第3話 茶色のシミ

次の日、朝の検査のために部屋に来た俺は、彼の朝食とともに1冊の本を置いた。


ベッドが膨らんでいて、小さな部屋に姿が見えないのを見ると、まだ夢の中らしい。


俺はガラスで仕切られた調査スペースの椅子に腰掛けて、彼の目覚めを待つしか無かった。


そういえば、ある程度のマニュアルはあるけれど実際生活してみると疑問ばかりでため息が漏れる。


毎朝7時くらいに1回目の検査と書いてあるが、これは絶対7時にしなくてはいけないものなのか。


もし絶対というのがあるなら、今でも彼を叩き起して無理矢理検査をしなければならない。


……それはさすがに装置でも可哀想だ。


食事が冷えてしまう、と思ったけれど、温めるための家電はこの部屋より遠い場所にあって、わざわざ温めに行くとその間に起きてしまいそうで。


特にやることも無く、ただ昨日のようにベッドを見つめた。


俺が選んだ本は、あまり難しくないけれどだからといってすらすらと読めるような単純な話ではないものにした。


いくら教育がされていなかったとしても、絵本なんてものを持ってこられたらさすがにブチ切れると思って、しっかり配慮をしたつもりだったのだけれど。


……昨日、好みのストーリーだとか、色々聞いておけばよかった。


普段コミュニケーションをあまり取らない性格だから、話す必要もないと思って軽く引き受けてしまったが、意外にも難易度の高い仕事だったらしい。


しばらく待っていると、もぞもぞとベッドが動き始め、パッと顔が出てきた。


最初は状況を理解していないようなぽわぽわとした顔だったけれど、次第にゆっくり目が開いて、俺を見つけた瞬間に微笑んだ。



「おはよぉ……」


「検査の時間ですよ。早く機械を取り付けてください。」


「むぅ……もうちょっと待ってよ……」



俺はこの仕事が終わったあとに、朝食を取るつもりなのだ。


あまりダラダラとされるといつまでも朝食にありつけることができない。


寝起きだからか、フラフラとした足取りで機械が取り付けてある壁まで歩き、ゆっくり心臓に貼り付けていく彼。


パジャマから覗いた白い腹は、ぺしゃんこで棒のように細かった。



「今日も異常なしですね。また昼に来ます。」



書類に今日の健康状態を書いて、部屋を出ようとすると「あっ、」と嬉しそうな声が背後で響いた。



「これ、君が選んでくれたの?本だ!ありがとう!」



ガラスの奥と、こっち側を繋ぐ唯一の小さな扉がついたところに、朝食と本を置いておいたはずなのに。


彼は朝食に目もくれず、俺がチョイスした本をひたすら嬉しそうに眺めていた。



「本、そんなに好きですか?」


「大好き!不思議がいっぱいで知りたくなることが沢山書いてあるの!」



表紙を愛おしそうに指で撫ぜながら、彼はベッドに寝っ転がった。



「……ちゃんと朝食食べてくださいね。」



健康状態に異常をきたしたら面倒臭い。


取り敢えずちゃんとご飯を3食食べ、ずっと健康なまま居てくれるならそれが1番楽だ。



「ねぇ!」


「……はい?」



「ありがとう!」



彼は眩しい笑顔を俺に向けてくる。


俺のことは、友達か何かだと認識しているのだろうか。


これだから知能が足りない人間は。


昨日初めて出会った人物に、年齢が近いからと言ってすぐに全ての気を許してしまうだなんて、こんな不用心なことはない。


それに、初対面に敬語も使えないような子供の言動に、実際外へ飛び出してしまうと、彼は生きていけないんだろうな、と謎の同情までもしてしまう。



「……それでは。」



このままこの部屋にいれば、変な会話を振られそうだし、相手もゆっくり本を読むことが出来ないだろう。


そう思って、俺は足早に部屋を去った。






彼はガラス張りで、ベッド以外のほぼ必要な家具が全て揃っていないために、朝食はもちろん支給制だ。


けれど、そんな彼のお世話を付きっきりでする俺のご飯は、なんと何も用意されていない。


それはそうだと何となく納得するしかないのだけれど。


一応良い歳をした未婚の成人男性なのだ。


けれど、料理はもちろん出来ないし、そんな時間もないために、彼の検査が終わったあとの朝食は、決まってすぐにできるトーストになるだろう。


焦げ目がついたトーストに、バターを乗せてナイフで全体に広げる。


じゅわりと溶ける黄色い固形物は、だんだん大きさを失っていき、最終的には溶けていなくなった。


バターだけじゃ少し物足りないか、そう思っていても結局はそれだけで満足している自分がいた。



バタートーストだなんて、コツもなければ作り方という名のレシピもほぼないに等しい。


簡単で美味しいものというものは、本当に仕事人の俺に大切だと実感するようになった。


冷凍食品だって、自分が食べないのならずっと冷凍庫が守ってくれていたっていい。



自分が食べる分なのだから、別に粗末でも他人には関係ない。


俺が満足すれば、結局食事したことになるのだから。


俺はふと、鞄から本を取り出した。


彼に読ませるための本を、図書館で探していた時に懐かしいと思って手に取った一冊。


図書館で借りた、ということもあり表紙は小汚く、所々のページには、茶色いシミがついている。


けれど、この本の中身はやっぱり変わらない。


それは当たり前なのだけれど。


最近は危険な仕事ばかりで、現場に行くような忙しいものだった。


最初は本を読んで時間を潰す、だなんて優雅なことをしていた俺だけど、この仕事を始めてからそんな暇などなく、自然と足が遠のいていたのは事実。


正直、小学生の朝読書の時間のような、本のための時間があれば、もっとゆったり読むことが出来るのだろうけど。


あんなのは教育の一環で入り込まれているだけで、大人の俺たちにはいらない時間なようだ。


ふと、彼がしていたようにその古い表紙を優しく撫でてみた。


そしてゆっくり顔へ本を近づけて、匂いを嗅ぐ。


本独特の香りがじわりと広がって、それから消えた。


今日は久しぶりに本でも読んで一日を過ごそうか。


自分のための時間だなんて。


結局、心臓型爆弾装置の彼のせいで、こんな不気味な研究所に閉じ込められているのだけれど。









ふと、文字を見つめて気付いた時には、もう既に時計の針が頂点を刺そうとしていた。


あっという間にすぎた時間に一瞬目を丸くしながらも、久しぶりにリラックス出来たせいか目が疲れているはずなのに視界が明るく見える。




大きくのびをした後に、彼の待つ部屋へ向かうと彼は熱心に本を読んでいた。


なんだかそんな彼を邪魔したくなくて、また、彼をゆっくり待つ。



「来てくれたなら言ってくくればいいのに!」



数分たって、彼が俺に気づいた時そんな言葉を掛けられた。



「いや、あなたがあまりにも真剣に本を読むから…」


「ねぇ、この本すっごく面白いよ。本当にありがとう。でもね?分からない言葉があるの。」


「分からない言葉?」


「うん。検査したあと、教えてくれる?」



本当は自分のため以外にあまり時間を費やしたくないのだけれど。


純粋で、透明な瞳に見つめられてしまえば、動けなくなったと同時に自然と頷いていた。



「やったあ!」



そしてまた、嬉しそうに笑う彼が眩しくて、俺は思わず彼から目を背けてしまった。



いつものように検査を終えて、大体はすぐこの部屋から出ていくのだけれど今日は違う。



「これ、これ!これなんて読むの!?」


「えーっと、これは……」



まるで、同じ世界に生きている人間じゃないみたいに、彼の思考は他人に到底理解できないことばかりだった。



「あ、またこの単語出てきたんだよね。テレビ。動く箱でしょ?」



テレビについての解説も、まるでタイムスリップしてきた侍のような口調で話す。



「動く箱……と言えばそうなんでしょうけど。暇つぶしには面白いですよ。ニュースとか、バラエティとか。」


「……え?何それ?」


「なにそれ、ってあなたが言ってるテレビのことですけど。」


「だってだって!テレビって存在しないんでしょ!?」


「……普通に存在しますけど?なんなら、この施設の俺の部屋に、小さいけどありますよ?」



彼は目を丸くして、首を傾げた。


もしかして、テレビというものは架空のもので、俺たちで言うあの青いタヌキがだすひみつ道具か何かと思っていたのだろうか。



「……嘘……君、冗談下手くそだよ?」


「いえ、これは紛れもなく事実ですけど。」


「絶対うそだね。僕のこと、からかってるんでしょ。バカにしてるんだ。」


「いやいや、本当にあるんですって!」


「ないよ!!」


「どうしてそんなに信じないんですか!?」



知らないことを、教えてあげているだけなのに、何故かムキになって怒っている彼に少し大きな声で言った。


そうすると、彼はしょんぼりとした表情になりボソボソと口を開く。



「…あの子が……教えてくれたんだもん。」


「……あの子?」


「……うん。あの子は絶対に嘘つかない……」


「誰ですか、それは。」



彼が言っているあの子、とは。



もしかしたら、今警察が必死に追っている彼を閉じ込めていた場所の人物ではないだろうか。


あの施設に関わっていた人物を、全て特定して逮捕しようとしている警察にとっては、彼の証言がとてつもなくヒントになる。


だから、警察は彼とコンタクトを試みたのだけれど、沈黙を貫いたまま口を開かなかったと。


確かにそう聞いていた俺は、さらに彼から〝あの子〟の特徴を聞き出す。



「その人は、男?女?」


「……女……だけど。」


「どんな容姿してたの?服装は?」


「……怖いよ。なんでそんなに聞きたがるの?」


「……君を閉じ込めていた、あの施設の人達を恨んでいないんですか?」



俺はガラスにへばりつく勢いで、近づき彼を言葉で追いかける。


問いかけた先の答えは、彼が言わなくたって何となく理解できるようなものだった。


彼は、〝あの子〟をとても大切にしていたに違いない。



「誰にも口外するな、と脅迫でもされたんですか?」


「……こうがい?きょうはく……?わかんないよ。」


「分からないっていうのは、実は嘘だったりして。」


「…………え……?」


「本当は全てをわかっていながら、俺に嘘をついているんじゃないですか?結局、あなたはそっち側の人間だということですね。」


「……何を言っているのか分からない……僕は、本当に分からないんだよ。分からないことを分からないっていえば、あの子は素直に教えてくれた……」


「……先生だったんですか?あなたにとっては。」


「……先生……うん、そういうものだった。」



彼は、嘘というものの本当の意味を知らない。


嘘というのは、偽りのことを言うことだと言うけれど、他の人間と接したことのない彼が、嘘をつくという方法を知っているようには思えなかった。


それに、閉じ込められていたあの施設の人達も、彼を従わせるために嘘なんてものは学習させないはずだ。


もし俺が博士で、なんでも自分の言う通りに動くロボットのような人間を手に入れたら。


嘘なんてマイナスなものは絶対に教えない。



「……テレビは、ふぇいくばかり流すから、悪いものだって言ってたよ?」


「……フェイク?」


「うん。」



彼は俺を、不思議な顔で見つめる。



悪影響を及ぼす可能性があるものは、空想の世界に存在する現実ではありえない道具だと教えこんでいたのか。



「ねね、あと、これはなんていう意味?」



俺がテレビ如きで戸惑っている間も、彼はまた別の単語を探していたらしい。



「勉強、好きなんですか?」


「勉強が好きっていうか、分からないのが嫌いだから全部知りたいの。」



彼に教育を受けさせないだなんて、なんて可哀想なんだろうか。


きっと彼が普通の世界で普通の人間として生きていれば、優秀な成績を収めて今じゃ素晴らしいところへ就職出来ていたはずなのに。


彼の能力を全部打ち消したなんて、勿体ない。



「……そうなんですか。あ、これはですね……」



辞書を買ってあげようか。


そうすれば俺が居なくたって勉強できる。


それに本を簡単に読み進めることも出来るだろう。


分からない単語がひとつあっただけで、読書というものは止まってしまうものだから。






「……はい、はい。……いえ、何も……。」



プツリと電話を切って、俺は自室のソファーに倒れ込むように座った。


電話が切れたと同時に、俺の充電も切れたみたいだ。


彼についての手がかりは、彼がたまに漏らす言葉以外結局なくて、それを掴むことは簡単ではなかった。


しつこく聞けば、本人の機嫌が悪くなり、口を閉ざしてしまう。


だからといって何も聞かないでいると、前に進まない。


彼を閉じ込めていたやつは相変わらず黙秘を続けていて、このままじゃ埒が明かないだろう。


一生このまま、彼は爆弾を心臓に抱えたまま寿命を全うし、この真っ白い部屋の中で静かに息絶えるのではないかとも思ってしまった。


結局彼が正直に全てを話しても、スイッチが見つかって処理されるのは口を開いた彼だ。


頭が弱くてもそのくらいは考えられるだろう。


最初は加害者と被害者の関係だと思っていたけれど、最近話を聞いている中では、完全に彼が洗脳されていることに気がついた。


この生活が、本の中で言う自由というものだと思い込んでいる彼が。


酷く可哀想で、思わず同情してしまった。


……けれど、彼がたどる道は結局そんなものしかないのだ。


変に本当の自由を教えて、ここから抜け出されても仕事が増える。


気づけば彼のことばかりを考えてしまう自分に気がついて、勢いよく首を振るとそのまま目を瞑って夢に落ちた。











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