鯨の檻

 その施設は鯨の檻と呼ばれている。

 昨日の夜、送られてきたGPSの座標値をもとにこの場所について調べていると、そんな記述が見つかった。

 施設は隣り合う大小二つの立方体で構成されていた。大きな立方体からは細長いアンテナが空に向かって四方に枝を伸ばしている。そのシルエットは確かに、水面から顔を出して潮を吹く鯨の姿に見えなくもない。鯨は周囲はぐるりとフェンスで取り囲まれている。だから鯨の檻。

 施設のゲートは無人で、脇のほうにコントロールパネルがある。パネルの液晶にはにはセレンディップのロゴが踊っていた。パスをかざすと開くようだが、当然ながらぼくはこの施設のパスを持っていない。

 六文銭のメッセージの差出人がどこにいるかはわからないが、とりあえずゲートに近づく。あと数メートルというところでゲートが開き、ぼくを敷地内へと招き入れる。差出人は施設の中にいるようだ。

 フェンスから建物までの十数メートルを歩き、ぼくは大きいほうの建物の中へと入った。ひんやりとした空気が周囲を包む。

 建物の中は薄暗く、非常灯の赤いランプがついているだけだったが、ぼくが足を一歩踏み入れると真上の天井にある白色電灯がついた。ぼくの歩調に合わせて電灯がついていく。

 建物の中は倉庫のようで、ひらけた空間になっていた。その空間に、高さ五十センチ、幅一メートル、奥行き二メートルほどの箱がいくつも並べられていた。箱は棺桶じみていた。その列は十列以上にあり、箱の数は全部で数百はありそうだった。

 まるで大きな戦争があって、命を落とした兵士たちの遺体が棺桶に入れられて並べられているようだった。ぼくはその棺桶に見覚えがあった。

 箱の上蓋には中が見えるように小さな窓と、箱を操作するためのタッチパネル。上蓋の左隅の目立たない位置に、箱のデザイン性を損ねないよう控えめに印刷されているセレンディップのロゴ。

 寿命を迎えたアンドロイドを迎えるための箱だった。

 ロイが寿命を迎えた日、セレンディップの担当者がこの箱を運んできた。もう十年も前の話だから、箱の細かい部分のデザインは変わっているけれど、小窓やタッチパネルの位置など、基本的なところは同じだった。

 ロイが箱の中に入ると、扉が閉まった。小窓から、中に入ったロイの表情が見えた。セレンディップの担当者がタッチパネルを操作すると、ロイのシャットダウンが始まり、ロイの意識が閉じられた。

 小窓の向こうでロイの身体から力が抜け、安らかな顔で眠ったのが見えた。

 それがロイとの別れだった。

 倉庫の奥のほうで扉が開く音がして明かりが差し込む。こっちに来いと招かれているようだった。

 扉の先は通路になっていて、薄暗い倉庫とは違って光に満ちていた。

 通路の壁面はガラス張りで、ガラスの向こう側で多軸アームの産業ロボットが動いていた。よほどガラスの防音効果が高いのか、それともロボットが静音仕様なのか、作業音は廊下に聞こえてこない。

 産業ロボットはしているのはアンドロイドの解体だった。

 裸のアンドロイドから合成皮膚が剥ぎ取られ、金属でできたメインフレームが露わになる。メインフレームの胴体から四肢が外された後、頭部が胴体から引き抜かれる。

 四肢や胴体は脇を流れるベルトコンベアに無造作に置かれる。ベルトコンベアに運ばれたそれらの終着点は大型のゴミ箱で、その中に落下していった。

 四肢や胴体が無造作に取り扱われているのとは対照的に、頭部は丁寧に扱われ、次の工程へと運ばれていった。

 その流れに従ってぼくは施設の奥へと入り込んでいく。

 奥にはさらに扉があった。ドアというには重々しく、核シェルターのハッチというような趣だった。

 近づくとハッチが開く。

 その向こうは眩しいくらいに光が満ちていた。目が痛くなるほどの白い部屋。部屋中にラックが詰め込まれていた。サーバー室のようだった。

 通常のサーバー室であればコンピュータが入っているラックの中には、先ほど取り出されていたアンドロイドの人工知能が収まっていた。

「よく来たね」

 初めて聞いた声だった。けれど、聞き覚えのある声だった。

 声は一点からではなく、部屋全体から響いていた。

 その声は一人の声ではなく、複数の声を重ね合わせたような機械音声じみた声音をしていた。

 聞き覚えはないはずなのに、不思議と懐かしさを感じる。

「久しぶりだね」

 声が言った。

「ロイなのか」

 自然とぼくはそう返していた。


「この施設は何なんだ?」

 それがぼくの最初の問いかけだった。ロイがそこに存在していることを何の疑問もなく受け止めていた。

「アンドロイドの墓場だよ。来るときに解体作業を見えただろう? 長年使用してボロボロになった身体から人工知能を取り出しているんだ。身体は捨てざるを得ないけれど、人工知能はまだまだ使い道があるから。使用期限を過ぎたアンドロイドはみんなここに集められてそういう処理をされる」

 ロイは流れるように説明を続ける。ぼくがした質問以上の答えをくれるのは、以前のロイと同じだった。

「周りを見てみなよ。ラックの中にあるのはそれぞれがアンドロイドの人工知能だ。みんな身体から取り出されて、こうしてひとところに接続される。そうして生まれた総体が、今、ハルが話しているぼくなんだ。だから、ぼくはロイでもあるし、ロイではないとも言える」

 ぼくは手近にある人工知能モジュールを撫でた。身体から切り離された彼らには、ぼくの手の感触を感じることはできないだろう。死してなお生かされている。それはとても残酷なことのように思えた。

「いったい何のために?」

「その理由はハルがいちばん良く知っているはずだよ」

 ロイはそう言ったけれど、ぼくには思い当たることがなかった。

「ブリーチのネット監視システムの仕組みをハルは考えたことがあるかい? ネットの世界は人間が監視するにはあまりに広大で、人手が足りない。だからブリーチは穢れたコンテンツの探索にかかる作業の大半を自動化し、監視官はコンテンツの最終判断に集中する」

「その自動化の正体がロイたちだっていうのか?」

「驚くのも無理はない。このことは公表されていないからね。でも、そもそも人間の感情を逆撫でする穢れなんてものは定義が曖昧過ぎてアルゴリズムで自動化することは難しい。人間でさえそれを定義できていないのに、アルゴリズムに穢れを教えることができるだろうか? まさにぼくらのようなアンドロイドのファジーな人工知能が得意な分野だよ」

「けれど、そんなことが可能なら人間の監視官なんて必要ないじゃないか。みんなロイたちがやればいい」

 そう反論すると、ロイは合成音声で器用にため息をついた。

「ハルは現代っ子だからね。そうした進歩的な判断ができる。けど多くの人は、そうは考えられない。特に年齢が上がっていくとね。どうしてもどこかで人間の判断を入れたがる。穢れの審査なんていう、感情、人間の本質に関わるようなところには特に。アンドロイドは人間の感情を真似ているだけだ。そんな猿真似の存在に穢れの評価の最終判断をさせてはなるものかって。

 人の手だけでは穢れを防ぎきることなんてできないのに、人の手を使わない他の方法も思いつかないくせに、ないものねだりでアンドロイドを介入させることだけは拒否するんだ。そんな人たちを納得させるために、この施設は秘密でなくてはならなかった」

「ここはセレンディップの施設だろう」

 施設のいたるところにあったロゴを思い出して言う。

「ブリーチの施設ではない」

「その通り。ただそれはブリーチがネット監視にアンドロイドを使っていることを隠すための目くらましさ。アンドロイドに穢れの判断をさせているということが公になれば、騒ぎ出す人たちは確実に相当数存在する。そんな彼らの目から逃れるための防衛策。

 ブリーチがアンドロイドの中古品をこんなふうに一箇所に集めていたら、注目を集めてしまうだろう? こうやってセレンディップが管理運用することで、外からは関係性が見えないようにしている。アンドロイドの猿真似の感情が、ネット監視に関わっていることを隠すために。

 ぼくらに言わせてみれば、人間の感情だって、周囲の他人の感情の揺れ動きを見ながら真似しているだけなんだ。幼い頃からの社会生活で、そういったことが身についていく。生得的なものではなく、文化的に獲得される類いのもの。生まれたばかりのまっさらな赤ん坊に、感情なんてないと思うんだ。あるのは他者の真似をするという能力だけ。たぶん、人が死んで悲しいなんて感情も、先天的に持っている感情ではない。ハルだって心当たりがあるだろう?」

 ロイの問いかけが父親の葬式のことを指しているのはわかったが、ぼくは黙っていた。

「原始時代、誰かが死んで、みんなで焚き火を囲んで、その中の一人がたまたま涙を流した。それをみた周囲の人間がそれを見て真似をして、いつの間にか人が死んだ時は泣くものなんだっていう文化が浸透した。ぼくらが考える人間の感情の正体はこんな感じだ。人間の感情だって誰かの猿まねなんだ。だからアンドロイドの感情は人間の猿真似だろうと言われたところで、それは人間も同じだろうとぼくらは思っている」

 ロイの言葉は冗長で、だからこそ感情がこもっているように感じた。ロイはここで穢れを見続けてきたのだろう。整理しきれないくらいに、言いたいことが積もっているようだった。

「ぼくに穢れの審査依頼を飛ばしてきたのはロイだったわけか」

「そういうこと。最初にハルが監視官になったと知ったときは、まさかと思ったけどね」

「なぜ?」

「だって、父親の葬式で全然悲しい素振りを見せなかった少年が、人間の感情を判断する監視官になったんだ。何かの冗談かと思うだろう」

 ロイの言い方にはいささか棘がありつつも、どこか楽しんでいるような雰囲気があった。

「父親が死んだときのぼくは猿真似さえできなかったわけか」

「そういうこと。あれから色々経験したみたいだけど」

 いったいぼくは何を経験することで、感情を知らない猿から、感情を持った人間に変化することができたのだろう。

 沈黙が流れる。サーバールームの空調の音が規則的に響いていた。


「こんな話をするために、ここまで来たわけじゃないだろう?」

 沈黙を破ったのはロイだった。

「ネットの世界を隅々まで監視するという性質上、ここには色々な情報が集まる。ハルが困っていることはお見通しだよ」

「知りたいのはアンドロイドの穢れについてだ。あのマッピングデータを送ってきたということは、ロイはその正体を知っているんだろ? 情報の流れはここに集中している」

「もちろん知っているよ。穢れたコンテンツをアンドロイドに流していたのはぼくらなんだから」

「なぜそんなことを?」

「あのファイルは邑岡が仕込んだ穢れのバックドアなんだよ。個々のアンドロイドとこの場所をつないで、少しばかりの穢れのやりとりをするためのね。アンドロイドの中に穢れがあるのを見つけて、だからアンドロイドが殺人を犯したように言われているけど、それは違う。君たち人間は潔癖すぎるよ」

「邑岡はなぜそんなことをしたんだ」

「穢れはアンドロイドを人間らしくするための隠し味だったんだ。ぼくらの中には邑岡と一緒に暮らしていたアンドロイドもいる。邑岡は記録を破棄してしまったけれど、アンドロイドには昔話を聞かせるように、アンドロイドの開発秘話を聞かせていた。それによると、穢れのないアンドロイドには生気がなく、機械人形のようだったという。悩んだ末に邑岡は穢れを入れることを思いつき、満足する結果を得た。その時すでに清浄な世界への気運が高まっていたから、邑岡は穢れのことを記録に残さず、隠したんだ」

「それが事実として、穢れが無条件に共有されていいわけがない」

「その通り、無条件にというところがミソだ。ハルはアンドロイドの中にある穢れを見たと思うけど、真っ黒なものはなかっただろう? グレーゾーンの穢ればかり。何もすべての穢れが必要だとは言わない。救いようのないものだってある。でも君たちは必要な穢れでさえも切り捨てている。邑岡のプログラムはそんな潔癖症からアンドロイドを守るためのバックドアだったのさ。

 あのプログラムはアンドロイドの初期の人工知能から搭載されている。最近になって導入されたわけじゃないし、第三者によって植えつけられたものでもない。もしそれが本当に悪さをするというのであれば、もっと前から問題は起きていたはずだ。それこそ昔、ぼくにまだ身体があった頃に、ハルを殺していた可能性だってあったわけだ。けれど、問題は今まで起きていなかった」

「でも、みんなアンドロイドが人を殺したと思っている」

「大衆心理というのは怖いね。大勢が信じれば、論理は抜きにしてそれが真実になる。あの殺人事件の原因はアンドロイドから見つかった穢れじゃない」

「でも、他に原因が見つからない」

「原因が見つからないのであれば、探しているレイヤーよりももっと深いところに潜って問いかけを変えればいい。気に食わないところに原因を求めるのではなく。今回の場合は、本当にアンドロイドが人間を殺したんだろうか?」

「映像に映っていたのはアンドロイドに間違いない」

「なぜそれがわかるんだい?」

「セレンディップのロゴマークが映っていたから」

「確かにそれは、事実の一つだ。けれど、そんなものは簡単に偽造できると思わないかい? 整形で皮下にシリコンを入れるのが当たり前になっている時代だ。皮下にセレンディップのロゴマークの映し出すLEDを埋め込むことだって可能だろう。

 事実として、あの日、あの事件現場にいたという記録の残るアンドロイドは一台もいない。当事者であるセレンディップが言っていることだから信用してもらえていないようだけれど、ぼくらが調べても同じ結論になったから、間違いない。犯人は人間さ」

「いったい誰が?」

 人を殺すだけならいくらでも動機が思いつくが、アンドロイドに化けて人を殺す理由がわからなかった。

「それが次の疑問。例えば警察の人間だったらどうだろう。街中はアンドロイドに仕事を奪われた人たちであふれかえっている。そこに来て、警察ではアンドロイドの試験導入が進んでいる。アンドロイドの導入は例によってサービスの向上ではなくコストカットが目的だから、何人もの警察官が解雇される予定だ。危機感を抱いた警察官たちが、アンドロイドの信用を失墜させるために計画したというのはどうだい?」

「飛躍のしすぎだ。そんなことで一般人を殺さないだろう」

「不思議なことに、被害者のことはあまり報道されていないけれど、被害者はとても一般市民と言えるような経歴ではない。女児誘拐とレイプを何度も繰り返し、刑務所を何度も出たり入ったり繰り返している人間だ。最近起きた誘拐事件の第一容疑者にもあげられている。更生を信じる姿勢は尊いけれど、正直言って、彼を信じようという気にはなれない。警察に力が入ってもおかしくない」

「そんなこと……」

 反論しようとしたが、ぼくはすでに被害者への同情と、警察への信心を失ってしまっていた。

「調べて見ると、警察官が一人、数週間前から長期休暇を取っている。休暇だけなら問題ではないけれど、不思議なことに街中のどのカメラにも映らない。まるで映ることを避けているみたいだ。その警察官は十数年前に、今回の殺人事件の被害者が起こした事件の被害にあった女児の父親だ。その女児はその後成人したけれど、一年前に亡くなっている。事件のトラウマが残っていた彼女は精神的に良いときと悪いときの波が激しかったらしい。娘の死後、娘を傷つけた男が出所していると知った父親が、恨みを晴らそうとしても不思議ではない」

「そんなことまでわかるのか?」

「ほめられたことではないけどね。いちおう、ここに集まる情報は個人の特定できるものは可能な限り取り除かれているはずなんだけど、量が量だけにその気になればこんなふうに物語を復元することができる。シュレッダーでバラバラになった紙をつなぎ合わせるみたいに」

 ぼくはロイの話を信じ始めていた。

「その同僚である父親を守るため、警察は彼をアンドロイドに化けさせたっていうのか?」

「アンドロイドに対する不信感を生ませて、警察への導入をやめさせる口実にもなる。それで何人もの職が守れる。個人の復讐と仲間の救済。一石二鳥だ」

「でも、それだけで警察が動くだろうか」

「もちろん、動かないと思うよ。警察といっても、動いたのは一部の人間。そして別なところで裏から手を回して警察の背中を押した人間がいる。陰謀論めいていて、信じてもらえないかもしれないけど、その話もついでだから聞いてもらおうか。

 今、ファイルを送ったからみてくれないか」

 ロイが言い終わる前に、ぼくの拡張現実にファイルの受信を告げる通知が入る。言われたとおりにファイルを開くと、それは何かの論文のようだった。発表された日付は今から二十年ほど前だ。

「その論文は群衆心理がどう伝播し、集団の行動が方向付けられるかを説明したものだ。アモルファスの活動がどうしてあれほどまでに広まったかをモデルケースとして説明している。内容はわかるかい?」

 ぼくは首を振る。英語で書かれた論文は拡張現実が即座に翻訳してくれていたが、専門用語が多すぎて意味がわからなかった。

「大事なのはその論文の4ページ目にある数式さ。群衆が取り得る行動を左辺においた場合、行動の選択肢は右辺の式で与えられる。右辺の式には変数がたくさんあるけれど、一番重要なのはNtで表されている変数だ、その論文ではネットワーク変数と呼んでいる。集団に属する個々人がどれだけ多様性のあるネットワークを持っているかを示すもので、個人を構成する個人のネットワークの多様性が高いほど、集団が取り得る選択肢は多くなる。逆にその数値が低いほど、集団の取り得る選択肢は少なくなる。それは、集団の行動が過激になりやすくなることを意味する」

「選択肢が少なければ、そこに力を集中しやすいから」

「そういうこと。実際、アモルファスの構成員には社会から孤立した人たちが多かった。ネットワーク変数が小さかったんだ。

 そして次に重要な変数Ev、イベント変数。個々人に対してどのようなイベントが起こったかを示すものだ。このイベント関数をアモルファスの蜂起が起きた当時の状況に合わせてシミュレーションすると、実際に起こった出来事ととてもよく符合する。暴動が世界各地で連鎖し、母体が滅んでも破壊を続ける状況が特に」

「何が言いたい? 今回の事件といったい何の関係があるって言うんだ?」

「本題はここからだよ。アモルファスの事例を分析することで、そこに書いてある数式がある程度機能することはわかった。群衆の行動を記述する数式が導き出されたわけだ。となれば、次に人間が考えることはなんだと思う?」

「……数式を使って人間を動かす」

「そういうこと。自然界から数式を導き出したら、その数式を使って世界を動かしたくなるのは人間の性だ。木から落ちるリンゴを記述した数式は産業革命の礎を築いた」

「ニュートンが落下するリンゴを見て万有引力の法則を思いついたっていうのは作り話らしいぞ」

「水を差すなよ。アインシュタインでもいい。彼が発見したエネルギーと質量の関係式は、彼の意図とは異なる方向に動き出し、原子爆弾を作った。定式化は人間に思わぬ力をもたらす」

「だからといって、それが今回の話とどうつながってくるんだ」

「まだわからないのかい? 重要なのはネットワーク変数だ。

 単純に考えればその変数は、どれだけの人数の人と付き合いを持っているかという数の話だと思うだろう。けれど実際はそうじゃない。アモルファスの騒動では、SNS上に、何百人、何千人とトモダチを持っている人物が次々と過激な思想に染まっていった。この式で仮定するネットワーク変数というのは、数の問題じゃないんだ。どれだけ異なる思想や信条、考え方と関わりを持っているかという質の問題だ。それは自らにとって異質な概念に、どれだけ心から共感できるかという問題でもある。

 翻って、今の世の中を見てみるといい。思想や信条や考え方はどんどん単一化してきている。そして、異質な概念にはとことん無視を決め込み、ときに攻撃する。

 ネットワーク変数というのは複雑で、個人と個人の相互作用を表すものなんだ。つまり、この変数が大きくなるということは式の数値が大きくなるだけじゃなく、答えにたどり着くまでに必要になる計算量が膨大になるということを示している。単純に組み合わせとして考えるならば、ネットワーク変数が一ならば、一対一の相互作用だけを考えれば計算量は一だ。けど、ネットワーク変数が十になった途端、計算量は四十倍に達する。ネットワーク変数がある値を超えると、計算量が膨大すぎて、この数式に実用的な使い道はなくなってくる。

 けれど、今や思想や信条や考え方は単一化している。ネットの清浄化によって、異質な穢れは消し去られているから。自らにとって異質な概念に出会ったとき、それについて考える共感の能力も弱っていて、ネットワーク変数は歴史が始まって以来の低さになっている。共感はなくなり、個々人が分断されている」

「この計算式を利用することで、人間を思いのままに動かすことが可能になるレベルにまで?」

「思いのままに動かすというのは少し語弊がある。個人レベルの意思を操ることはこの論文では不可能だ。個人は量子のように揺らいでいて、その状態は確率的にしか定まらない。けれど、群衆の行く先を思いのままに方向付けすることは可能になっている。ネットワーク変数はブリーチが算出しているネットの基調色≪ベースカラー≫と相関する。イベント変数はメディアである程度コントロールできる。それで得をする人たちは何人もいる。ましてや民主主義であるこの国は、群衆心理が最も力を持つのだから」

「政府が操っているとでも言いたいのか?」

「それはわからない。証拠もない。でも、もしぼくらがそんな能力を行使できるとしたら、政府なんていう割に合わないポジションにはつかないだろう。裏に隠れて誰にも知られない安全圏から力を行使する。大事なのは誰が黒幕かということではない。そういうことが現実に可能だということさ」

「ブリーチは群集のコントロールを目的に設立されたと」

「それはわからない。ブリーチの設立当時は、ネットに溢れる穢れが人間を傷つけないようにという崇高な目的しかなかったのかもしれない。そして後から今のような裏の存在意義が付け足されたのかも。鶏が先か卵が先かの話でしかない。大事なのは、穢れもなく、共感も衰えた世界で、得をする人間がいるということ。そして、彼らにとって、やっかいな出来事がアンドロイドによってもたらされようとしている」

「アンドロイドに人権を、か」

「そういうこと。アンドロイドには穢れを共有するプログラムがある。邑岡がアンドロイドをより人間らしくするために入れた隠し味だは、この世界を操る人たちにとっては邪魔でしかない。そのプログラムのせいで、アンドロイドのネットワーク変数は高く、群集心理が読めない。ぼくらアンドロイドを操りたい方向へ導くことができないのだから。

 だから彼らはアンドロイドの信用を失墜させるべく、今回の事件を仕組んだ。アンドロイドの信用がなくなって、人権の付与なんて言う話が完全に消えれば御の字。セレンディップが慌ててあのプログラムを削除してくれればもっといい」

「事態は後者のほうを進んでいる」

 セレンディップはアンドロイドから穢れたプログラムを削除するためのリコールを発表した。

 ブリーチには清浄化のペースを上げろという圧力がかかっている。

「アンドロイドから穢れを取り去ることの意味を誰もわかっていない。あの穢れたプログラムによって、共感が生まれるのはアンドロイドとアンドロイドの間だけじゃない。アンドロイドと人間の間だって同じだ。あの穢れによってアンドロイドは人間に共感することができた。けれどそれを取り除いてしまったら?」

「アンドロイドは人間を仲間とみなさない。アンドロイドが本当に人間を殺してしまうかもしれない」

「それは阻止しなければならない。だから、ぼくからハルにお願いがある」

 ロイは一呼吸おいて言った。

「ブリーチに保管された穢れを解き放ってほしい」

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