですよ。」
「これが飴!?なんか思ってたのと違う……」
「何も知らないんだから想像もできないでしょうが。」
「ば、馬鹿にしないでよ!想像くらいできるもん!」
検査が終わり、食事の時間。
前までなら、検査が終わり次第そのまま部屋から出ていくのが普通だった。
俺がずっとここに居座ると、彼もリラックスできずにストレスが溜まってしまうかもしれない。
それに、俺も自分の時間が欲しかったから、という理由もあった。
だけど今は、食事中の彼の話し相手になるために部屋に居座るし、平気で一日中一緒にいることも増えた。
彼が、こんな真っ白い無機質な部屋にひとりぼっちだなんて耐えられない、と泣きそうになりながら言ってきたのも理由の一つかもしれない。
俺は自分が思っていた以上に優しい人間だったらしく、そんな寂しがり屋な彼にずっと寄り添っている。
家族にさえもこんなに優しくしたことがないのに。
この優しさが自然とあふれてくるのは、きっと彼が可哀想な人間だと認識し始めたからだと思われる。
ヨボヨボの、未だ口を開かない頑固オヤジに無理矢理爆弾を埋め込まれ、勝手に周りの人間から距離を置かれているだなんて可哀想過ぎると思うのも当然ではないか。
同情というのは、あまりプラスな言葉ではないから彼のためにもできるだけ表面に浮き出させることは避けたいと思う。
彼は、俺の事をこの人生で出来た初めての友達だと思っているのだから、ガッカリさせるようなことはしたくない。
「貴方は、監禁されていた前と今、どっちが幸せですか?」
他愛もない会話を繰り返していた俺らだったけれど、踏み込んだ話をしても良いくらいの関係になったのではないか、という期待を込めての質問だった。
そういえば、俺から彼に質問するだなんて滅多にない。
言葉の意味やら、なにやらは全て彼からの質問で、俺は次々と降ってくる彼の疑問にただ答えていくというようなことしか無かった気がする。
彼の顔色を伺いながら質問をしたのだが、彼は何も気にしていないかのように咀嚼し続け、ものを飲み込んだ後に口を開いた。
「前も今も何も変わらなくない?」
「……え?」
まさかそのような回答が返ってくるとは思ってもみなかったために、用意していたたくさんの回答パターンが一気に崩れ落ちたのを感じた。
「だ、だって、今はもっと美味しいものが沢山食べられるし、本だって好きなように読ませてあげているし……ほか何か不便なところはありますか?」
悩む前に、今の方が幸せだと言ってくれるだろうと何となく予想していた俺は、必死に今の生活を振り返ってみた。
俺はかなり充実しているが、彼はそういう訳ではなかったらしい。
「そりゃあ、欲しい本はなんでも手に入るし、食事も今の方が美味しいかもしれない。……でも、結局監禁されているのは同じだよ。」
「……監禁?」
「うん、だって今も真っ白い部屋の中で君と触れることも出来ないまま閉じ込められているじゃんか。」
彼は平然に、けれど何も気にしていないかのようにまた食事に集中した。
俺は、何も言えぬままただその場に突っ立っていることしか出来ない。
「……外に出たいですか?」
「そりゃあそうだよ!だって僕、まだ一回も外に出たことない。外に出なくたって、監禁されない自由な生活があるのならその主人公になりたいよ。」
最初は知能のないただの可哀想な少年だと思っていた。
けれど、知識がついてボキャブラリーが増えていくとこんなにも自分の主張を強く言えるのだと初めて教育の素晴らしさを感じられた。
でもそれと同時に、彼にちゃんとした教育を受けさせなかった博士や先生の気持ちもなんだか分かるようになる。
彼はものすごい速さで周りのものを吸収していくから、たくさんのことを覚えさせてしまえば彼は従わなくなるだろう。
いや、その意見はだいぶ前から持っていたものなのだが、問題はもうひとつの理由。
頭の良い彼は、何をしでかすか分からない。
ここから抜け出そうと密かに計画し始めるかもしれないし、なにか深いことを考えて普通の人間の俺たちを騙そうとするかもしれない。
その方が明らかに不安だった。
「……何が、足りないですか?」
「……え?」
彼が聞き返した瞬間に、俺はガラスへ張り付いてもう一度大きい声で問い掛けた。
「あなたが快適にそこで生活できるのには、何が足りないんですか?なんでも揃えてあげますから。」
「別に快適じゃないわけじゃないけど……」
「でも不満があるんですよね少なくとも。それはなんですか?改善しますから……」
俺はなんでこんなにも必死になっているのだろう。
彼がここの生活を不満だとは一言も言っていないじゃないか。
それなのに、どうして不安になってしまうのだろう。
「……俺は…少ない時間でも……あなたに幸せになって欲しい。」
考えずに出た言葉は、友達に対して放つ言葉ではなかった。
だんだん頭がおかしくなっていくことなんて、自覚できている。
それは、彼と出会ったから?
それとも、この監禁部屋のような場所でしばらく暮らしていたから?
はたまた、この職を選んでしまったから?
上司の言葉が頭を過ぎっては、そんなことはしないと自分で首を振る。
彼と一緒に逃亡しようなんて、そんなリスクが大きいことはしない。
したくもない。
ただ、彼の笑顔は誰でも惹き付けられるような能力がある。
それに運悪く捕まっただけで、特別な感情は全く抱いていない。
そう自分に言い聞かせなければますます狂ってしまいそうだった。
あまりにも深く関わりすぎてしまった今日は、最近にしては珍しく、彼の部屋から出て距離を置いていた。
パソコンに向かい、調査票やらなにやらを記入していたが、彼の部屋にいるよりは捗っている。
そのはずのに、どこかやりがいもなければ、寂しさを感じてしまうのは一体なんだろうか。
書き終えたあとも、これからの事を考えては何度もエナジードリンクを飲んで忘れようとした。
酒で自分を潰した方が、今は正常に生きられるのかもしれない。
けれど、結局酒は飲むことが出来ないため(一応勤務中)覚醒するドリンクで我慢しておこう。
暗闇に包まれた部屋の中で、黙々と作業をしていたその時。
この夜中には珍しく、携帯が光ながら音を奏でた。
画面に映る名前は、信頼出来るあの上司で。
何か緊急事態に間違いないと思った瞬間、すぐに手に取ってボタンを押した。
「どうしました?」
「おい、いよいよあの爺さんが吐いたってよ!」
「……え!?ボタンの居場所ですか?」
想定外すぎる言葉に、俺はしばらく固まることしか出来なかった。
ブツが見つかっているなら、彼は即座に殺される。
この世の人間を守るため、彼は人間なのに処理されてしまう。
機械と同類に扱われる彼に、同情してしまった俺はもう既に手遅れだったのかもしれない。
「ああ、だがな、思ったより聞き出すのに時間がかかりすぎたみたいだよ。」
けれど、電話から聞こえた上司の声は、ボタンを見つけたという明るい声ではなくて、むしろ難航したとでも言いたいくらいの声色だった。
「時間がかかりすぎたとは?」
「あいつは言ったんだ。〝ここにはスイッチ何てない。〟ってね。」
「……え?」
間抜けな声が出た。
だって、警察を始めこの事件に関わってきた全ての人達が、この博士の口をかっぴらくことが出来れば、全て解決すると思っていたからだ。
「それはどういうことですか?」
驚きで声が掠れたのがわかった。
「ああ、実はもう1人、黒幕がいたらしいんだ。女らしいんだが、そいつにスイッチを預けてあとは任せたと。そいつもその女の行方は知らない。」
まだ、スイッチは見つかっていない。
その事実を確認した瞬間、上がっていた肩が下りて何故か安堵のため息をついた。
そして上司の言葉をもう一度反復した中で、俺はひとつ気づいた。
「あ!彼が言っていました!女がいたって。勉強好きな彼が、本の中で分からなかった言葉をその女に聞いていたらしいです。でもどれもデタラメで、実際意味があっていたのは教えてもこっち側に害が無いものだけ。」
「そうかそうか!お前なら、彼に女の特徴を聞き出せるか?」
「……分かりません。」
嬉しそうな声とは反対に、俺の声は強さを失っていった。
自分の感情がよく分からない。
捜査を早く終わらせて、解決させたいという気持ちがあるから、女の子とも詳しく説明した。
けれど、実際にその情報でスイッチが見つかり、それで処理されてしまったら、俺は一生彼を殺したという支配に囚われるだろう。
それは、ただ人を殺したという罪悪感だけではなさそうだった。
「なんだよその分かりませんって。……お前、大丈夫か?」
俺は、どんなものでも多数の犠牲を出す可能性があるものは徹底的に壊す。
それがたとえ、動物でも人間でも、ただの機械でも。
そのせいで、上司からも同僚からも、偉い人からも共通して言われた言葉。
お前は血も涙もないから処理するときは楽だろう。
羨ましがられるくらいの冷たい人間だったはずなのに。
どうして俺は、そんな弱い人間になってしまったんだろう。
「……大丈夫です。スイッチが見つかり次第、即座に処理したいのでまた連絡ください。どんな夜中でも待ってます。」
弱い人間だということを周りに知られるのはプライドが大変傷つく。
だからあくまでも俺は正常を装って、そそくさに通話を切った。
回転椅子の背もたれに背をびったりつけて、天井を見上げながら、その夜は何も考えられなかった。
「おはようございます。」
今日も今日とて、検査のためにいつものように訪れたのだが、いつも言葉を教えてと近寄ってくる彼が近寄ってこない。
むしろ、俺の事をまるでいない人間かのように振舞ってずっと無視を繰り返されていた。
だけど検査のための装置はしっかり自分でつけるし、俺の言葉はしっかり聞こえているらしかった。
機嫌が悪いのか?
それはもしかして、昨日の俺のせいか?
分からないが、あまりにも心当たりがありすぎて、何も言えない。
検査も無事終わり、ずっと部屋に居座ろうとするけれど、やはり彼は俺に近づいてこない。
部屋の奥に設置されたベッドの上で、蹲りながら本を読んでいるだけだった。
「……体調は大丈夫ですか?」
沈黙が許せなくて、言葉をかけたけれど彼は全く反応しなかった。
「……何も言わないと分かりません……俺がなにか悪いことをしたなら、謝ります。」
本当はこんなことを言わずに謝ればいいだけの話なのに、やっぱり高いプライドが立ちはだかって結局謝れない。
でも、俺がそう言った瞬間に、彼はパッと顔を上げて本から目を外した。
初めての反応で、ハッとしたような表情をしたけれど、それはつかの間の出来事で、また表情が消されると本に没頭しはじめた。
その仕草に、俺はまだ嫌われていないのだと自覚したと同時に、彼とどうやって仲直りしようかをずっと考える。
「……ごめんなさい。」
考えた先にあったのは、とりあえず謝ること。
それ以上のことも、それ以下のことも、仲直りには必要ない。
彼は、綺麗な裸足を片手で弄っていたが、その言葉を聞いていたのか聞いていなかったのかは分からなかった。
もちろん仕事なんて手につけるはずもない。
いつもはうるさいと思うほどしつこく迫って来るやつなのに、今日は一言も喋らないと来たものだ。
俺は、仕事も全く手につかないまま、彼に近付いてガラスに背を向けた。
最初の方は、彼がいつ爆発するかも分からないという恐怖で必要以上に近付かなかったのだが。
「……近寄らないで。」
彼がやっと口を開いた。
その言葉は、驚くほど冷たく俺を突き放すような言葉だった。
君の心に憎しみと愛を。 サカナ @fish564
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