4. ホームレスになりたい

「ねぇ、焦げ臭くない?」


「――えっ、あっ! ほんとだ!」


 母に指摘されて、私は目玉焼きが焦げていることに気付く。


「ごめん、お母さん」


「別にいいけど……」


 朝食当番として、今朝の料理を任されている私。

 責任を感じて謝ると、母は許してくれた。

 にも関わらず、浮かばない顔をする母。

 そして、浮かばない顔をしているのは、私もだったのだろう。

 母が優しい声で問う。


「凪、嫌なことでもあった?さっきからずっと、ぼーっとしてるから」


「ううん、大丈夫」


「――そう。困ったことがあったら、ちゃんと言いなさいよ」


 そう言って、母は人差し指で私の額を弾いた。

 想像以上に威力があったせいか、痛みはなかなか消えてくれなかった。




◇◇◇




 今日は、例のトンネルを通ることなく学校に到着した。

 相変わらず、私は誰とも話さない。

 誰にも話しかけられない。


 ――授業はあっという間に終わった。

 集中できなかったのに短く感じたのは、私が何も考えていなかったからだろう。

 頭の中を空っぽにして、無になっていたからだろう。

 その証拠に、授業内容は一切覚えていない。

 気が付いたら放課後になっていた――、それだけだ。


 放課後を迎えた事実を認識した直後、私は教室を出る。

 下駄箱で靴を履き替え、校門を潜る。

 そして、人通りの多い道をぼんやりと歩いていると、背後から名前を呼ばれた。

 ゆっくり振り返ると、そこには茶髪ミニスカの問題児とその取り巻きがいた。


「何?」


 私は尋ねる。


「ちょっと話があってさぁ、ついて来てほしいんだよねぇ」


「――わかった」


 下手に抵抗すると、もっと面倒なことになりそうだったので、私は彼女従うことにした。


 ――揺れる茶髪を追っていると、突然、暗闇に包まれる。

 何事かと思って辺りを見渡すと、そこは見慣れたトンネルの中だった。

 しかし、あのホームレスの姿はない。


「よし、ここでいいかなぁ」


 彼女は足を止めて、振り返る。

 そして、ニヤリと笑ってこう言った。


「あのさぁ、お金くんない?」


「――ぇ?」


「だからぁ。受験を控えたうちらを応援するつもりでぇ、お金くらい渡してくれてもいいよねぇってカンジぃ〜」


 ――ああ、なるほど。

 彼女は噓をついている。

 昨日まで、自分の心に噓を吐いていた私にはわかる。


 彼女は、受験勉強によるストレスと数日後に迫った入試本番への緊張を緩和するために、愚行に走っているのだ。

 彼女にとって、私からの応援やお金の使い道は二の次。

 私を脅迫している今この瞬間こそが、彼女の心の余裕を作るのに必要なのだ。


 それにしても、受験を間近に控えているのに、こんな馬鹿なことをするとは。

 人目の少ない所を選んでいるのは、良い判断だと思う。

 だが、私がこのことを学校側に報告したら、その判断も無駄になる。

 そうなった場合、彼女はどうするつもりなのだろうか。

 

「渡せません。私、そんな余裕ないので」


 きっぱりと言う。

 理由は二つ。

 一つは、言葉通り金銭的な余裕がないから。

 もう一つは、大事にしたくないから。


 厄介事を嫌う私でも、お金を奪われたなら学校に連絡せずにはいられない。

 そうなれば、彼女たちの受験にも何かしらの悪影響が及ぶだろう。

 それは、私にとっても彼女たちにとっても好ましくない。


 私がお金を渡さず、学校にも連絡せず、彼女たちは安心して受験に臨む。

 それが一番なのだ。

 だから、私は断った。

 しかしながら、その対応は短気な彼女の神経を逆撫でしてしまったらしい。


「はぁあ!? 舐めてんじゃねぇぞ!」


 彼女は私の胸倉を掴み、声を荒げる。

 流石にまずいと思ったのか、取り巻き連中が彼女をなだめにかかる。


「もう、やめたほうが……」


「今日は帰ろうよ……」


 しかし、冷静さを失った彼女にその声は届かない。

 腰の辺りまで伸びた茶髪を振り乱して、彼女は拳を振り上げる。

 私は反射的に瞼を閉ざし、我が身を襲うであろう衝撃に備える。


 ――が、衝撃はいつまで経っても訪れなかった。


 私は恐る恐る目を開ける。

 直後、瞳に映ったのは――、


「また、来ちゃったのかい?」


 あのホームレスの背中だった。

 決まり文句を言って、男は笑う。

 掌で問題児の拳を受け止めながら。


「お前誰だよ!? うちに触れるな、気持ち悪い!」


 状況を理解できず、暴れだす彼女。

 そんな彼女を、男は地に押さえつける。


「少し、冷静になろう」


「う、うるせぇ。……みんなぁ、ケーサツ呼んでぇ。不審者に乱暴されたって伝えてよぉ」


 警察を呼んでくれという彼女の要求を聞き、取り巻きの一人がスマホを操作し始める。

 「もしもし。警察ですか?」という声が暗いトンネル内に響いたのは、その数秒後のこと。


「どうして、助けてくれたの?」


「――――――」


 私が尋ねると、男は顔を背ける。

 何も答えてくれない。

 それでも、私にはわかった。

 男が私を助けた理由が、私にはわかってしまった。

 いや、ずっと前からわかっていた。


「優しすぎるよ……」


 そう、この男は優しすぎる。

 私とは違って。

 自己承認欲求を満たすために上辺うわべだけの優しさを取り繕っていた私とは違って、男は本当に優しいのだ。

 欲望が身体を動かしていた私とは違って、男の身体を動かしたのは純粋な優しさなのだ。


「……ごめんっ……なさいっ」


「君が謝る必要はないよ」


「……ありが……とう」


「礼の言葉もいらないよ」


 ――数分後、警察が来た。

 いつもは暗いトンネルが、赤い光に照らされていた。




◇◇◇




 ホームレスの男は抵抗しなかった。

 何も言わずに、連行された。

 涙越しに見たその光景を、今でも鮮明に覚えている。


「私の夢。目指す姿か……」


 『卒業文集。僕、私の将来の夢!』と印字された紙を眺めて、私は呟く。

 その後、無言でシャープペンシルを握る。


「――――――」


 何を書くか。

 そんなもの決まっている。

 私は優しい人間になりたい。

 自己承認欲求を満たすために他人に優しくするような人間ではなく、本当の優しさを持った人間になりたい。

 私を救ってくれた、あの男のように――あのホームレスのように――。


 そういえば、名前を聞いていなかった。

 家にまで招いておいて、名前すら知らないなんて。


 まぁ、いい。

 迷う必要はない。

 書く内容は決まっているのだから。











 ――私は、あのホームレスのようになりたい。

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ホームレスになりたい 桜楽 遊 @17y8tg

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