名もなき女性のルポ

梨花

生きる 女ひとり

H.Kさんは、大正11年5月生まれ。

もうすぐ傘寿を迎える。

身近な女性で生き様を書きたくなる人はいただろうかと考えた時、

真っ先に頭に浮かんだのは、H.Kさんだった。

大正、昭和、平成を生きてきたH.Kさんの人生は、波乱万丈だ。

山口県岩国市の山奥で生まれた。

明治生まれの厳格だが、貧しい元武士の家の長女として生まれる。

「武士は食わねど高楊枝」を地で行く父親は、

ほとんど仕事をしない。

母親が、縫物をして一家を支えていたが、農家ではないため、

米を手に入れるのにも苦労をし、

捨てる白菜の外葉や芯をもらって、漬物にしていたという。

米の飯を食べることなどほぼなく、学校に持って行く弁当も作れなかったので、

家まで2キロほどを昼になると走って帰った。

しかし、そこに用意されていたのは、米粒がわずか茶碗の底にあるかないかのかゆ。

ほとんど水だが、それを食べて、また、学校に戻る。

お腹の中の水分が、チャポンチャポンといっていたと笑う。

高等小学校を卒業すると、大阪の紡績工場に就職を決めた。

岩国の港まで30キロ以上の道を歩いて行き、船に乗って故郷を離れた。

母親は、握り飯を持たせてくれたという。

まるで、「おしん」の世界だ。

工場を脱走したり、宗教施設で働いたり、色々紆余曲折がありながら、

広島市内で事務員と働いていた。

24歳の夏、盆前に田舎に里帰りをした。

母は喜んで迎えてくれた。

貧しい暮らしは相変わらずで、H.Kさんが、

田舎には珍しい物を持って帰ったり、家の補修費を出したりした。

8月5日には、広島市内に戻るつもりだったが、

母親が、

「餅を作るけえ、もう1日おりんさい。」

と言った。

なら、もう1日いようと、泊まった翌朝、

見た事もない大きなきのこ雲が、

広島方面に見えた。

「あれは、なんじゃろう。」

気になって、広島まで歩いて帰ったという。

100キロくらいはあろうか。

それが、あの、原爆投下の日だった。

下宿していた親戚を焼け野原で捜し続けたが、見つけ出すことは出来なかった。

H.Kさんは、二度結婚し、二度離婚している。

一度目の結婚で1人の娘を出産し、

二度目の結婚で二人の娘をもうけている。

三女の母である。

二度目の夫は、三女が二歳になる直前に多額の借金を残して「蒸発」した。

子供3人をかかえての貧困生活。

安いあばら家で命を削りながらの日々。

どんなことがあっても、子供だけは育てなければと、歯を食いしばって生きたと話す。

一番幼かった三女を手放してはどうかという話もあったが、

我が肉を食わせてでも、他人に渡すなど出来ないと思った。

死ぬ時は、親子で餓死する時だと。

どんな仕事でも金がもらえるならやった。

幸い、洋裁、和裁、編み物が出来たので、その仕事をもらっていた。

手先も器用で、今にも倒れそうなあばら家の雨漏りがすれば、

屋根に上がって瓦を直し、床がきしめば、座板を上げて板を貼り替えた。

もちろんお金はないので、近所で建替えがあれば廃材をもらった。

何でもしたし、出来た。

必要に迫られたからでもあるが。

明治生まれの両親も近くに住んでおり、その世話をし、最後も看取った。

貧乏な生活の中で、長女と次女は、東京の大学へと進学していった。

成績は優秀だったので、多くの奨学金を受けてのことだが、

多くのアルバイトを掛け持ちしながら、母からの仕送りはなく、

それぞれが、自分の力で卒業までを戦ったという。

三女も一部上場企業に就職し、気が付けば、1人暮らしになっていた。

ただただ、子供を育て上げるために生きてきた。

69歳になっていた。

約5万円ほどのわずかな年金暮らし。

家の裏の畑で野菜を作り、

三女が米を運んでくれ、

三人の娘は、折に触れ、お金を送ってくれた。

三女は、就職してから毎月、仕送りをしてくれた。

現金書留を配達する郵便局員から

「愛の書留が来ましたよ。」

と言われていたという。

そのお金にもほとんど手を付けずに暮らしていた。

当時、広島のマツダは、車の販売が好調で、下請け、孫請け、

その下々にまで仕事が引く手あまただった。

内職の仕事が舞い込んだ。

地域で内職者を募集するという。

近所の10人ほどが集まり、〇〇電子の内職に応募した。

69歳という年齢を聞いて、担当者は、

「もうすぐ70でしょ。無理だと思いますよ。」

H.Kさんは、すかさず言った。

「年齢だけで決めないで下さい。やってみてダメなら諦めますよ。まず、やらせてみて下さい。」

車のマイコン制御のための配線をし、コネクタに接続させて、テープで束ねるという作業だった。

大きな作業台を持ち込み、そこの手順は書かれている。

内職としては、かなり高額な報酬ではあるが、間違いは許されないし、雑な出来では、やり直しとなる。

元々器用で几帳面な性格のH.Kさんは、完璧な仕事だった。

しかも早い。

担当者は、

「すみませんでした。誰よりも出来が素晴らしい。採用です。」

久しぶりに他人から評価され、報酬を手にする。

やりがいと生きがいを感じる日々だ。

子供たちに

「お母さんが作った部品が、マツダ車の中で活躍しているんだよ。」

と自慢した。

楽しかった。

社会と繋がること、認められることを久しぶりに感じたのだ。

ところが、折からの不況で、3年ほどでその職を失った。

“生き甲斐”を失ったのだ。

そのまま老け込めば、ただの老女であっただろう。

H.Kさんは、歴史物を読んだり、祖先のことを調べるのが好きだった。

かつて、親戚から聞いたことのある話を小説にしようと思いたった。

実話に多少の脚色を入れながら、かつての話を思い出しながら、

原稿用紙40枚ほどの小説を書き上げた。

書いたら、誰かに読んで欲しい。

お茶を飲みに寄ってくれる同級生や知り合いに読んでもらった。

その中の1人が、

「これは面白い。是非、出版してはどうですか?

 知り合いに出版社の社長がいます。見せてみませんか?」

と言ってくれた。

道楽らしい道楽はしたことがない人生。

その社長からの勧めもあって、自費出版することになった。

印刷代以外は、出版社が持ってくれるというのだ。

本にして売るとなると、もっとしっかりとした文章にする必要があった。

校正を重ねながら、その本は完成した。

初めての散財であったかも知れないが、

自分の書いた本が、書店に並ぶ。

新聞社からの取材も受けた。

山口県だけでなく、広島県の主要な書店でも販売された。

知り合いからの反響も大きい。

娘たちは、母親の晴れの舞台を用意してくれた。

出版記念パーティーを開いたのだ。

その本の主人公の子孫に当たる人も、わざわざハワイから来てくれたという。

78歳での作家デビュー。

何より、こんな晴れやかな舞台の主人公になったことが今まであっただろうか。

晴れがましく、最高の時を娘たちから与えてもらった。

その後も創作意欲は衰えることなく、

短編小説を書き貯めている。

「芥川賞でも狙いますかね。」

その顔は、少女のようだ。

どんなことでも、いつからでも、遅すぎることはないという。

「思い立ったら吉日でしょう。いつでも青春ですよ。」

と明るく笑った。

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名もなき女性のルポ 梨花 @shinobu1120

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