お菓子の世界

増田朋美

お菓子の世界

お菓子の世界

その日、浜島咲は、たまたま用事があって、文房具店に行った。用事と言っても、五線紙と鉛筆を買いにいっただけの事だった。文房具屋は、本当にこれで儲かっているのだろうかと思わるほど客がいない。誰もいない文房具屋で、とりあえず五線紙を一パックと、鉛筆を二本ほどかって、さて、レジに行くかと、顔を上げると、

「いらっしゃいませ。」

と、中年の店主の声が聞こえてきたので、思わずびっくりして咲は入り口のほうを見てしまった。こんな言葉がこの文房具屋で聞こえてくるなんて、何年振りかと思われるほど、まれなことである。

「あ、咲おばさんだ。こんにちは。」

と小さな男の子の声がして咲はさらにびっくりした。そこにいたのは、まさしく、田沼ジャックさんと、息子の武史君だ。

「あら、どうしたの?夏休みにはまだ早いはずでは?それとも、もう武史君の学校では夏休み?」

と、咲が聞くと、

「いやね、夏休みは、一週間先なんですよ。本来なら、武史は学校にいっているはずんですけど、武史の学校で、緊急の職員会議が開かれるらしくて、それで生徒は全員帰されたんですよ、今日は。」

ジャックさんは困った顔をしている。

「まあ、どうしたの?夏休みの一週間前に、事件が起きるなんて、困ったものだわねえ。」

咲は、ジャックさんの困っていることに同調するように言った。

「そうなんですよ。それで、もしかしたら、再発防止のために、学校がしばらく休校になると先生から連絡がありました。まだ夏休みに入る前に、武史が家にいるようになって、僕はどうしたらいいのやら。」

「まあ、それは大変ね、学童保育とかそういうところでは頼めないのかしら?」

咲がそういうと、ジャックさんは、それができたら苦労はしないですよという顔をした。確かにそうだろう。武史君のようなちょっと障害というか、気になるところがある子供の場合、預かってくれる学童保育所も少なくなってしまうのだろう。

「そうね、、、。外、出ましょうか。」

咲は、急いでレジに行き、五線譜と鉛筆のお金を払った。ジャックさんも、ノートを一冊買ってきただけで、すぐに文房具屋の外へ出た。三人は、文房具屋の近くにある喫茶店へ歩いていった。

「で、どうしたんですか。今度は、どんな事件が起きたんですか?」

「咲さんがそういうんだったら、武史の学校は、事件が多くて有名になっているんですね。」

とジャックさんは、またため息をついた。

「武史が今の学校にいっているせいで、ご近所から色いろ言われているんですよ。あの学校は、先月も、六年生が、覚醒剤で捕まったばっかりなのにまた事件ですから。しかも、今度は武史のクラスで起きたんですよ。」

「そうなんだよ。」

ジャックさんが、水を飲んでそういうと、武史君が解説者みたいに言った。

「もう、僕たちの学校は大変だよ。警察の人は来るし、マスコミも来るしさ。僕が知る限り、交通事故は月に一度は起きてるし、生徒の家出があったり。親の家出はよくありすぎて、学校で調べられないって、先生が言ってた。」

咲は、武史君のいうことに間違いはないのなら、その学校は、大変な学校だなと思った。まあでもそう解説をする武史君のような生徒がたくさん集まっている学校であれば、そのような事件が頻繁にあっても仕方ないと思った。

「そうなのね。で、今日はまたどんな事件が学校で起きたのよ。」

と、咲は武史君にウエイトレスが持ってきたケーキを切り分けながら、そう聞いた。ジャックさんは、あまり言いたくないような顔をしていたが、

「ええ、一寸武史の同級生同士で喧嘩がありまして、、、。」

とだけ言う。すかさず武史君が、

「あのね、同級生の湖山君という子が、関口君という子にかみついてけがをさせたの。」

と、まるで事件を報道するアナウンサーのような声で言った。ジャックさんが、武史と彼を止めようとするが、周りに客が誰もいなかったので、ほっとする。

「僕見たよ。関口君の腕の骨が見えたの。」

「まあ、そんなひどいことを一年生の子が?」

今度は咲のほうがびっくりしてしまった。校内暴力というのは、中学生くらいからよくあるが、一年生の子がそんなことをするなんて、びっくり仰天である。

「ちょっと待って。そんな風にするまでけがをさせるなんて、よほど恨みがないとできないわよ。」

「だって僕、知ってるもん。関口君が湖山君のことを、アルコール中毒と言ってからかうので、小山君が怒ってかみついたんだもん。」

「はああ、なるほどねえ、、、。」

それではどっちが悪いかなんて、決着はつかないタイプの喧嘩だと思った。もし二人のいうことに間違いなければ、湖山君のほうが悪いと一概には言えなくなる。

「だから、湖山君は僕と一緒だよ。無期限停学処分になったの。」

武史君はそういって、おいしそうに、ケーキを食べた。ジャックさんと、咲は、そんな顔をしている武史君を困った顔で見た。

「まあそれは、学校の先生方の協力も必要不可欠ねえ。あんまりほかのひとの話はしないほうはいいわよ。」

と咲は言うが、ジャックさんも武史君も大きなため息をつく。

武史君がケーキを食べ終わると、ジャックさんは、お茶とケーキのお金を支払いして、家に帰るかといった。武史君が、おばさん一寸うちへ寄っていかないというので、咲は少し武史君の家に行くことにした。

ジャックさんの家はその喫茶店から近くにある事は知っていたから、数分歩いてついた。三人が道路を歩いていると、反対方向から、一人の女性と、武史君と同じくらいの年の少年が歩いてくるのが見えた。

「あ、湖山君と湖山君のママだ!」

と武史君が言う。咲は、武史君、一寸声が大きいよと注意をしようと思ったが、湖山君のママは、武史君の存在に気が付いてしまったようだ。すぐに、武史君たちのほうへ駆け寄ってきた。

「こんにちは!」

と武史君が子供らしく挨拶すると、

「今、お宅へ伺おうと思ったところだったんです。あの、この度はうちの龍一が、本当に申し訳ないことをしまして、、、。」

と、湖山君のお母さんは、頭を深々と下げていった。その隣にいた少年の顔が、何とも言えない複雑な顔をしていることに、咲は気が付いた。

「大丈夫だよ。湖山君は、ママのことをバカにされて、頭に来てやっただけだから。あんなふうにばかにされたら、怒る事もわかるよ。」

と、武史君は、そういって、湖山君を慰めるが、湖山君のお母さんは、龍一、謝りなさい、と一生懸命頭を下げさせようとしている。

「あの、湖山さん、うちに行きましょうか。」

と、ジャックさんが言った。咲はもう帰ろうかと思ったが、咲さんも来てください、こういう時は、多い方がいいでしょうとジャックさんが言うので、一緒にいくことにした。そういうわけで、全員ジャックさんの自宅へ向かったが、咲は、湖山君のお母さんがちょっと酒の匂いがするような気がした。

とりあえず、ジャックさんの自宅へ全員入って、居間のテーブルに座った。ジャックさんは、お客さん二人に、紅茶を出してやった。

「申し訳ありません。本当にうちの龍一が、あんなことをして。学校が休校になってしまうなんて。」

改めて、湖山君のお母さんは、手をついてジャックさんに謝っている。

「だから、謝らなくてもいいよ。湖山君が、ママの事バカにされて、ああして怒るのは当然だよ。立って、関口君は、君のママのことを、お酒浸りの、酔いどれ坊主と言ってたんだもの。」

武史君の話で、事件の全容がなんとなくわかってきた。

「だって、一番好きなのは、ママだもんね。そのママのことを、酒浸りの酔いどれ坊主と言って、笑うなんて、ひどいよね。だから、関口君にかみついたんでしょう。」

「でもね、龍一君、いくら君のママのことをバカにされたのかもしれなくても、相手にかみついてけがをさせるということは、やっぱりいけないよ。其れよりちゃんと、口で、止めてといおうね。」

と、ジャックさんがそういうと、

「パパ、そんな事言わないであげてよ。だって関口君は、体型も大きいし、力比べしたら、敵わないよ。だから、そうしたんじゃないか。」

武史君がそういうのなら、関口君という生徒は、体型も立派なジャイアンみたいな生徒だったということだと分かった。そういう生徒に対してなら、確かに窮鼠猫を噛むようなことをしなければ、勝てないかもしれない。

「でもね、他人にけがをさせるということは、、、。」

と、ジャックさんが言うと、お母さんの隣に座っていた湖山君が、涙をこぼして泣き出した。ということは、武史君のいうことは、やっぱり本当だ。そうなると、誰かが湖山君の気持ちを読み取ってやらない限り、湖山君は将来非行少年などになってしまう可能性がある。

「そうか、湖山君は、お母さんの事守りたかったんだね。」

咲は、湖山君という少年にそっと言った。湖山君は、咲のほうを見ることはなかったが、声を上げたいのを一生懸命我慢しているようだった。

「で、湖山君は、これからどうするんですか?もう退学と言っても、転校できる学校もそうはないと思いますが?日本は、イギリスのように、簡単にほいほい学校を変えられるような国家じゃありませんから。」

と、ジャックさんはそう聞くと、

「ええ、とりあえず、無期限停学処分となりました。多分その間に新しい学校を探せということだと思うんですが。」

と、お母さんが答える。

「退学になってないということは、まだ戻れる可能性があるんじゃないの?僕も、しばらく学校を休めと言われてことあったけど、一週間くらい休んで戻れたよ。」

と武史君が聞いた。咲は、

「そうねえ、武史君の場合は、パパが一生懸命校長先生と話してくれたから、そういう風に戻れたのよ。湖山君の場合は、どうなるか。したことが、したことだからねえ。」

と、そこははっきりさせた方がよいと思ってそういっておく。

「なるほどね。じゃあ、湖山君のママが、自分は悪くないんだとはっきり言えばいいじゃないか。だって、関口君のほうが悪いというのは、仕方ないもの。」

と武史君は、そういうことを言った。湖山君のお母さんは、申し訳ありませんと改めて頭を下げた。

「でも、湖山君はどうするんです?お母さまだって仕事だったり家事だったりすることは色いろあるでしょうに。彼の面倒は、誰が見るんですか。無期限停学処分になって、一日中家にいることになったら。」

ジャックさんがふいにそういうことを言いだした。確かに、欧米では親が働くということは当たり前なので、そういうセリフが出たのだろう。特に金持ちの家庭でなくても、他人に子供の面倒を見てもらう、ということは欧米人であれば珍しいことではない。

「ああ、あたしが、世話をしますから。」

と、湖山君のお母さんはそういうことを言った。

「でも、負担が増えて大変でしょう。うちの武史も、停学処分になった事がありますし、そういう子供に理解のある学童保育所を探すのくらい、お手伝いしましょうか?」

とジャックさんがそういうことを言った。咲は、そういえば、お箏教室は、苑子さんの演奏旅行のためお休みになっていることを思い出した。

「それなら、彼をあたしが預かりますよ。あたし、武史君が停学処分になったときに、お手伝いしたことが在りますからね。それにあたしの名義で、誰かお手伝いさんを頼んでもいいですよね。こういう時は、助けあった方が言いと思いますわ。どうでしょう?」

咲がそういうと、ジャックさんも、それがいいですねといった。

「じゃあ浜島さんの言う通りにしましょう。しばらく、浜島さんのお宅へ行くか、ご自宅に彼女に来てもらうかして、手伝ってもらってください。」

「ああ、私は、家にいますから、他人には、助けてもらうことは、遠慮します。」

という湖山君のお母さんであるが、

「いえいえ、助け合い何て、当たり前のことですよ。イギリスでは、こういう時に、誰かに力を借りるのは、全然悪びれることはなく、やってもらっています。だから、全然気にしないでいいんです。日本は、そういうふうに誰かに力を借りることは悪くないんだっていう風潮が、もうちょっとあってもいいんじゃないでしょうか。」

と、ジャックさんは言った。それは、日本人が一番遅れている分野だと思われた。咲は悪いようにはしませんから、龍一君を預かります、といった。ジャックさんも同調して、武史も一緒に咲おばさんといるかというと、武史君は喜んでといったので、湖山君のお母さんはそれではお願いしますと言った。

翌日、湖山君のお母さんが、湖山君を連れて咲のもとにやってきた。すでに先に来ていた武史君が、湖山君を優しく出迎えた。そして、二人でパンケーキを食べて、一緒に宿題をやり始めた。

二人が、宿題をやり終えると、

「ねえ、あなたたち。こんなところにいるよりも、外で遊ばない?そのほうがよほど、楽しいわよ。」

と咲は二人に提案する。

「公園で遊ぶの?」

と、武史君が聞いたが、公園は近くにはなかった。なので、

「じゃあ、おばちゃんの知り合いがやっているお家に行こうか。広い庭があるから、思いっきり遊べるわ。」

と説明をする。やっぱり子供は風の子だし、熱中症対策だけしておけば、外で遊ばせた方がいいのではないかと咲は思ったのだ。すぐにタクシーを予約して、三人で、製鉄所に向かった。

製鉄所には確かに広い中庭があった。武史君と湖山君は、二人でキャッチボールをして楽しそうに遊んでいた。布団に寝ていた水穂さんに咲が、事情を説明すると、

「そうなんですか。今はそんな事件で学校を休ませるんですか。」

と、水穂さんは布団に座って驚いている。

「そうなのよ。お母さまにはここに連れてきたことは、ラインで入れておいた。だから、右城君も二人に協力してあげて。あの湖山君という子は、すごく傷ついているわ。」

「わかりました。」

咲がそういうと、水穂さんは少しせき込んだ。ああ、またやる、と咲は思ったが、今回せき込んだのは割と軽度で、すぐ止まったのでほっとする。

「おじさん。」

ふいに、武史君と湖山君が、四畳半に入ってきた。あら、もうキャッチボールは終わり?と咲が聞くと、

「おじさんピアノ弾いて。湖山君にも聞かせてあげてよ。」

と武史君は言った。そして、このおじさんは、ピアノがとてもうまいんだよ、と湖山君に紹介した利している。水穂さんは、わかりましたよと立ち上がって、楽譜を入れてある棚の前に立って、弾けそうな曲を探し始める。その中から、湯山昭お菓子の世界と書いてある楽譜を取り出した。そして、ピアノの前に座ってピアノを弾き始めた。確かに、素晴らしい演奏であった。武史君も湖山君も真剣な顔をして聞いている。弾いた曲は、お菓子の世界の最終曲である、お菓子の行進曲である。

「おじさん上手だね。」

と、湖山君が言った。

「僕のママも、グランドピアノ持ってて、良く弾いているよ。でも、そんな楽しい曲じゃないんだ。もっと難しくて、大変そうなのをやっている。」

「そうなんだね。」

と水穂さんは言った。

「難しそうなのというと、どんなのだろう?」

水穂さんが聞くと、湖山君は、

「えーとえーとね、ショパンの幻想即興曲。」

と答えた。水穂さんは、わかったよと言ってショパンの幻想即興曲を弾き始める。湖山君も武史君も、一気にうれしそうな顔になった。湖山君は音楽に関心があるらしい。水穂さんが弾き終わると、僕もやってみたいと言い出す。水穂さんは、幻想即興曲は一年生には難しすぎるが、代わりにこれなら、できるのではないかと言って、ショパンのワルツ集を取り出した。そして、やってごらんと言いながら、ショパンのワルツ17番、イ短調を弾き始める。湖山君は、すぐにそれを覚えて、水穂さんにピアノのイスを借りると、つっかえながらもすぐに弾き始めてしまった。之には咲も驚いた。湖山君にこんな才能があったとは。これをもう少し伸ばしてくれれば、湖山君はもう少し自信のある子に成長してくれるのではないか。湖山君は、子供ならではの弾き方ではあったけれど、数回弾き続けて、ワルツの17番を覚えてしまった。

「すごいね、湖山君。」

と、武史君も言うと、湖山君は、

「でも、僕のママが、僕がピアノを弾きたいというと怒るの。」

と小さい声で言った。

ちょうどこの時、製鉄所の引き戸がガラッと音を立てて開いた。誰が来たのだと思ったら、湖山君のお母さんだった。多分人の家に行ったということで、すぐに帰った方がいいと思ったのだろう。ちょうどその時、湖山君が、ショパンのワルツを弾き始めた。

何かどしんと落としたような音がした。演奏が突然止まった。皆一瞬凍り付いた。四畳半の入り口に、一人の女性が立っている。彼女は、湖山君のお母さんだ。やっぱりお酒の匂いがする。湖山君は、ママを見て、ごめんなさいとだけ言った。

「いいんだよ。君は君なんだから。」

と水穂さんが言って、場の雰囲気を変えるべく、お菓子の行進曲を弾き始めた。それを見て、湖山君のお母さんの唇がわなわなと震えだす。なんだか楽しいお菓子の行進曲でなくて、何か変な雰囲気の曲のようになってしまった。でも、二人の子供たちは、水穂さんの演奏に引き連れられて、楽しそうに聞き始める。湖山君も、武史君もお菓子の行進曲に体を動かしたり、一部のメロディーを口ずさんだり、楽しそうだ。水穂さんの演奏というのはやっぱりただものではなくて、人を引き連れてしまうものがあった。

「私、、、。」

ふいにある女性の声がした。それはもしかしたら、女性というより、女の子の声がしたと言った方がいいかもしれない。

「ショパンじゃなくて、この曲が弾きたかったのに。母に全部取られて。」

はあなるほど。

咲は、湖山君のお母さんがお酒に走ってしまった理由が、なんとなくだけどわかったような気がする。お母さんは、自分のことを過去のものとして昇華しきれていないのだろう。そして、湖山君が、ピアノの才能があるのをある意味怖いと感じているのかもしれない。湖山君の家族構成などは知らないが、お母さんも、お母さんのお母さんに、重圧をかけられて育ってきた人なのかもしれないと思った。

「一番直さなきゃいけないのは、湖山君のほうではないのかもしれないわね。」

と咲は思わずつぶやく。演奏し終わった水穂さんが、咲にそうかもしれませんね、と小さい声で言った。


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お菓子の世界 増田朋美 @masubuchi4996

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