ある高級娼婦の館

寅田大愛

第1話

 ある高級娼婦の館

         寅田 大愛(とらた だいあ)      



 あたしは自分を火と水の相反するどちらの要素も兼ね備えていて表と裏のようになっている性格の女だと思っている。あたしが男たちとお仕事で寝るときに、先天的に潜在的に、火のように自らを燃やし燃え上がりたい性質を持っているし、同時に、水のように瑞々しく潤んだ液体でできた心を持っていて、あたしの扉を突破してそこに運よく辿り着けた男たちだけにその場所に居座ってそのなかで泳ぐことを許可することもある。だからあたしを煽り立てて炎にさせ焦がしてしまう風の性質を持つ男とだったら気分が高揚しすぎて息切れしそうになるけど、あたしの水を吸収して育って根や枝を伸ばしていく木の男とだったら、うんまあまあって感じで、粘土遊びとか土いじりとかなにかを作っているのが好きな土の男とだったら、男女共通に備わっているあの舐められると気持ちのいいあの場所に異様にこだわる人や、その先を言うなら、わかりやすくある意味粘土遊びのようなこと、に夢中になる変態系の男もいるし、甲高い音を立てて刃物を打ち鳴らしたときみたいに光っている金の男は、ただひたすら眩しくて、相性は相変わらずまあいいんじゃないって感じで、というわけでいろいろとあたしとは性質が違う。かといってあたしと同じ火の要素だけを持つ男は、過剰になるというか、火の気が強すぎると性交していると、だんだん灼熱の砂漠の幻覚が見えはじめ、そこにいるかのように焼けつくように喉が本当に渇いてくるから、ベッドサイドに水差しとグラスを用意しておかなければならなくなる。だからと言って性格の性質が水だけでできている男とは、激しさを欠いて鎮静された雰囲気の大人しい湿った夜になってしまうから、それが盛り上がりにいまいち欠けると思ってしまうんだけど、でもそれらはそれらで、別にいい、と今はあたしは思っている。そう、シルヴァンに関しては、彼はがむしゃらな愛し方で、一緒に寝るとあたしたちは深々とした水のなかにいるような、落ち着いた雰囲気のなかでする、でもその際、彼は必ずフルパワーでパンチを効かせて激しく攻め込んでくるのが普通で、あたしはそれが今特に気に入ってるのだった。

 シルヴァンは言った。「妻をいま殺してきた。だから、結婚しよう」と。あたしは彼にまさかそんなことができるとは思わなかった。でもその言葉を聞いた瞬間、あたしは、ああ、嘆息したくなった。この男とはもう悲しいけど終わりなんだわ、ってことを悟った。だってそうじゃない? シルヴァンは殺人を犯してしまった時点で、警察に捕まってしまって死刑になってしまうことは確実なんだから。ああ、馬鹿な人! 暗い表情にならないように落ち着いて、でもすぐに、息を潜めて、聞いた。「どうやって殺したの?」こういうことを平気で聞いてしまうような本当に悪魔的で好奇心が抑えられない女のふりを演出した。

 シルヴァンは答えた。「強い睡眠薬入りの酒を騙して飲ませて、真夜中、車で田舎町まで走って、誰もいないことを確認した後、橋まで運んで、そこから冬の凍える川に放り込んできてやったよ。本当にくたびれたよ」例えばシルヴァンは奥さんを殺すことになっても、全身をナイフでめった刺しにして殺すようなタイプの残忍な男ではないことはわかっていた。本当に危ない男は、匂いを嗅いだだけでわかる。危ない男。たとえば今からでも性交したい、と思っているような、女性にとってある意味危険な男は、獣のような特別な強い癖のある匂いを脇の下や首の後ろから放ちはじめるからすぐにわかる。逆に嗅いでいるだけで安心するような、その腕に抱かれたまま眠りたいと思えるような匂いのする男は、父性や包容力に優れる。いわゆるお父さん、状態になっている男の匂いなのだ。死体を燃やした後に残る灰のような人類が本能的に嫌う死臭のような匂いがする男は、殺人犯や犯罪者や、本当に悪質な男の証拠だ。シルヴァンは。

 シルヴァンは今晩、あたしの館の玄関を開けて部屋に入ったとき、血走った眼をしていた。部屋を橙色のうす明かりに包まれたような明るさで灯っているいい匂いのするたくさんの蠟燭の揺れる長い廊下を通って、寝室に着くと、最高級の紫色のふんわりとしたベッドに腰かけた。中肉中背で、眼つきは甘くて鋭い。ラフでカジュアルな感じの一応そこそこのいいものだろうと思われる服装。最近色っぽい目をすることが多くなった、とあたしは察した。今夜この館に来て、今すぐにでもいいから早くあたしとしたい、という匂いもするし、安心するような父性の溢れる匂いもどちらもする、と思った。今夜のこの男は興奮と安心の気持ちの両方を持っている。

「お酒は?」とあたしが聞く。「思いきり強いのとか?」

「要らない」と答えた。

「飲んできたの?」

「飲まないとやっていられない」とあたしを後ろから抱きすくめた。「悲しくて」

「嘘ばっかり」あたしは笑う。

「本当だよ」あの人はそう言いながら、「おれにはもったいない、できた女だったさ」と、あたしの長い栗髪に顔をうずめる。「おまえには勝てなかったけどな。ああ、いい匂いがする。ベリーと薔薇の花みたいな匂いだ」

「だれにも見られてないといいけど」あたしは言った。

「癒してくれ、おれを」

「いいわよ」

 シルヴァンの身体から発せられる、犯罪の匂いが前に会ったときよりも濃くなっていた。人を殺したことのある人だけが発するあの嫌な死んだ人の身体の臭いがする。

「本当にくたびれたよ」

「あたりは真っ暗だったんでしょ?」

「ああ。うまくやったさ」

 笑うと唇からのぞく、真っ白な牙のような小さな尖った歯が好きだ。野生児みたいに荒々しいけど、同時にお育ちのいいお坊ちゃんみたいな高貴さを併せ持つ男だ。馬鹿な男。警察から逃れられるわけなんてないのに。でも、あたしの役目は、この男を警察に突き出すことじゃない。この男と寝て、癒して、たくさんのお金をもらうことだ。まあ、あたしは比較的良心的な値段だけどね。

 奥さんは、もういない。シルヴァンが殺したから。だから、あたしと一緒になりたい、だなんて。困った人だわ。あたしと結婚なんて、できるわけないのに。それでもあたしは、自分たちの幸せのために死者を一人新しく出してしまったことに一瞬心を痛めた。あたしにも良心というものがほんのひとかけらでも残っているのが驚きだった。しかしあたしの口から出たのは傲慢な台詞だった。「じゃあ、シルヴァンにとって、いまはあたしが一番?」

「そう」

「一番綺麗?」

「うん」

「一番愛してるのもあたし?」

 シルヴァンは小さな声で「もちろん」と言ったが、語尾が震えていた。淀んだような、虚ろな目をしながら言っていた。本当はあの死んだ奥さんでしょ、と言いたかったけど、黙っていた。悔しいけれど今は愚かなことを可愛らしく聞いてご機嫌とりをしておく。真意を問いただしたりはしない。無粋なことを聞くと、短気な男をうっかり怒らせてしまい、自分まで殺されてしまっては嫌だから。

「ニュイ」とあなたの名前を呼んで、あたしの唇を奪う。舌を差しこんできて、あたしの腰に手をまわす。「もうこれ以上は我慢しねえからな」そう言って、あたしをベッドに押し倒す。彼はあたしの宝石のたくさん飾られた派手な真紅の胸元の大きく開いたドレスの裾をまくり上げて脱がしにかかる。あたしを脱がせた後、もどかしくボトムスのジッパーを下すところを眺めながらあたしは嫣然と微笑んだ。その場所に何が隠されているのか考えるだけでいきそうになる。いつも愛し合うとき、シルヴァンはもたもたしないし、焦らさないし、急いでしたがる。

「本当、優しさが足りないんだから」あたしは笑いながら軽口を叩く。シルヴァンの薄い唇を軽く噛んでやる。

「おれは別に優しい男じゃないからな」荒々しくあたしの乳房に噛みつくように歯を立てて吸ったり舐めたりする。痛いような気持ちいいような快楽がやってくるから、お金をもらわなくてもいいような気すらする。男としているときがあたしは一番幸せを実感できる。不幸な女? そんなことない。

「その言い草、あんまりよ」

「赦してくれ」指はあたしの太腿の間の茂みの奥の突起をまさぐる。シルヴァンは突起を乱暴にかき乱す。あたしの身体はだんだん熱を持ってきて、性的に昂ってくる。もういい? とか、まだ? とか、そんなことも確認せずに、シルヴァンは挿入する。すでに何回もいってるのに、本当に生きていて良かったという感動しかこみ上げてこない。息遣いが荒くなる。

「いくときは教えてね? それとも今夜はなかに出す?」

「なぜゴムをしないんだ?」

「あなただから」

 シルヴァンは面食らったような顔を一瞬する。この顔を見るのが愉快で、あたしは笑い出してしまいそうになって思わず笑いをかみ殺した。あたしはすでに避妊薬を飲んで準備していたので別に平気だったのだ。

 あたしはこの男の匂いが好きだった。この男は、なんの匂いもしないが、すれ違ったときや、そばに来たとき、どこからともなく甘いようなフルーティな、それでいてミルクのような匂いがするのだった。いつまでも嗅いでいたくなる、安心する匂い。穏やかで誠実そうな匂い。結婚しているのは知っていた。お子さんはいらっしゃるの? とは怖くて聞けなかったけど、ときどき見せる既婚者特有の、満たされたような落ち着いた表情や、父親のような寛大さを持つ、包み込むような、あたしを優しく抱きしめてくれそうな柔らかい眼の表情を、していた。ただ彼の奥さんのことが羨ましかった。既婚者特有の余裕すら感じられた。あたしは既婚者にしてもまだ若さの残る、この男が欲しくてたまらなかった。お客様としても、恋人としても。彼は娼婦のあたしには、大したことは望んでいないんだろう、ということがわかっていたとしても。でも、それも、もう終わったことの話だ。あたしはもう、仕事しかしなくていいのだから、楽な話だ。

 彼のその指や唇であたしの身体に触れられただけで体中、指の先の端までが痺れてしまうようなほど強く激しい快感が全身を不意に駆け巡る。馬鹿みたいに気持ちがいい。彼は優しい男、という雰囲気を醸し出していたが、あのときだけは荒々しく、力任せに、半ば強引に、力ずくで愛してくるのだった。その快感さえあればあたしはなにもいらないとすら涙ぐみながら毎回思った。身体の相性がいい人とは、仕事が長い間上手くいく。彼の愛し方は一途でめちゃくちゃな動物でいうまるで犬の愛情表現のように正直で、同時に支配者的だった。従え、従え、と身体に言われているみたいな錯覚を起こさせ、この人になら従ってもいい、と思えるほどの信じられないほどの快感を与えてくる。こんな感覚は初めてだった。記憶している限り、この人しか知らない。彼は普段は、優しいけれど、冷静で、猫のように毅然としていた。人間の性格や性質は、動物に似る。気まぐれで冷静で小悪魔的な猫、愛情表現が情熱的ででたらめな犬、妖艶で狡猾で男の精気を吸いとるといわれるほど蠱惑的な狐、傍観者的でなれ合いを好まない、あまりなつかない鳥。

 はじめは、興味本位だったのだと思う。あたしとの関係を持ったのは、家で奥さんと些細なことで喧嘩して、逃げ込むようにこの赤い娼館を訪れたことが最初だった。あたしの城。昔死んだあたしのお客様がかつて買ってくれた館。《妻が抱かせてくれない》と言って不貞腐れたような顔で、あたしの館にふらりと突然現れた。《もう一年もだ》彼は身体がふらふらするほど酔っていた。我慢の限界だったのだろう。《それで喧嘩になったの?》

《そうだ。今晩も駄目だった。もう待てない》

《今からあたしとする? あなたみたいに素敵な人、嬉しいわ。ようこそ高級娼婦の館へ。ねえ、あなたのお名前を教えてくださらない?》とあたしが男の両肩に両手を伸ばして絡みつくように首筋を優しく愛撫しながら、媚びるように濡れた発情した猫のような眼で見つめながら耳元で囁いたら、眠そうな眼をしていて、アルコールくさい息を吐き、真面目そうな声で、あたしから視線を落として彼は小さく名乗った。《……シルヴァン》

《あたしはニュイ》

《夜、か》

《あなたは森ね》

《……よくある名前だ》

 奥さんの名前は? と聞きたくなったあたしは、もうすでに彼のことが気になっている。顔と声が好みで、相性がいいのだったら、もう十分あたしは好きになってしまってもいいと思ってしまう。「ねえ、あたしの名前、もっとかわいい、あなたの好みの名前で呼んでいただいても、いいのよ?」彼の手を自分の身体の曲線がわかるピタッとしたドレスのなかの乳房に導く。谷間をかき分けて、シルヴァンの手が控えめに掴んでくる。冷たい指先が触れたところから、快感が伝わってくる。一瞬、心地よい電流が全身に走ったかとすら思った。男の手に身体を触れられたり、女と手をつないだときは、受けとる愛の種類、感覚がそれぞれ違う。男と女に抱きしめられたときも、いちいち違う。男の愛、女の愛。ちなみにあたしの右手は女の手の感覚がして、左手は男の手の感覚がするのだそう。でもあたしは、生粋の女だ。

 シルヴァンは押し黙った。きっと脳内でいろいろな名前を考えているに違いない。《名前なんてどうでもいい。他の奴と間違えないのなら、何でもいい》

 つまらなさを覚えるほどのごく普通の、真面目な男なんだろう。かわいい名前で呼んで、とさらにすり寄っていっても、思いつかない、と言われて追いやられるか、困惑させてしまうかどちらかだろう。好きになった男に名前、というかあだ名、を決めてもらいたがることにこだわりたがるあたしは、それほどこの男のことを気に入っているという証拠なのに、それはこの人には、まだうまく伝わっていないのだろう。そういう軽い遊びのうちの一つなのに。彼はあたしのことをまだ多く知らない。普段からこういうことを言う女なんだろうとぼんやり思っただけのはずだ。ちなみに可愛い名前をつけて呼んでくれる男はマゾで、酷いあだ名をわざとつけてくる男は、サドだ。簡単な好みのチェック。この男は真面目、しかもノーマルかも。

「――そういうおまえこそ、早く答えを聞かせてくれよ」

シルヴァンに言われて、急に意識が現実に戻った。「もう少し、時間を頂戴。大事なことだから」気持ちよすぎて、涙が滲んできたので、眼を閉じる。

「そんなに深く考えなくていいんだ。おれにはもう、時間がない」

「大丈夫よ。だれにも見られていなかったんだったら、きっと平気よ。心配のしすぎよ。あたしがここであなたを匿ってあげるわ」

「いやいや、おれはおまえが一番大事で、急いであいつを殺してきたっていうのに、なんでそんなにのらりくらりとしているんだよ?」

「のらりくらりなんてしてないわ。ただ逮捕されないように、警察がもしここにやってきたとき、どうすればいいのか考えていただけよ。うまい嘘を言わなくちゃ」

 シルヴァンのことは大好きだった。愛してもいた。でも、そろそろ終わりにしたかった。シルヴァンがあたしとの行為に飽きたと言って、早く去っていってくれたらいいのにとすら思うときもあった。もちろん結婚なんて、だれが相手でも、あたしは御免だった。シルヴァンのほかにも、身体の相性のいい最高の男なんて、探せば他にも変わりはいくらでも見つかるのだから、あたしは別にシルヴァンを失っても困らないし? とか薄情なことを考えていた。結婚なんて、あたしみたいな女が望んでいい夢ではないことは、百も調子だったから。

《――また会いにきてくださったの?》シルヴァンは定期的に、奥さんの目を盗んでこの屋敷に通うようになっていた。一ヶ月に数回だった逢瀬を、あたしはいつしかこれはお仕事であるということを決して忘れてはしなかったが、本心から喜ぶようになっていた。シルヴァンに会えたら、本当の恋人が会いに来てくれたかのように、自然に笑顔になった。

《そうだよ。おれは二つ家庭を持っているんだからな》

《またそんなことをおっしゃって》あたしは小娘のようにはしゃいだ。シルヴァンも楽しそうに目を細め、あたしの頬を優しく手の平で撫でる。その掌のぬくもりを、いまでもあたしは思い出せる。

 シルヴァンはニュイ、とあたしの名前を呼ぶ。あたしは楽しかったころを思い出すのをやめて、現実に帰ってくる。

「どうしたの?」

ねえ。人を殺した手、死んだ人間の臭いがどこからともなく漂ってくる、シルヴァン。どうしてそんな汚れた手であたしを愛そうとするの? そんなこと、考えなくてもわかってる。あたしがお金で買われる娼婦だから。だから、だれでも簡単に抱けるあたしを、お金を払って好きなように愛したって構わないから。知ってるよ。だけどねえシルヴァン、あたしはあなたの知っている通り人間のふりをした悪魔よ。だからあなたを破滅させてしまったのかしらね? 初めて会ったときはあんなに優しくていい人だったのに、あたしと一緒にいる時間が増えるごとに、あなたのなかの悪魔が覚醒していったわ。もういなくなってしまった、昔の綺麗だったあなたに、もう一度だけでいいから、会いたい。知ってる? 真っ白だったあなたの心の綺麗なところはね、きっとあなたの殺した奥さんが丁寧にあなたを愛していてくれたから生まれ、育てられ、見守られて、保たれていたんだと思うよ。真面目でごく普通の男だった、あたしの愛していたかつてのシルヴァン。どうして変わってしまったの?

「ニュイ、もっとおれを愛してくれよ」

「愛してる。ちゃんと。あなたが気づかないだけよ」

「本当か?」

「本当よ。信じて。約束するわ」

あたしはシルヴァンの左手と恋人つなぎをして指を絡ませ、右耳にそっとキスをした。あたしは、どうやって振舞えば、愛していることが伝わるかを考えて、お決まりの愛し方のいくつかの種類の方法を組み合わせて、彼を愛した。愛していないのに、愛しているふりをして、いかにお客様を満足させてお金を稼ぐことだけを考える。本当に愛しているかのような気持ちになった男とは、本気で抱かれる。それを心の底から楽しむ。それがあたしの人生での、唯一の楽しみであり、存在理由でもある。あたしになにかが起こって男と性交できなくなったとしたら、あたしはこの世にいても意味がないことになる。

「あなたのことを、世界で一番、愛してる」空疎には響かないように、熱を込めて言う。

 世界って愛でできているのよね、とあたしはシルヴァンに強く攻められ続けながら胸中で急に実感する。シルヴァンがさらに熱くなってくる。あたしたちは愛のなかで生きている。愛だったり愛じゃなかったりするものの間を行ったり来たりする世界のなかで。愛には実に様々な形がある。歪んだ愛、隠された愛、ひねくれた愛、攻撃的な愛、破壊的な愛、絶望的な愛、不信的な愛、略奪的な愛、暴力的な愛、など。どんな形であろうと、人は愛とともに生きているんだ。愛から生まれ、愛を信じ、愛に生き、愛のために死ぬ? 愛だったり愛じゃなかったりするものを食べ、もらい、または恵み、与え、そんなことを繰り返し、生涯ずっと愛や愛じゃないものに囲まれて生きて死ぬ。シルヴァンはあの奥さんに愛されていた。シルヴァンはあの奥さんを愛していた。あたしはシルヴァンを愛していた。シルヴァンはあたしを愛している、そうよね? あたしは十分に、あなたから愛を与えてもらったわ、シルヴァン。あたしは、確かに、あなたを、愛していた、それは事実よ。

「本当は、そんなに嬉しくないのか?」

「そんなことないわ。嬉しいわよ。やっとあなたはあたしのものになるのね?」

「あの女が気に入らなかったから殺しただけだから、まあ、おまえがおれと結婚するのは嫌だって言うんなら、もう別にいいよ」

「どうして?」あたしは愛しているとは言っても、結婚したい、とは嘘でも言わない。

「おまえを剥製にしたい」

「え?」

「おれは死体が好きなんだよ。飼ってた猫も剥製にしてもらったことがあるしな。綺麗なんだぜ、剥製って。美しいおまえの姿を、永遠に自分のものにしておきたいんだ。いいだろ? 絶対大事にするから。おれはもうじきどうせ捕まるだろ? だから、その前の間だけでも、四六時中でも一緒にいられるようにさ。ニュイは、本当は結婚とか、嫌みたいだから。駄目か?」

あたしは身体のなかからこみ上げてくる恐怖を喉のなかで飲み込みながら答えた。なに考えているのかしら? この頭のおかしい人。「そんなに剥製が好きで剥製にこだわるなら、いっそのこと、あなたが剥製になればいいじゃない。そう。あなたをあたしのそばにずっと置いておきたいの。逮捕されて絞首刑になってどこかのお墓に埋葬されるより、あたしに殺されて剥製にされて、ずっと一緒で、あたしに愛され続ければいい。剥製作りの職人も呼ぶお金も用意しようと思えばできるわ。あなたが逮捕される前に、早く」

「まあ、それでもいいような気がするよ。じゃあ、おれの死体を一生愛してくれ。警察になんて、絶対渡さないで、おまえが死ぬまで一緒にいてくれよ。絶対だぞ?」

「いいわ。約束する」

 あたしがしっかりと返事をすると、シルヴァンは涙ぐんだ。「生きているうちは、もう会えなくなるんだな」

「なに言ってるの? あたしと剥製になったあなたが結婚するのだと思えばいいのよ。大丈夫、優しく愛してあげるから。ずーっと、ずーっと、ね」思ってもない嘘が、口からこぼれる。あたしは本当に、自分の命が惜しいだけの、ふざけた女だ。

「最期にいい思いができてよかったよ。剥製になっても、永遠におまえのことは忘れないよ。ニュイ」

シルヴァンはこの館で、自分で用意した毒を飲んで自殺した。涙は出なかった。そんなに悲しいとも思わなかった。ただ、あたしはもうこの人と一緒に夜を愉しく過ごすことができなくなると思うと、名残惜しかった。あの快感が恋しくなって欲しくなったときは、いったいどうすればいいのかしら? ねえ、シルヴァン? あなたは天国であたしがいなくて寂しい思いをしないのかしら? それとも殺した奥さんと仲直りして、二人でまた幸せに暮らすとか? そこまで想像して、あたしは歯噛みした。あたしの男が、大事な男が、盗られるというの? 

 シルヴァンからもらった最後のお金で、シルヴァンの教えてくれた剥製を作る職人を呼んだ。死神のような、葬儀屋のようなとても陰気な顔をした、まだ若い男だった。黒いお葬式用のようなスーツを身にまとっている。体つきがとてもか細い。腰もすっとしていて、声も小さかった。「あなたは人間を剥製にしたことはある? お願いできる?」とあたしは聞いた。自分の言葉を耳にしたときに、なんだか間抜けだなと思った。シルヴァンがあたしを剥製にしようと思って調べていた男だから、できるに決まっているんだから。「人間のケースは大変珍しく、また生前と変わらぬお姿を忠実に再現するべく、非常に繊細に取り扱う技術の必要がありますので、難しいのですが、全力で美しい剥製にさせていただきたいと思っております」と丁寧に言った。

シルヴァンを剥製にしてもらった。葬儀屋みたいな男が恭しく棺ではなく担架に載せて、そっと夜中に、数人の部下を引き連れて、運んで届けてくれた。白い担架から玄関で早々に降ろされ、数人の似たような黒いスーツ姿の男たちに抱えられて、あたしの寝室に、立っている状態で目の前にそっと置かれた。あたしは棺に入っていてもらいたかったのだけれど、担架じゃないとまわりの人たちから怪しまれるというのでそういう形になったと説明を受けた。いかがでございましょう、と暗い顔をした剥製師が気持ち弾んだ声で問う。久しぶりにシルヴァンに会った。剥製になったシルヴァンは相変わらず魅力的だった。あの甘いようで鋭い眼は、琥珀色の硝子玉で表現されていた。虚ろなのに、透明感が増したように見える。素敵だ。あの魅惑的な甘い囁き声も、今にも整った唇から聞こえてきそうだ。シルヴァンは、死んだときと同じ、あのいつもの普段着をごく普通に着ていた。全裸だったらさすがにひどい、と思っていたし、やっぱりシルヴァンはこの地味な服が一番気を遣っていない感じがして、親しみやすくていい。

「美しい。彼も喜んでるんじゃないかしら? こんなに綺麗にしてもらって。ねえ?」

「お褒めいただきありがとうございます」

あたしは剥製師の男にお金を払って、帰ってもらった。男は恭しく一礼をして、部下たちと、夜の闇のなかに溶け込むように紛れるように消えていった。

今晩はシルヴァンに抱かれたい気分だったけど、もうそれはできないのね。切ないわ、と一人で剥製の前に立って話しかけてみる。剥製はなにも語らない。ただ、うっすらと微笑んでいるだけだ。血の気のない肌は、生命力の強いあたしとは、一致しない感覚――死、の感触――を伝えてきて、ひたすら怖い気持ちになるだけだった。そう、あたしは剥製なんて、怖くて5分も一緒にいられないんだ、ということに気づいた。あたしは、死体が怖い。これは剥製という名の、腐らない死体である、ということにはっきりと気づいてから、急に悲鳴を上げて逃げ出したくなった。シルヴァンの死体は、生きていたころと同じ姿を保っているが、この剥製はしょせん人形のように、なかにもうすでに命が入っていない。虚ろな目をした死体のシルヴァンは、相変わらず素敵な男に見えたが、話しかけても、もうなにも答えてはくれない。剥製になったシルヴァンの姿のなかに、気持ちや気分や感情や心や魂はそこにないということがわかって、それなら生かしたまま、逃がしてしまった方がよかったかもしれないと思った。警察に捕まって、刑務所のなかで死んだとしても、あたしは知らないふりをするべきだったのだろうか? そもそも彼はどうして奥さんを殺してまでもあたしと結婚したがったのか、その話を二人で話し合っていない。シルヴァンは時間がない、と言っていたのに、あたしときたら、彼のくれる快楽に夢中になっていただけで、真剣に話を聞いてあげなかった。どうして彼の気持ちをもっと尊重してあげなかったんだろう? 結婚したいという気持ちは嬉しい、でも奥さんを殺さなくてもよかったのに、と翻弄したりせずに、正しいことをきちんと言ってやり、怒り狂ったシルヴァンに、首を絞められて殺されてしまうのが怖くて、嫌だっただけなのに。あたしはまったく勝手な女だ。自分の命が惜しいばっかりの、冷たい女だ。きっと地獄に落ちるんだ、そうしてそこで死ぬまでにおかした酷い罪の数々を発狂するほどひどい方法で償い続けなければならないのだろう。

 シルヴァン、ごめんなさいね。

 剥製の前で、あたしはひとことつぶやいて、娼婦になって以来はじめて、シルヴァンがいなくて悲しい、と小さな子どものするように愚かしく涙ぐんだ。どうしてなにも言ってくれないの? 剥製になったのは、本当は不本意だったんじゃない? 本当は。本当は、あたしにただ優しく温かく愛されたかっただけなんじゃないの? それがわかったとき、あたしは本当に自分のことが心底馬鹿だと思った。愛されたかっただけの人に、あたしは一体なにをしてしまったの? シルヴァンが、かわいそう。涙が止まらなくなる。今さら泣いたって、遅いのよ。だれかのせせら笑う声が鼓膜のそばで聞こえた。彼の奥さんの声を擬した幻聴かもしれない。鬱陶しい女。あっちへ行って頂戴。シルヴァンはもう、少なくともこの身体だけは、永遠に、あたしのものなのよ。


                                                         了




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ある高級娼婦の館 寅田大愛 @lovelove48torata

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