第5話 希望へ

 ーーーー。


 静寂の森に、ミリアの呼吸音が響く。

 ミリアの呼吸は乱れていた。

 子供を抱きかかえて走ったことなどないからだ。

 次第に体が重くなり、脚が思うように前に出なくなる。

 側から見ると、速度がみるみる落ちていくのがよく分かる。


 それでもミリアは、足を止める事はせずに走り続けた。

 いつ魔獣が襲ってくるかわからない状況だからだ。

 決して止まるわけにはいかない。

 襲われる恐怖心を振り切る為に必死だった。


 教会の敷地を囲む柵まで辿り着く。

 ここに従事する者が、越えてはいけない境界線。

 越えれば脱走者として厳しい罰が処せられる。

 外界との接触を防ぐ為にできた規則で、従事してから一度も出たことはない。

 父の姿が頭に浮かび、躊躇して立ち止まってしまう。

 越えた事が知られれば、ひどい仕打ちを受けるだろう。

 「迷ってどうするの!行かなきゃ助けられないじゃない!」

 自分に言い聞かせる様に独り言を言うと、思い切り地を蹴った。


 それでもなお、後ろ髪を引かれる様な後味の悪さが胸を突く。

 ーー仕方ないのよ。それに、もう此処へ戻れないかもしれないのだから。

 命を賭けた行動だからこそ、失敗したら命を失う。

 今の段階では、失敗する可能性の方が高いのだ。

 目的の街は遠い。

 子供を抱えたまま走ったら、一時間はかかるだろう。

 だが、それも覚悟の上での行動だ。

 「急がないと」

 ミリアの気は焦っていた。


 森の中に入ると、教会周辺同様に生き物の気配が一切ない。

 静寂の世界に、魔獣達がここにも居るのだろうと思った。

 ーー怖い。でも進まなきゃ!

 恐怖を押し殺し、歩を進める。

 必死に走っていくと、希望が見えてきた。

 ーー街道!あそこまで行けば。

 森林の先に、街へと繋がる大きい街道が姿を現した。

 その街道を辿れば、街まで行ける事を知っていたのだ。


 王都から追いやられる形で教会に来た際、鳥車に揺られながらこの街道を見た。

 整備された大きな街道だから、よく覚えている。

 ーーあの街道を左に真っ直ぐ行けば!

 まだ行程の半分も来ていない。

 だが、ミリアには希望が湧いていた。

 ーー街道に辿り着けば助かる!

 そう勘違いする程に、目印となる街道に期待を寄せていたのだ。

 しかし、そんな淡い期待など、簡単に吹き飛んでしまう。


 「く、くるな!」


 側方から男性が発する叫び声が聞こえた。

 慌てて大木に身を寄せて、声の発生源に背を向ける。

 ーー何!?いるの?どうしよう!

 この辺りで拒絶をするなら、魔獣以外考えられない。

 緊張と恐怖から、心臓が高鳴りをする。

 バクバクと周りに聞こえてしまうのではと思うくらい。


 「ギャーーッ!」


 男性の断末魔が聞こえた。

 それも、そんなに遠くはない。

 肉を引きちぎる音や、骨が砕ける音が悲鳴に混じる。

 聞きたくはないが、耳を塞いで情報を遮断するわけにはいかない。

 ーー怖い。怖いよ。

 恐怖で震えるミリアをよそに、魔獣達は息遣いを荒くして、御馳走へ舌鼓を打っている。

 グチャグチャと咀嚼する音が響き渡る。

 ーー次は私。私の番だ。

 そう思うと、恐怖で体の震えが止まらない。

 見つからない様に大木に背を預けて隠れているが、気配を消す為に呼吸を止めた。

 震える手で口を抑えるが、その手が経験した事が無いほど震えている。

 ーー怖い。死にたくないよ。

 震える手に恐怖心を煽られて、さらに震えが酷さを増した。


 しばらくすると、男性の声が聞こえなくなった。

 それと同時に、魔獣達の咀嚼音が消える。

 食事が終わったのだろう。

 唸り声もしなくなり、徘徊する足音だけがリズム良く刻まれる。

 ーー気付かないで。お願い。

 祈るように願い続ける。

 たが、遠くに行くような気配は無く、次の獲物を探している様子だった。


 ーー苦しい。

 気配を消す為に息を止めていたが、次第に辛くなってくる。

 心臓がバクバクと高鳴り、肺が酸素を求めて呼吸をしろと促す。

 ーーもう、ダメ!

 限界点を超えてしまい、か細くだが呼吸をしてしまう。

 欲張りな肺は、『もっともっと』と酸素を送るように命令する。

 その力に抗えず、幾度となく呼吸を繰り返す。

 すると、指の隙間から漏れでた空気が、風を切るように音を発した。

 微かな音だが、静寂が支配する森では響いてしまい、魔獣の尖った耳に届いてしまう。


 音の発生源を探すように、草ズレを伴う足音が近づいて来る。

 再度呼吸を止めてみるものの、「グルルル」と獣が発する唸り声は、確実に迫って来ている。

 その気配を感じて、ミリアの緊張と絶望は最高潮を迎えた。

 ーーどうしよう。どうしよう。どうしよう。

 走って逃げたとしても、人間の足では魔獣に敵わない。

 すぐに追いつかれて、喰いちぎられてしまう。

 ーー襲われる。食べられてしまう。

 容易に想像できてしまう未来に、恐怖で涙が溢れて頬を伝う。


 冷たい涙が落ちた先には、小さな男の子。

 潤んでボヤける視界で、腕に抱いた子供を見つめる。

 緊迫とした状況なのにも関わらず、愛くるしい顔を見せている。

 男の子に落ちた涙を親指で拭うと、ミリアの心はキュッと締め付けらた。

 助けると決めたのに、道連れにしてしまうことが悲しかった。

 だが、それ以上に自分の非力さが申し訳なかった。

 ーーごめんね、守ってあげられなくて。

 心の中で謝罪すると、恐怖心から何かに縋りたくなり、男の子をギュッと抱きしめた。

 そして蹲り、最後の時を待った。


 ガラガラガラガラーー。


 街道の方角から、石畳の道路を激しく走行している音が聞こえた。

 ーー何?

 パッと顔を上げ、街道を見据える。

 大きな鳥が荷車を引き、勢いよく走行しているのが見えた。

 荷台の上で荷車を守ろうと、獣人の大男が武器を持ち戦っている。

 ーー助かるかもしれない!

 その光景は、少女には絶望の底へ垂らされた希望の糸に見えた。

 しかしながら、街道まであと五十メートル程はある。

 走った所で獣に追いつかれるだろう。

 だが、それに縋るしか方法は無いのだ。

 ーー行くしかないっ!

 覚悟を決めて、浅い呼吸を二往復する。

 苦しかった肺に酸素が行き届き、スッとする。

 その後、大きく息を吸い込み肺に酸素を貯めた。

 そして、腕に抱く男の子を強く抱きしめ、勢いをつけて飛び出した。


 魔獣は、街道の荷車に意識を向けていた。

 そちらに移動しようと動き出した際に、大木の幹からミリアが現れた。

 遅れを取ったが、目の前の餌を追いかけ始める。

 ミリアは背後に迫る軽快な足音に、生きた心地がしなかった。

 みるみる血の気が引き、顔が青ざめていくが走り続ける。

 ーーもう、追いつかれる!

 ここらが限界だと踏み、最後の力を振り絞り叫んだ。


 「助けてっ!!」


 叫んだタイミングが良かったのだろう。

 大きな鳥が引く荷台の上で、襲い掛かる魔獣を打ち払っていた獣人の男。

 飛び掛かって来た最後の一匹を、手にした棍棒で頭部を砕いた直後にソレは届いた。

 悲鳴に近い絶叫で、助けを呼ぶ声。

 尖った耳が反応し、声の元へ意識を向かわせた。

 「人間の、女?」

 林の中から街道に向かい、何かを抱えた人間の女性が向かって来ている。

 彼が見た時には、脚がもつれ倒れかかっていた。

 そして、その背後に迫る二匹の魔獣が牙を剥こうとしている。


 「チッ」

 大男が、小さく舌打ちをする。

 「カリム!そのまま進め!すぐ追いつく!」

 荷車の操舵席に座り、手綱を握って大鳥を操っていた『カリム』と呼ばれた獣人の男に指示を出すと、ミリアの方向へ体を向けた。

 そして、木造りの荷台が強く軋み、荷車全体が大きく揺れる程の衝撃を残して、勢いよく大きな跳躍を見せた。


 その言葉と安定をなくした荷台に驚き、カリムは振り返った。

 しかし、そこに大男の姿がなく、すでに空を舞っていた。

 「ア、アニキ!?」

 魔獣に襲われて焦っていたのに、仲間が取った行動に惑わされ戸惑う。

 それでも何とか荷車の揺れを制御し、言われた通り真っ直ぐ進んだ。


 ミリアは助けを呼ぶ為に、体内に残った全ての力を振り絞った。

 力を失った脚はもつれ、終いに倒れ込む。

 「ーーっ!」

 言葉にならない声を出して地面に伏せる。

 咄嗟に男の子を身を挺して庇ったが、肩から地に落ちた事で右半身を強打してしまい痛みが走った。

 ーー痛い!

 電気が体を貫いたような、ビリッとした痛みが後を引く。

 そこから動けないでいると、鋭い切っ先が背中を裂いた。

 「あぐっ!」

 追いついた魔獣の爪が、ローブ諸共ミリアを切り裂いたのだ。

 経験のない痛みに、意識の紐が千切れかける。

 だが、彼女は最後まで男の子を守ろうと、覆いかぶるように蹲る。

 ーー追いつかれた。この子だけでも!

 小さな男の子だけでも、助かって欲しかった。


 途切れかかる意識の中、ズドン!という大きな音を聞いた。

 衝撃により地面が少し揺れるのを感じ取ると、男性の力強い声が鼓膜を揺らした。

 「しっかりしろ!死ぬんじゃねぇぞ!」

 霞ががる視界に、獣人の大男の姿が写る。

 そして、棍棒で魔獣を打ち砕いている様に見えた。

 ーー良かった。この子は助かる。ドルフさん。私、頑張ったよ。

 魔獣の肉が爆ぜる中、安堵したミリアは緊張から解かれ、晴れやかな笑顔を見せた。

 「しっかりしやがれ!」

 全ての魔獣を打ち払い、大男が駆け寄る。

 だが、近寄る前に彼女の意識の糸はプツリと切れた。

 「チッ」

 意識をなくした様子を見た大男は舌打ちをした。

 仕方なくミリアを抱き抱えると少し驚く。

 「あぁ?子供じゃねぇか。半獣人か?」

 彼女の腕に強く抱きしめられた子供を見て、そう言った。

 「しょうがねぇ、連れて行くかっ!」

 大男は荷車を追いかけて走っていった。

 


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