Act.3

別れ

 愛梨がぼくの元を去ったのは、中学二年の夏のことだった。

 もう少しで夏休みという、夏も盛りの熱い日だった。

 ぼくはといつものように教室の窓辺の席で、通学途中に買った菓子パンをかじりながら、窓の外を眺めていた。

「ハル、ちょっとこっち来てみろよ」

 教室の廊下側の席からそうやって声をかけられたのは、昼休みが半分ほど過ぎたころだった。声をかけてきたのは吉川だ。小学生のころはぼくに対して攻撃的だった吉川も、時を経て丸くなっていた。相変わらずぼくを見下しているような雰囲気はあったが、話をすれば必ず殴り合うような関係ではなくなっていた。

 吉川の周りには取り巻きが二人いて、みんなで携帯端末を覗きこんでいた。三人は携帯端末を隠すようにして立っていて、周りから見えないようにしていた。

 思春期の男子が集まって、こそこそと端末の画面を覗き込んでいれば、そこで何が行われているかはだいたい想像がつく。吉川たちは思春期特有の制御しきれない欲望のおもむくままに、性的コンテンツを共有していたのだ。

 ネット監視の成果によって、今でこそ性的なコンテンツはネットの奥底へと追いやられたけれど、ぼくらが中学のころはまだ、ネットの浄化は十分ではなかった。簡単に目のつくところからは有害コンテンツは排除されたが、検索ワードをうまくに組み合わせれば、辿りつけないことはない。過渡期と言っていい、中途半端な状況だった。

 欲望も時間もありあまった中学生には、様々な検索ワードを駆使して性的コンテンツに辿りつく動機も時間もある。みんなが欲しがる情報に、自分だけがアクセスできると重宝されるものだから、探し出したコンテンツを恥ずかしげもなく得意げに友人に披露する人間が必ずクラスに一人や二人はいた。

 吉川たちが見ていたのも、そうして掘り出されたコンテンツの一部だったのだろう。

 吉川とはそれほど親しかったわけではなかったが、呼ばれて行かない理由もなかった。椅子から立ち上がり、窓辺の席から吉川たちのいる廊下側の席へと歩いた。

「これ、どう思う」

 吉川は携帯端末とそれに取りつけられたイヤホンを渡してきた。

 思春期の標準的な男子として、そういうことに興味がないわけではなかったぼくは、黙ってイヤホンを耳に取りつけた。

 聞き覚えのある声が、ぼくの耳に響いた。

 やめて。離して。

 なぜその声に聞き覚えがあるのか、はじめはわからなかった。

 画面に映る女性の、いや、女の子の姿を見て、ぼくはその声の正体を知った。

 この声は聴き覚えがあるどころか、ほぼ毎日のように聞いている。

 画面の中で、泣き叫んでいるのは愛梨だった。まだ小学生くらいの愛梨が服を破かれている。男の手が愛梨に伸び、愛梨は必死に首を振る。目の端には涙が浮かんでいた。

 やめて。離して。帰して。

「どうだ? 松本に似ていると思わないか?」

 吉川の問いに、ぼくは答えることができなかった。似ているどころの話ではない。それは愛梨だった。

 やめて。

 これほど切羽詰まった愛梨の声をぼくは聞いたことがない。

 なぜこんな映像があるのか。

 いつ撮られたものなのか。

 ぼくは混乱した。

 ぼくの混乱をよそに、画面の中の惨劇は淡々と進行する。

 幼い愛梨は泣き叫び続ける。

 やめて。離して。

「ハル、何を見ているの?」

 小学生の愛梨の叫びに、それよりもいくぶんか大人びた、中学生の愛梨の声が重なる。

 ぼくは振り向いた。愛梨がぼくの背後に立っていた。

 愛梨の視線はぼくの手の中の物、吉川たちから渡された携帯端末の画面に向けられていた。そこには、小学生くらいの愛梨が映っている。

 愛梨の表情に影がさす。時間が止まった。

「何でそれを……」

 愛梨の声は震えていた。

「これは――」

 答えを聞くことなく、愛梨は教室の外へ駆け出した。

 いつも落ち着いている愛梨が取り乱していた。その様子は今まで隠してきたものが決壊し、流れ出しているような激しさだった。

 携帯端末を吉川に投げ返した。耳に付けっぱなしだったイヤホンが、携帯端末に引っ張られて耳から飛び出した。

 愛梨の後を追う。背後から、吉川たちの無責任な好奇心をたっぷり含んだ笑い声が追ってきた。

「これは本当に松本みたいだぜ」

 そう話す吉川の声が聞こえた。


 愛梨は校舎二階の廊下を通り抜け、直角に曲がって階段に向かった。それを追って、ぼくも階段へ行った。一瞬、下りに行きかけたが、上のほうの階段の踊り場にちらりと愛梨の制服のスカートがはためいたのが見えて進路を変えた。

 三階と四階を通り過ぎ、五階へ。五階には音楽室などの特別教室が集中していたから生徒が少なく、静かだった。ぼくと愛梨の足音が響き、下の階の喧噪は遠ざかっていった。

 愛梨は五階も通り過ぎた。

 五階の上には何もない。屋上があるだけだ。

 金属の扉を開く音がして、薄暗かった五階の踊り場に光が差し込んだ。そして、再び消えた。

 取り乱した愛梨と屋上。最悪の状況が頭をよぎる。

 このまま愛梨は飛び降りるつもりなんじゃないだろうか。

 階段を駆け上がる足に力をこめる。屋上階への最後の階段を踏み抜いて、そのままの勢いで鉄の扉を開けた。

 晴天だった。夏の日差しが肌を焼いた。

 愛梨の姿はなかった。

 最悪の結果が頭をよぎり、ぼくは目の前の屋上のフェンスへ駆け寄った。

 腰までの高さしかない緑色の網目のフェンス。いかにも頼りなく、風が吹くと揺れてカサカサと音をたてる。事故による転落防止には十分でも、意図的な転落は防げそうにない。

 フェンスから乗り出して、下を見る。

 地面に倒れる愛梨の姿はどこにもなかった。

「さすがにそこから飛び降りる勇気はないなー」

 背後から声がした。

 屋上の戸口の脇で、ペントハウスの壁に背を預けるようにして愛梨が立っていた。跳ねるようにして壁から背を放し、愛梨がこちらへ歩いてくる。

 その様子がいつもの愛梨と変わりないように見えて、ぼくは安心した。

「いきなり教室を飛び出すから驚いた」

「驚いたのは私のほうだよ」

「え?」

「ハルもああいうことに興味あるんだなーって」

「それは……」

 答えることができなくて、ぼくは言葉に詰まる。愛梨の声はいつもと違って間延びしていた。

 愛梨は隣にやってきて、フェンスにもたれかかった。

「さっきのあれ……」

 ぼくは恐る恐る訊ねた。

「んー?」

「本当に愛梨なの?」

「うん、そうだよ」

「でも、いつ撮られたの?」

「ハルと出会う前。前の混乱、覚えているでしょ。ネットを通じて、人々の穢れた感情が伝染し、世界中でいくつも悲しいことが起こった」

 ぼくはうなずく。アモルファスによる世界の大混乱。

「私もそれに巻き込まれて、過激派連中の慰み者にされてたってわけ。あの動画はその名残」

 愛梨は遠くを見つめて言った。

 その口調は昨日の天気の話をするかのように穏やかだった。まるで他人事。そうやって、自分に起こった出来事を、自分と切り離して考えなければ、愛梨は自分を維持できなかったのだろう。

「お父さんもお母さんも、そのときに離れ離れになっちゃったんだ。ハルには言ってなかったよね?」

「海外出張に行っているって――」

「うん。ハルにはそう伝えていた。けど、実は違うんだ。海外よりも遠いとこ、この世ではないところに行っちゃったんだ。私がおばあちゃんたちと暮らしている本当の理由は、そういうことなんだ」

 愛梨の語ったことに何か言葉をかけてあげたかった。けれど、言葉が思い浮かばなかった。こんなつらい経験をした幼馴染に、かけてあげられる言葉をぼくは知らなかった。

 沈黙が屋上を支配する。

 その沈黙に耐えられず、口を開いたのはぼくだった。

「あの動画、消しておくように、吉川たちに言っておくから」

「ありがとう。ハルは優しいね」

 その「優しい」という言葉に、何か冷たいものを感じた。この話はやめにしようという、愛梨の意思表示のような気がした。

 ぼくと愛梨の間を風が通り抜けて行った。愛梨のセミロングの髪が風になびいた。

「日差しは暑いけど、風は涼しいね」

 髪をかきあげながら愛梨が言った。屋上から見えるグラウンドには、午後の体育の授業のためにどこかのクラスの生徒が集まり始めていた。

 愛梨が口を開く。

「ねえ、ハル。私にああいうことしたいって思う?」

 愛梨の問いに胸が高鳴るのがわかった。

「ああいうことって?」

 ぼくは訊き返す。何もわかっていないようなふりをしたけれど、愛梨が何のことを言っているのか、わかっていた。

「私の体を触って、服を脱がして裸にして、また触って……。あんなふうに乱暴ではないにせよ、そういうことを私としたいって思う?」

 愛梨はそう言ってぼくのほうに向き直る。

「今なら、誰もいないこの屋上なら、ハルの好きなようにできるよ」

 愛梨はぼくに向かって一歩ずつ、ゆっくりと近づいてくる。ぼくの目をまっすぐに見つめながら。

 ぼくは思わず目をそらす。というより、自然と目が動いた。

 制服のブラウスの上から、うっすら透けて見える下着のライン。

 短く折ったスカートから、すらりと伸びた足。

 さっき走ったせいで愛梨は汗をかいていて、はだけた襟元には汗の滴が光っていた。

 愛梨が近づくごとに愛梨の匂いが強まった。

 抱きしめられる距離に愛梨がいた。

 抱きしめようと、手を伸ばした。愛梨の身体に手が触れた。

 触れた手から伝わってきたのは、暖かさではなかった。恐怖と震えだった。

 顔を上げて愛梨と目を合わす。愛梨の目にあったのは虚無だった。

「ハルも、あいつらと一緒なの?」

 震える声で愛梨が言った。

 何かを期待していたのはぼくだけだった

 その瞬間、それまで熱を持っていた頭の芯がすーっと冷えて、世界が色を失っていった。

 愛梨は震えていた。ぼくのことを恐れるように。

 ぼくは本能に支配されていた。

 さっき、愛梨の動画を見ながら、野卑た笑みを浮かべていた吉川たちのように。

 あの動画の中で、愛梨に暴力を振るっていた男たちのように。

 愛梨のことを心配している振りをしながら、心の底ではあいつらと同じことを望んでいた。

 愛梨を抱きしめるためにあげた腕を下ろした。愛梨の目を直視できなくて、目をそらす。

「ごめん、性格悪いね、私」

「そんなことはないよ」

 ぼくはそう言ったけれど、その声は弱々しくて、愛梨に届いたのかはわからなかった。

 愛梨は屋上のペントハウスのほうへ歩いていった。薄暗いペントハウスの中へ入っていき、消えた。

 今度は愛梨を追いかけることができなかった。ぼくには追いかける資格がなかった。愛梨を傷つけたやつらと同じものを、自分が抱えこんでいることに気づいてしまったから。

 屋上から飛び降りたかった。けれど、できなかった。

 ぼくは自分の身体を破壊する代わりに、教室に戻り、吉川たちから端末を奪い取り、粉々になるまで地面に叩きつけた。

 

 愛梨はその後、学校に来なくなった。

 愛梨が学校に来なくて正解だった。吉川たちが例のコンテンツを広めたせいで、クラスメートたちの愛梨を見る目が変わっていたから。

 どこか遠くの学校へ転校したと担任の先生から聞かされたのは、彼女が引っ越した後だった。

 愛梨のお婆さんたちはまだ地元に住んでいたから、その気になれば愛梨の行き先を聞き出して、会いに行くこともできた。

 会って、愛梨の足元にひざまずいて、あのときの自分の気持ちを悔いていると懺悔することもできた。

 けれどぼくはそうしなかった。

 そんなことをしても何も変わらないとわかっていたから。

 いくらぼくが悔いたとしても、ぼくの中のあの穢れた感情は存在し続ける。

 いくらぼくが謝まったとしても、愛梨のあの映像はネットの世界でコピーされ、拡散し続ける。

 ぼくの謝罪や後悔は、愛梨にとって、なんの救いにもならない。

 だからぼくは愛梨を追いかけることはせず、ネット監視官になることを決意した。

 ネット監視官になり、愛梨の映像を削除する。

 ネット監視官になり、社会の穢れを消し尽くす。

 そうすれば愛梨へのせめてもの罪滅ぼしになるかもしれない。ひょっとすると、ネットの穢れを消しているうちに、ぼくの心の中の醜い感情も消えてしまうかもしれない。

 そうなったとき初めて、ぼくは愛梨と再会することができる。そうでなければ意味がない。

 ネット社会もぼくの中の穢れも、全て真っ白な状態にすることで、ぼくはようやく愛梨を抱きしめることができる。

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