ティータイム
コーヒーサーバーのボタンを押すと、拡張現実の視界端に数値が現れる。数値が減って、コインの落ちる音が鳴る。コーヒーの料金が電子口座から引き落とされた。
サーバーがコーヒーカップを用意して、コーヒーを注ぎ始める。コンプレッサの音が室内に響いた。コーヒーの匂いが室内を満たす。
ブリーチの監視課の休憩室だった。ぼくの他には誰もいない。休憩室はガラス張りで、同僚たちが仕事をしているオフィスの様子を眺めることができた。
パソコンの画面を見ながら、楽しげに談笑する同僚たち。
浄化のペースを早めろというお上の指示に応えるために、監視課にはいつも以上の強行シフトが敷かれていたが、連日続く仕事に対しての疲れは彼らから感じられなかった。むしろ、いつもより楽しそうに見える。
人目を気にする様子で、デスクの片隅にある時代遅れのUSBポートのあたりをいじっている同僚もいる。USBポートなんて監視官の業務には関係がない。おそらく、今夜のお楽しみのために、穢れたコンテンツのダウンロードをしているのだろう。こういうところは監視官の役得だ。浄化にこれまで以上の力がいれられている今、こうしてオフラインストレージにダウンロードされたコンテンツはさらに希少性を増すだろう。
インターネットを使ったオンラインの穢れの拡散ならネット監視の目を光らせることができるが、オフラインのデータのやり取りまでは監視できていない。だからUSBのような時代遅れのオフラインストレージは、ある種の人間には重宝される。
もちろんそれは規則違反だけれど、バレなればお咎めがないというのは万国共通のルールだ。ブリーチが厳しく取り締まるようなこともなく、黙認している雰囲気さえある。
プシュっという空気の抜けるような音を出して休憩室の自動扉が開き、声が響いた。
「よう」
そう言って坂上がぼくに片手を上げて入ってきた。
「コーヒー休憩か」
部屋に漂う香りを嗅いで、坂上が言う。
「はい。坂上さんは何をしに?」
「俺も、コーヒーだよ」
「ウソですね」
ぼくが指摘すると、坂上は苦笑を浮かべた。
「おいおい、上司を信じられないのか?」
「坂上さんの部屋にはコーヒーサーバーがある。わざわざここまで飲みにくる必要はないのでは?」
坂上は肩をすくめて言った。
「参った、参った。認めるよ。けど、コーヒーをもらいに来たのはウソじゃない。目的ではなく口実として。ここに来たのは、水城と話すためだ。ちょうど休憩室に向かう水城の姿が見えたんでな」
坂上はそう言うと、休憩室に備え付けの椅子に座る。いつの間にかサーバーから響くコンプレッサの音が止まっていて、コーヒーができあがっていた。
「坂上さんは何を飲みますか?」
「ブレンドで頼む」
「砂糖とミルクは?」
「ミルクだけで」
坂上のオーダーをサーバーに入力する。先ほどと同じように音が鳴り拡張現実上に表示された金額が減る。坂上のコーヒーの料金がぼくの口座から引き落とされたことになる。
「おごりです」
「さんきゅ。電子化で小銭から解放されたのは良いんだが、こういうときに困るよな。電子マネーの受け渡しは気軽にできないから」
「ボタンを押した人間の口座から引き落とされますからね」
「だからこうして部下にコーヒーをおごられることになる」
「大丈夫です。坂上さんのメンツを守るために、今度の食事はおごってもらいますから」
「んにゃ。だがな、もう少し便利にならんかな。ボタンを押した人間と、注文した人間が違う場合もあるんだから」
坂上の言葉にふと颯太の言葉を思い出す。
「デジタルはアナログより融通が利かない」
「なんだそれ」
「友人が言っていたんです。デジタルとか仮想現実とかって聞くと、何でも実現してくれる、魔法のような気がしますけど、結局、人間が規則を作って、それに基づいてコンピュータが動いているだけだと。コンピュータは目覚ましい進歩をしたけれど、人間みたいにゼロから一を作ることはできないし、プログラムに記述されていない限り、ちょっとした気遣いもできない。コンピュータがどのように動くべきかは結局、人間が一から百までコンピュータに教え込まなければならないんだと」
「なるほどな。デジタルはアナログより融通が利かない」
坂上は颯太の言葉を口の中で転がした。
「言われてみるとそうだな。俺が子どものころは、コンピュータグラフィックス全盛の時代で現実ではありえないような映画のシーンはみんなデジタルで作られていた。それを見て、デジタルは何でもできるんだなと思ったのを覚えてるが」
「融通が利くというのと、何でもできるのは違いますからね。アナログよりデジタルのほうが人間の思い通りにできる部分が多いのは確かです。物理的な制約がないですから。人間が思い通りに世界を作ることができる。けれどその代わりに、人間がいろいろと指示を出さなければデジタルは動いてくれない。指示待ちなんですよ。観客が感動する映像の裏で、クリエイターの血が流れていたのは間違いない」
「それも友だちの言葉か?」
「そんなところです。そいつはセレンディップの研究者なんですが、コンピュータの融通のきかなさを克服したのがアンドロイドなんだと自慢していましたよ」
「なんだ、自分のところの宣伝かよ」
再びコーヒーサーバーが動きを止め、坂上のコーヒーができあがる。カップを取り、坂上に渡した。坂上はカップをかかげて言った。
「乾杯」
それにならってぼくもカップを上げる。二人そろってコーヒーに口をつけ、ほぼ同時に口を放す。坂上のコーヒーを待つうちに、ぼくのコーヒーは冷めていた。
「それで、話というのはなんですか?」
坂上はコーヒーの香りを楽しむかのようにゆっくり息を吸い込んだ。その動作は言うべきことを飲み込もうとしているようにも見えた。
「なんということはない。ただ、水城は仕事を楽しんでいるんだろうかと気になっただけでな」
あまりに唐突に、あまりに青臭いことを言うものだから、冗談でも言っているのかと思った。けれど、笑うどころか憐れむような視線をまっすぐに送ってくる坂上が、冗談を言っているようには思えなかった。
「そんなこと……」と言って口を開いたけれど、その先の言葉が続かなかった。模範的な回答としては、即座に「楽しいですよ」と言うべきだったのだろう。けれど、言いよどんでしまった。
坂上がそんな質問をしてくるとわかっていたのなら、いくらでも準備をして、思ってもいない模範解答を口にすることができた。けれど坂上の唐突な切り出しに、ぼくは心の準備ができていなかった。
もしかしたらそれが、坂上の狙いだったのかもしれない。不意をついて相手の本心を聞き出すという。
言葉を続けられないぼくに向かって、坂上は言った。
「俺が監視課に何年いるか、知っているか?」
「坂上さんはブリーチ発足当初からここにいると聞いたことがあります。そうなると二十年近くですか?」
「その通り。じゃあ、その間に何人の人間の自殺を知ったと思う?」
想像できない。憂鬱なコンテンツを見るという職務の特性上、監視官の自殺率は世間一般より高いと聞いたことがあるが、正確な数までは知らない。
「わかりません」
「四十九人だ」
思ってもみなかった数字に息をのむ。
「それだと毎年二人以上亡くなっている計算になります。ブリーチに入って数年が経ちますが、まだ自殺の話は聞きいたことがありません」
「当たり前だ。社員に動揺が広まっちゃ困るからな。最近の学校じゃ生徒が自殺しても同級生に知らせないようにするそうじゃないか。その子は転校したとか、当たり障りのない話をでっち上げる。それと理由は同じさ。ウェルテル効果って言ったか? それを防ぐためさ」
ウェルテル効果。メディアの自殺報道に影響されて自殺が増える現象。
坂上の言葉に拡張現実が反応し、視界上に説明を表示した。
「ウェルテル効果を防ぐ以外にも、理由はあるけどな。自殺に限らず死なんてものは、人間が最も嫌う穢れの一つだ。穢れに傷つけられず、毒されず、健全な精神を保つためには、穢れから距離を置くのが一番いい。だから、人の死はできるだけ隠される。監視課に限らず、それが社会の要求だろう」
医療の発達で身体的な病による死はほとんどなくなった。人類は史上最も不老不死に近い状態にある。
おとぎ話では、不老不死を手にした人物が精神的な問題を抱える姿がよく描かれる。それを反面教師にするべく、身体的な不老不死を手に入れた人類は、精神的な健康を手に入れようと突き進んでいる。
そのための対策の一つが穢れを許さないという理念のもとで突き進むネット監視という制度で、そのまた一つが職場という空間を共有する人間の死さえも同僚に知らせないことなのだろう。
ジェノサイド、ホミサイド、スーサイド。
死に関連する英語が頭に浮かぶ。
穢れから人々を守ろうという思いやりは、死を社会のはしっこに、サイドに追いやろうとしている。
「ただ、自殺した本人と親しくしていた人間には知らせるように、とマネージャー向けのマニュアルにはあるけどな。水城は職場での付き合いが悪いから、知らされることもなかったわけだ」
そう言って、坂上は笑みをぼくに向けた。悔しいことに、間違ってはいない。ぼくは同僚の監視官との付き合いを、なるべく最小限にとどめている。
「監視官は特殊な仕事だ。普通の人間が嫌悪感を抱くコンテンツを眺め続けなければならないからな。ひどいやつはトラウマになる。そうして精神をすり減らして、いつの間にか彼岸に渡ってしまう」
「そんなことにならないように、心的ストレス耐性があるのでしょう?」
「確かにな。穢れを見たせいで精神を病んだ監視官が溢れたら困る。病んだ監視官が生まれれば、それは社会の欠陥で、社会にとっての脅威になりうる。だから監視官になるには試験に合格して、穢れに対する抵抗力を証明する必要がある。けどな、それでもダメになるやつはいるんだよ」
坂上の目はまっすぐにぼくを捉えている。それはまるで、お前のことだと言っているようだった。
「ぼくは違います」
「みんなそう言うよ。直前までは。でも率直に言って、水城は今まで俺が見てきた、自殺した人間たちと似ているんだ」
「どこがですか」
「お前は仕事を、楽しんでいないだろ?」
息が詰まる。図星だった。
同僚たちが、なぜあんなに嬉々とした表情で、穢れたコンテンツを審査できるのかがわからない。
職場に配属されてすぐ、熱心に楽しんで監視の業務に就く同僚たちを見て、穢れに対する嫌悪感を抱くぼくのような人間は監視官の中では少数派だと気づいた。
けれど、それで正しいのだと思っていた。穢れに対して負の感情を持つことは、人として正しい反応だと。
坂上はそれが危険だと言う。
「確かに、お前は俺が長年見てきた監視課の人間の中でも特別だ。特に、セキュリティの感触をつかんでこじ開ける能力は一番だと思う。どうしたらあんなに簡単にセキュリティを突破できるんだろうな?」
「自分でもよくわかりません」
「そう、よくわからない。理由がわからないまま備わっている能力を才能という。お前は監察官に向いている。才能があるからな。だがな、その才能が逆に、お前にとって重荷になるんじゃないかと、俺は思う」
「才能に押しつぶされるなんて、どこかの芸術家の話みたいですね」
軽口を叩いてみたけれど、この湿った雰囲気を乾かすほどの力はなかった。相変わらずまっすぐに坂上の目はぼくを捉えていた。
「才能のないやつはいい。できないことをやるのは、ツラいことだからな。すぐに辞めどきを察して、去っていく。でもな、中途半端に才能があって、仕事ができるやつは、下手をすると深みにはまる。やりがいを持たずに仕事をしても、結果が出るものだから続けてしまう。そうやってどんどん沼地の奥へと進んでいく。そして、そこが自分の望む場所ではないと気付いたときにはもう、手遅れだったりするんだよ」
坂上はそこまで言うと目をそらし、沈黙した。
言い過ぎたと思っているのだろう。坂上がぼくのことを心から心配していることはわかった。けれど、その気持ちに応えることはできそうもない。
ぼくは立ち上がって、坂上に背を向け、ガラス張りの休憩室から見える、監視課のフロアを眺めた。
ガラスの向こうに、血に染まった画面を見ながら楽しげな表情を浮かべている同僚が見える。
別の場所では数人が固まって、同じ画面を指さしながら、興奮したように話す姿があった。
それを見てずっと心にしまっていた疑問を口に出した。
「なぜ、みんな楽しそうなのでしょうか」
坂上は「ん?」という問うような音を出した。はじめ、言葉の意味を理解できないようだったが、やがてぼくの視線から察したようだった。
「楽しいから、だろうな」坂上は答えた。「普通の人間なら、穢れを終始見つめるような監視官の仕事はしたくない。何せ、穢れに近づくなって教える時代だ。穢れを見ると、怪我をするぞ、感染するぞってな具合にな。だから一般的な教育を受けて、穢れに対する標準的な嫌悪感を身につけた人間は普通、監視官になろうとなんて思わない。だが、中にはそんな教育をものともせずに成長して、大人になっても特殊な嗜好を持ち続ける人間がいる。堂々と違法なことをする蛮勇にはなりきれないが、隠れてその欲求を満たしたいと思っている。ブリーチの監視課はそんな奴らの受け皿でもある」
「受け皿ですか」
「ああ、そうさ。まあ、受け皿って言葉は少し違うような気もするが」
「というと?」
「ブリーチはインターネットを浄化するフィルターだなんて言われることがあるよな。このフィルターって言葉が、俺はぴったりだと思うんだ」
「なぜです?」
「フィルターは不要な、ときには危険な物質をこしとるだろ。けどこしとったものを安全なものに変化させるわけじゃない。ゴミやら汚れやらはフィルターに残るわけだ。それと同じように、この仕事場は、公には楽しめない趣味を持つ人間を社会からこしとっているというわけだ」
「何かがきれいになるためには、別の何かを穢す必要がある」
ブリーチはネットの穢れをこしとり、自らの内側へと蓄積する。
「そういうことだ。救いようのない話だけどな」坂上はそう言って笑ったが、笑顔に力がなかった。「この社会が最善でないとは、俺だってわかっているんだ。何より、物語がつまらない」
「そういえば、坂上さんは映画が好きだと聞いたことがあります」
「ああ。若い頃はハードもデータも、形式を問わず色々と手元に置いてあったんだけどな。みんな手放しちまった。というより、手放さざるを得なかった」
「昔のコンテンツには、今の倫理基準に合わないものが多くありますからね」
実際、名作だという触れ込みでネットにアップされた昔の映画を、ぼくもいくつか削除したことがある。
「それはわかっている。けどな、今のわかりやすい勧善懲悪の物語なんかより、昔の少し汚いもののほうが深みがあって面白かったなと、思ってしまうときもある。何より人間らしかった。正義の味方でも汚ない部分があり、悪者でも綺麗な部分がある」
「坂上さん、そんなこと言ってると逮捕されちゃいますよ」
「おっと」
坂上はそう言って口を両手で塞いだ。そのおどけた動作で張り詰めた空気が、いくぶんか柔らかくなった。
「最近のコンテンツに描かれているような、わかりやすい善と悪なんて、この世にあるとは思えなんだよなあ」坂上はそう言ってため息をついた。「じゃあ、そろそろ俺は仕事に戻るよ」
坂上は休憩室のゴミ箱にカップを捨て、出口へ向かった。直前で立ち止まり、背中越しにまた質問を投げかけてきた。
「そういえば、水城が監視官になった理由は何なんだ?」
ぼくは一瞬考えてから、こう答えた。
「穢れを退治する、勧善懲悪のヒーローになりたくて」
「ヒーロー? いいな。どんなヒーローになりたいんだ?」
「それは……」
一瞬、愛梨の顔がちらついた。愛梨が見せた悲しげな顔。答えが出なかった。
なかなか返答しないぼくを置いて、坂上は休憩室を出て行った。
愛梨の顔が、頭から離れない。ぼくのもとを去るときに見せた悲しげな顔。
愛梨があんな表情を浮かべないで済むような世界にするのがぼくの目的。そのために、監視官になったのだ。
だから、坂上が心配するように、ある日突然、自分の行為の無意味さに気づいて、自殺に走るなんてことはないと思う。ぼくにはちゃんと目的があって、まだ、その目的を達成していないのだから。
坂上が言う通り、この仕事は辛い。でも、その辛さから逃げる気はない。
少なくとも辛さを感じるうちは、愛梨のために自分は頑張っているのだと納得することができるから。
苦痛は努力の証だ。
ぼくが感じるこの痛みは、ぼくが生きる理由になっていた。
監視官をやめることはあるかもしれない。けれど、それは愛梨が望んだ世界を実現する、別の手段を見つけたときだろう。
別の手段。
ぼくはロイから提案された穢れの解放について考える。
ガラスの向こうに見える同僚たちの笑顔を眺める。
ネットの浄化をこのまま続けていても、愛梨の救いにはならないのだろう。
かといってロイの望むように穢れを解放することは、ぼくにはできなかった。それは今までの自分の努力を否定することだった。
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