3. ホームレスにさよならを
朝、昨日と同じ場所で例のホームレスと挨拶を交わしてから、私は学校に行った。
「――――――」
授業が始まると、教室には静寂が訪れる。
大学入学共通テスト――センター試験に代わって導入された新たな試験――を十日後に控えた高校三年生。
皆、集中して問題演習に取り組んでいる。
無論、ここにいる全員が国公立大学を受験するわけではない。
しかし、私立大学の入試も迫っているため、全員が集中していた。
――あっという間に時は過ぎ、昼休みを迎えた。
教室内に響くのは、例の問題児の声。
彼女を中心に、取り巻きの女子たちが騒いでいる。
今日も愚痴を言われるかと思ったが、その心配は杞憂に終わる。
彼女たちが、卒業文集の話で盛り上がっていたからだ。
「卒業文集ってさぁ、三年間の思い出を書けばいいんだよねぇ?」
「違うよ、リィちゃん。将来の夢を書けばいいって、前に言われたじゃん」
「そうそう。受験勉強の妨げになるといけないから、一文だけでいいらしいよ」
そんな話もあったな――と、私は蛍光灯を眺める。
将来の夢というものを持っていない人は、いったい何を書けばよいのだろうか。
『長生きしたい!』『健康を維持したい!』とでも書くしかないのだろうか。
――ああ、これは困った。
卒業文集に書く夢が、見つからない。
◇◇◇
放課後。
私はまた、ホームレスに会いに行った。
「また、来ちゃったのかい?」
その台詞は、男の決まり文句になっていた。
「ねぇ、あなたはどうやって生きているの?」
私は尋ねる。
飲食料を何処で手に入れているのかが、純粋に気になっていたからだ。
「鼠でも捕まえて、食べてるんじゃないのかな?」
男は他人事のように言う。
その態度に少し腹が立って、私は頬を膨らませる。
「真面目に聞いてるの!教えてくれたっていいじゃない。……あっ、でも……言いたくないのなら……別に……」
「ふふっ、気にしなくていいよ。そういうわけじゃない」
途中で自分の図々しさに気付き、オロオロしている私に、男は優しく笑いかける。
その数秒後、男は真面目な顔を作ると、言った。
「君には、僕のいる世界のことを知ってもらいたくないんだよ。美しいものには、美しいままでいてほしい」
それは、男の本音だった。
男の瞳が、声が、身体が、そう主張していた。
だから、それ以上は聞かなかった。
私は話題を変えることにした。
「――今から、うちに来ない?」
突然の提案を前に、男は――絶句した。
◇◇◇
「本当に入っていいのかい?」
玄関の前で、男は気後れしたように言う。
「今日、お母さん帰って来ないし」
「そういう問題じゃないと思うんだけど……」
優柔不断な男だ。
私が許可を出しているのに。
まぁ、母には秘密だけど。
「もう少し自分を大切にしたほうがいい。僕じゃなかったら、大変なことになってるよ」
そんなことをぶつくさ言いながら、男は仕方なさそうに私の家に入る。
近くの川で水浴びでもしたのだろうか。
男の体臭は、以前よりいくらかマシになっていた。
――その後、私は男の髪を切った。
剃刀で髭も剃った。
それだけで、男の不清潔感は少し薄れた。
男に風呂に入らせている間に、私は夕食を作ることにした。
時間的な問題もあり、男の服を洗濯することはできないが、それは我慢してもらおう。
米は
料理を皿に盛り付けた時、男がリビングに来た。
家に上がった時と同じ薄汚れた服の隙間から、風呂を上がりの火照った体がちらついている。
指示した通り、短くなった髪を私が貸したドライヤーで乾かし、濡れた体を私が貸したバスタオルで拭いてくれたようだ。
私と男は席に着き、「いただきます」と合掌する。
私は箸を使って、白米を口に運ぶ。
一方、男はいつまで経っても箸すら持たない。
「食べないのか」と私が尋ねると、男は徐ろに口を開いた。
「どうして君は、僕を気にかけてくれるんだい?」
「どうして……」
「うん、どうして?」
その問いに対する答えを探すが、見つからない。
だから、私は正直に言う。
「自分でもわからない」
それを聞いてた男は、「そっか」と呟く。
ただ、それだけ。
それ以降、会話が生まれることはなかった。
別れ際に、男が「ありがとう」を――、私が「ばいばい」を言うまで。
――男が去った直後、私は玄関の壁に体重を預けた。
けれど、体はそのまま下にずり落ちてしまい、私は尻餅をつく。
『どうして君は、僕を気にかけてくれるんだい?』
頭の奥に、男の声が響く。
『うん、どうして?』
どうして――。
そんなこと、私自身もわからない。
探しても探しても、答えは見つからない。
『本当にそうなの?』
今度は、聞き覚えのない言葉が響く。
その声は、私の声に似ていた。
『本当にわからない? 本当に見つからない?』
ああ、そうだとも。
初めは、男に同情していたのかもしれない。
でも今は、何故ここまで世話を焼いているのか――、その理由が自分でもわからない。
『気持ちよかったんでしょう?』
何が言いたい?
何を……言っている?
『存在価値が欲しかったんでしょう?』
やめろ。
やめてくれ。
『人の役に立てて、嬉しかったんでしょう?』
違う。
そうじゃない。
そんなんじゃ……。
『自分の心を慰めていたんでしょう?』
「これ以上、喋るな。お前に私の何がわかる?」
『全部、知ってる。あなたの醜い欲求も、全部。だって、私は――――』
「うるさい! その欲求の何が悪いって言うの? ホームレスが救われて、私も救われる。万々歳じゃない!」
『――あ。やっと、認めてくれた』
声が止む。
静寂がねっとり嗤う。
「……そうよ。私は欲求を満たしていただけ」
学校では誰にも必要とされない。
長い間、誰にも触れず、触れられず。
触れてもらえたとしても、それは善意ではなく悪意の塊。
学校に私の居場所はなかった。
家以外に、私の居場所はなかった。
ホームレスを見つけた時、私は嬉しかった。
自分の同類を見つけたから――否、自分の居場所を見つけたからだ。
ホームレスを助け、ホームレスに必要とされたなら、そこに私の居場所ができる。
私を必要としてくれる人がいるのならば、それが生きる意味になる。
私は自己承認欲求を満たしたかった。
摩耗した心を慰めたかった。
人に必要とされて、気持ちよくなりたかった。
私を動かしていたのは優しさじゃない。
醜い欲望だ。
この世には光と影がある。
知らぬ者はいない、世界の理。
この世界の人間を光と影に分けるとするならば、私――宝生 凪はきっと影に属する。
私が影で、あのホームレスが光。
光が影に呑まれるようなことは、あってはならない。
だから、もう会わないようにしよう。
――今日で、さよならだ。
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