Act.2
出会い
「想像できる?」
松本愛梨は言った。ぼくは、「何を?」と訊いた。
「未来のことや、一緒にいる人間のことを」
彼女はそう答えた。愛梨の発した言葉一つひとつが、ぼくの心に焼き付いている。
今から思えば、使い古されたありきたりな言葉だ。
それまでの十数年間の人生で、親や学校の先生や物語の登場人物が同じようなことを言っているのを聞いていたはずだ。けれど、彼らが言った言葉にぼくは重みを感じることができなかった。質量のない言葉はぼくの身体を通過していって、とどまることがなかった。
同じような言葉であったにもかかわらず、愛梨が発した言葉は、ぼくの中に残った。ぼくと変わらない年齢の少女が言った言葉には、きちんと感触があり、質量があり、それゆえにぼくの身体に染みこんだ。
愛梨と出会ってぼくは救われた。
愛梨の言葉の質量の由来を、そのときはまだ知らなかった。
記憶が正しければ、あれは小学六年生になって一ヶ月が経とうとした日のことだ。
二〇四三年の十月。日本の学校年度の始まりが、諸外国に合わせて九月になって久しかった。
小学生のぼくはどこにでもいる少数派で、多数の人間がAと言えば、Bと言言いたくなるようなあまのじゃくだった。そんなひねくれた少年の学校生活がどのようなものになるかは、あるていど相場が決まっている。周囲から孤立するのだ。
多数決の原理は人類が考えだした偉大な原理の一つ。
けれど、少数派にとってはたまったもんじゃない。特に子どもの世界はそうだ。成熟した大人の世界なら少数派を放っておいてくれるくらいの寛容さはあるけれど、子どもの世界にそれはない。
育てられた環境だったり、遺伝子だったり。自分にはどうしようもない理由で少数派になってしまった子どもに対しても、少数派であること自体が罪であるかのように、多数派は容赦なく罰を与える。
十年そこそこの人生経験じゃ、世界には多様な価値観があるなんて知りようがない。価値観とは困ったもので、テストみたいに点数をつけられるものではない。逆に言えば、自分が信じているという理由だけで、自分の価値観のほうが優れていると思い込むことは可能だ。
そんな思い込みはいさかいを生む。新世界を見つけた西洋社会が自分たちの神さまを「未開人」に押し付けたみたいに、子どもたちも価値観を互いに押し付け合う。相手の差し出す価値観を受け入れられなければ戦争だ。戦争になれば物量がものを言うから、子どもの世界で少数派となった者の行き着く先は、決して明るいものではない。
あまのじゃくで少数派だったぼくの場合にも、この論理は当然のごとく当てはまった。
多数派はぼくの変わった意見を見逃してはくれず、まるで矯正しなければならないという使命でも帯びているように、攻撃を仕掛けてきた。
それでも、ぼくに少数派であることを隠したり、多数派に合わせる賢さがあれば戦争にはならなかったのかもしれない。
けれど残念ながらぼくは、自分の考えが間違っていないと思い込んでいた。自分の考えを信じ切れるくらいに、ぼくは幼かった。
秋晴れの空の下。昼休み。学校の屋上。
ぼくは同級生に囲まれていた。記憶は定かではないけれど、全部で五人はいたのではないだろうか。
「なあ、
目の前に立つ吉川が言った。声に作り物めいた不自然な甘ったるさがあった。吉川の下の名前は忘れてしまった。体が大きくでっぷりと太った同級生の吉川は、ぼくにとってかなり嫌な奴だった。だからぼくは吉川と距離を保つため、彼を苗字でしか呼ばなかった。
それにも関わらず、吉川が一方的にぼくを下の名前で呼んでいたことは、ぼくらの関係を象徴していると思う。
「さっきの授業でお前が言ったこと、詳しく説明してくれよ」
吉川の周りにはぼくを取り囲むようにして数人の取り巻きがいて、気持ちの悪い笑みを浮かべていた。心臓が縮み、鼓動が早くなるのを感じた。
居心地の悪い雰囲気から逃げようとして、ぼくはとぼけてみせる。
「何の話?」
無理やり浮かべた笑顔が引きつらないように注意して。
そんなことをしても逃げられないことはわかりきっているのに。
案の定、ぼくの答えに吉川は満足することはなく、わざとらしくため息をついた。
「ついさっきのことも覚えてないのか?」
吉川が声を荒げると、取り巻きからクスクスと嘲笑が起きた。
吉川が一歩詰め寄ってきて言う。
「午前の授業、ロボットのビデオを見せられたよな?」
それは否定できないから、仕方なく頷いた。作りものの笑顔を崩さないようにしながら。
「最後に先生が一人ひとり感想を聞いて言った。お前は何て言ったか覚えてるか?」
「覚えて、ない」
嘘だった。
「ロボットと人間は同じだと思います」
吉川はぼくの声を真似て言った。取り巻きのクスクス笑いが大きくなる。腹が立った。自分の声はそんなに高くないと言いたかったが、我慢した。
「そう言ったんだよ、お前。それを説明して欲しいと言っているんだ、俺たちは」
「そんなこと言ったっけ……」
ぼくがとぼけると吉川は舌打ちをした。
「このバカは、ついさっき自分が言ったことさえ覚えていられないらしい」
吉川の取り巻きから笑い声が上がった。さすがにその頃には作り笑いを浮かべられなくなっていた。
吉川はぼくの方を振り向いて、威嚇するように顔を近づけ、
「人間が二十四時間掃除をしたり、火の中に飛び込んだり、深海に潜ったり、瓦礫の中に入って人を探したりできると思っているのかよ、お前」
「だって……」
「テロリストの立てこもる施設に飛び込んで、銃弾に構わず敵をやっつけるなんて人間にできるのかよ」
「それは……」
「ほら、ロボットと人間は違うだろ?」
言い淀むぼくに向けて、吉川は見下した笑みを浮かべて、ぼくの頭に手を伸ばし、拳で二回ノックした。
「お前の頭は空っぽか?」
また取り巻きからクスクスと笑い声が漏れた。
ぼくの頭は空っぽではないと言ってやりたかった。
成績を比べれば、吉川よりも、さらにその取り巻きたちの誰よりも、ぼくのほうが上だったのは確実だ。けれどその事実さえ、吉川たちがぼくを見下す材料にしかならない。
何かに失敗するたびに、お前は勉強だけしかできないガリ勉だと言われていた。勉強しかできないお前より、俺たちのほうが偉いんだ、と。
じゃあぼくよりも吉川が優れていたものはなんだったのだろう。腕っ節の強さと取り巻きを従えるリーダーシップだろうか。
吉川は三角形の面積の公式さえ暗記できないくせに、他人を責めるための口実は、いくらでも作り出せる人間だった。
先生に順番に当てられて、吉川を含めた生徒全員が「ロボットはすごい」という感想を口々に述べる中、「人間とロボットは違わない」とぼくは言った。
周りがAと言ったら、Bと言わずにはいられないあまのじゃく。そんなぼくの性格を抑えられなかった。
吉川はそれを見逃さなかった。当然だ。それが吉川の大好物だったのだから。
人は誰しもヒーローだ。
あなたの人生の主人公はあなた自身。
そんな耳あたりの良い言葉に感化されてというわけでもないだろうが、人間はそれぞれの中に個性という名の正義を持っていて、それに従い行動する。
大人の正義は広大だ。なにせ、成長の過程でいくつもの悪事を体験し、行うことになるのだから。少しくらい異質な正義と出会っても、自分も同じようなことをしたり、あと少しでそちらの側に渡ってしまうところだったかもしれないと考えて、たいていのことは無視を決め込むことができる。それが寛容さにつながっているのだと思う。
一方で、純真無垢な、どんな悪事にも染まっていない子どもの正義は小さくて、だからこそ残酷だ。異質な正義を見つけたら、無視を決め込むなんて選択肢が頭に浮かぶことはない。
子どもが許容できる正義の範囲は狭い。そして許容できない正義は悪だ。だから子どもは、宗教戦争みたいに不毛で結果の出ない正義のぶつかり合いとして、いじめをしてみせるのだろう。
だから、周りに合わせることができず、独自の正義を振り回していた少数派のぼくが、授業で言ったことや日々の行動をネタにする吉川に、目をつけられるのは当然だった。
今ならそう分析することができる。けれど、十二才の少年がそんな達観した境地に至るはずもない。ぼくは、やめておけばいいにもかかわらず、身体の中から何かが湧きあがってくる苛立ちに身を任せて言い返した。
「たしかに、人間は二十四時間掃除をしたり、火の中に飛び込んだり、深海に潜ったり、瓦礫の中に入って人を探したりできないよ」
それまで黙っていたぼくが話しはじめたことに、吉川は少し驚いたようだったが、それでも余裕は失わなかった。
「だよな。その腐った頭でも、じっくり考えればわかるよな」
ニタリとした笑みが吉川の顔に広がった。その見下した表情を見て、さらに言い返したくなった。
ロボットと人間は違わない。
自分の考えで吉川を屈服させたかった。自分の意見に吉川が納得し、なんの反論もできず、悔しそうな顔をするところを見たかった。
「けど、ロボットが人間にできないことをできるのは、人間よりも強い身体を持っているからだよ。もし人間にも同じような身体があれば、ロボットと人間は変わらないはずだ」
そう言うと、屋上に静寂が流れた。
吉川がじっとぼくを見る。ぼくの言ったことを考えているのだと思った。頭の弱い吉川には、ぼくの言ったことは難しかったのかもしれない。傲慢にもそう思った。
けれど、予想とは反対に、取り巻きたちの嘲笑が漏れ、徐々に大きくなった。吉川の顔に粘ついた笑みが再び浮かぶ。
「は? 意味わかんないんだけど?」
いつもそうだった。
吉川たちはぼくの行動と発言をネタにする。口答えをしようものなら、「意味がわからない」の一言で突き放すのだ。そこに理解しようという歩み寄りはない。その一言を聞くたびに、ぼくの苛立ちと絶望は、頂点に達する。
そんなの、不公平じゃないか。
必死で訴えかけているのに、はじめから吉川たちには、ぼくの意見を聞く気がないのだから。
そう思った瞬間、頭の中で何かが弾け、吉川のでっぷりとした腹に拳をめり込ませていた。
「うぐっ」
放った拳の衝撃は脂肪にだいぶ吸収されてしまった感じがしたけれど、それでもダメージは与えたようだ。吉川が腹を抱えながら膝をつく。
足を振り抜けば確実に当たる位置に吉川の顔があった。
身体の中から「やれ」という声が聞こえた。
けれど、その声に従えなかった。すでに自分のやってしまったことに後悔を感じてしまっていたから。
どんな理由があっても暴力はいけないのに、手を出してしまった、と。
決定的な一撃を加えることをためらっているうちに、吉川の取り巻きが飛び掛かって来て、ぼくを屋上のコンクリートに押し倒した。
ドンという鈍い音が身体に響く。
鼻を打ち付けたせいで、ツンとした痛みが走った。
吉川の取り巻きたちの足が降ってくる。
何発かをみぞおちに喰らって息が止まりそうになった。何とか身体を捻って腹を地面のほうに向け、亀のように背中を丸めて衝撃に耐えた。
どんなときでも暴力はいけないという教えは、彼らになんのためらいも与えてはくれないようだった。それとも、先に手を出したのはぼくだから、そんな教えは無効となのだろうか。
永遠にも思えるような長い時間が経って、吉川の取り巻きたちも疲れたのか、降ってくる足の数が減った。やっと終わるのか。そう思いかけたとき、それまでよりもさらに重い衝撃が身体に響いた。
みぞおちを抱えてうずくまっていた吉川が攻撃に加わったらしかった。
吉川の身体は取り巻きたちより一回りは大きかったから、一発の重みが違った。
背中を丸めているのも苦しくなって、身体をぴたりと地面につけ、うつ伏せのような体勢になってしまう。すると、さらに重みの乗った衝撃が背中に響く。吉川が背中の上で飛び跳ねていた。衝撃の度に背中側から肺が潰されて、空気が口から漏れていく。
「や……めて……」
声を出そうとするけれど、吉川の跳躍に合わせて肺から空気が漏れていくせいでうまくいかない。喉から出るのは、漏れる空気が声帯を震わせて出す、風切音のような弱々しい音だった。
あまりに痛くて苦しくて、ぼくは抵抗することをやめた。
毎日のように吉川からは攻撃をされていたけれど、その日はいつもより執拗だった。
後から聞いた話だが、どうやら吉川の父親は産業用ロボットを製造する工場で働いていたらしい。人間を超えた素晴らしいロボットを作る父親は吉川にとって誇りで、だから「ロボットと人間は違わない」と言うぼくの言動はいつも以上に気にさわったのだろう。吉川の父親の仕事も、数年も経たないうちにアンドロイドに仕事を奪われてしまったらしいのだけれど。
父親の誇りを侮辱され、おまけに普段から見下していたぼくのような人間に腹を殴られ、一時でも膝を地に着けることになったのだから、吉川の幼いプライドが刺激され、普段よりも大きな怒りを生んだのだ。
昼休みの終了を告げる五限の予鈴が鳴らなければ、ぼくはいつまで吉川のサンドバックになっていたかわからない。それまでの間、吉川は狂ったようにぼくの背中でトランポリンをし、ぼくはその衝撃を受け続けた。
「そろそろ、授業が始まるぜ」
取り巻きの誰かが声をかけた。
「そうだな」
吉川はもう一度、ぼくの上で大きく跳んだ。息が上がっていた。
吉川たちが離れていく。
「お前はキレやすすぎる」
何歩か離れたところから、吉川がそう言うのが聞こえた。まるで、ぼくがキレやすいから成敗してやったとでも言うかのように。
キレたのはお前も一緒だろう。
口には出さなかったが、心の中でそう毒づいた。身体を動かすことができなかった。心の中で毒づくのが精一杯だった。
吉川たちの気配が屋上から消えた。
身体を捻って仰向けになった。少し痛みはあったが、打撲ていどで骨が折れているような感じはしなかった。
右腕を目の上に覆うように乗せ、いつの間にか泣いていた。
けんかに負けた悔しさ。
同級生に敵意を向けられた恐怖。
色々な感情が入り交じっていたけれど、その時の涙を一番構成していたのは、共感してくれる者のいない寂しさだった。
――は? 意味がわかんないんだけど?
吉川の言葉と嘲笑が頭の中をぐるぐると回っていた。
吉川たちと仲良くしたいと思っていたわけではない。
けれど、人間は経験から未来を予測するものだ。いくら「人生には幸せなときもあれば、辛いときもある」と教えられていても、演繹的に明るい未来を考えられるように人間はできていない。それまでの経験をもとに「こういうことがあったから、次はこうなる」と帰納的に予測するだけだ。このときのぼくにあてはめれば、「今まで人に好かれ、理解されたことはないから、これからもひとりぼっちだ」という帰納論が成り立つわけで、だから孤独を感じていた。
五限の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
まだ、涙は止まらない。
もう少しここにいよう。
屋上を風が吹き抜けた。
濡れた土の匂いがした。空は晴れていたけれど、どこか近くで雨が降っていたのだろう。
屋上を駆け抜ける秋風がぼくの頬に触れ、涙の軌跡を感じさせる。
どれくらいそうやって横になっていただろうか。
いつの間にか息は落ち着き、流れる涙も枯れてしまった。
昼休みは終わり、授業が始まっていた。
これからどうしようか。そう考えながら立ち上がった。
授業に出なければ怒られるが、途中から授業に参加したら目立ってしまう。どちらも嫌だ。八方塞がり。
そんなことを考えているうちに、いつのまにかぼくは屋上のフェンスの外側にいた。
ヒュー、ヒュー。
校舎の下側から、風が吹き上げてくる。
ここから飛び降りれば、八方塞がりの状況から抜け出せる。いじめについて調査され、吉川たちはお咎めを受けることだろう。
ここから飛び降りれば楽になる。
そんなことをなんとなく思った。
「想像してみてよ」
それまで誰の気配も感じなかった屋上に、ソプラノの声が響いた。ぼくは驚いて声のしたほうを見た。
肩まで伸びた黒髪を風になびかせて、少女が立っていた。
「そこから飛び降りたらどうなるか、想像してみてよ」
「想像?」
「うん。良いことばかりじゃないよ。相当痛いと思うし、たぶん、君の身体はぐちゃぐちゃになっちゃう。君の身体だってわからないくらいぐちゃぐちゃに。落ちている時間はかなり長く感じられるだろうし、落ちてからもしばらくは意識があるんじゃないかな。ぐちゃぐちゃのまま意識があったら、かなり痛いと思うよ」
ぼくは少女が言う通り、ここから飛び降りたときのことを想像してみた。怖くなった。
「そこから飛び降りることで、あのおデブちゃんたちに仕返しができると思っているかもしれないけど、実際のところはどうなるかわからない。バカな奴が死んだって言って、反省もせず喜ぶかもしれない」
反省している吉川の姿よりも、ぼくのことを話の種にしている吉川の方が想像しやすかった。自分たちの正義のおかげで、世界からクズが一人いなくなったのだと、胸を張ることさえするかもしれない。
「そう考えたら、そこから飛び降りるメリットってないと思わない?」
少女の言う通りだと思った。
「うん」
ぼくは落ちないように慎重にフェンスを登って、内側へと戻った。
「おかえり。さっきの騒ぎを見ていたんだ」
少女は穏やかな笑みを浮かべて言った。
その年は、暦の上では秋とはいえ、夏から季節外れの暑さが続いていた。それにもかかわらず、少女は長袖のシャツを着て、フルレングスのズボンを履くという出で立ちだった。
「見ていたって、どこから?」
近くへ行くと、少女はフェンスにもたれかかるようにして座った。ぼくもその横に並ぶようにして座る。
「全部。あなたたちがここに来たところから」
「どこにいたの? 気付かなかった」
もし彼女の存在に気づいていたなら、吉川たちもあれほどあからさまに難癖つけてくることはなかっただろう。
「あそこだよ」
少女は屋上の出入口を指さした。
「あそこ? でも、あそこは出入口……」
あそこにいれば気づかないはずがない。だって吉川もぼくも、あそこを通ってきたのだから。
「そうじゃなくてあの上。ちなみに出入口じゃなくて、ペントハウスって名前らしいよ。ペントハウスの脇にはしごがあってさ、上に登れるんだ」
知らなかったでしょ。少女は最後にそう付け加えて笑った。
知らなかった。
あの屋上にぴょんと飛び出た出入口がペントハウスということも。
あの上に登ることができるということも。
こんな笑顔を持つ子がこの学校にいたということも。
「あの上って眺めがいいし、誰にも見つからないから、静かに過ごせる私のお気に入りの場所なんだ。なのに今日はやたら騒がしくて。見てみたらあなたたちがここにいたわけ」
どうやらかっこ悪いところを全て見られてしまっていたらしい。恥ずかしさがこみ上げる。
「私のこと、知っている?」
少女の問いにぼくは首を振った。
「そっかぁ……。割と有名人だと思っていたんだけどなぁ……」少女はため息をつき、肩を落とすと、「私はあなたを知っているよ。水城陽、だよね? クラスは違うけど、私と同じ六年生」
「どうして、ぼくの名前を?」
「だって陽、目立つもの。見かけるたびに目を真っ赤にしているか、喧嘩しているかで、周りから浮きまくりのはみ出し者。いじめられているってすぐにわかる」
少女はなんの躊躇もなくぼくの名前を呼び、天気の話でもしているような調子でいじめのことを指摘した。吉川たちとの関係は、ぼくにとってはかなり深刻な話なのだけれど、彼女の気軽な口調に影響されて、ぼくの心も軽くなるような気がした。
「まあ、はみ出し者なのは私も一緒だしね」
「どうして?」
ぼくが問うと、少女はため息をついた。
「ほんとに私のこと知らないの? 始業式で全校生徒の前に立ってあいさつしたんだけど」
「ごめん。始業式には参加できなかったんだ」
ぼくが言うと少女は驚いた顔をした。
「そうなんだ。なら、知らなくても仕方がないね」
「うん、仕方がない」
だって、始業式のときは新学期早々に難癖をつけてきた吉川たちとけんかして、いつも通りに負け、保健室で気持ちが落ち着くまで休んでいたのだから。
「そうかぁ、私のあいさつを聞いてなかったのか。頑張って練習したのにな」
少女は立ち上がるとぼくのほうをくるりと向いた。
「改めまして、自己紹介を。私はアイリ。松本愛梨。はじめまして。今学期からこの学校に転校してきました。これからよろしくお願いします」
愛梨は礼儀正しくお辞儀をする。始業式の挨拶でも同じようにやったのかもしれない。再び顔を上げた愛梨の顔には笑顔がのぞいていた。
愛梨は隣に座って言った。
「で、あのおデブさんたちとどんな楽しい話をしていたのかな?」
ぼくは愛梨の一挙手一投足を眺めていたけれど、さすがにその質問をされたら目をそらすしかなかった。
「あい……君には、関係ないよ」
思わず「愛梨」と言いそうになって、「君」と言い直した。けれど、口に出してから「君」と言うほうがなんだか恥ずかしいような気がした。
「確かに関係はないんだけど、気になるんだよね」愛梨は空を眺めながら言った。「まぁ、ハルが言いたくなければ言わなくていいんだけど、私の落ち着く時間と場所が奪われた理由くらいは知っておきたいなって」
愛梨はペントハウスを指さしながらぼくを覗きこんだ。
「それは……」
ぼくのせいじゃない。そう続けようとしたのだけれど、愛梨の顔を見ていたらどうでもよくなった。
「ごめん」
「んー……。何でそこで謝るかなぁ」
「愛梨が謝って欲しそうだったから」
今度は「愛梨」と言った。
「冗談なんだけどなぁ……。だいたい謝るべきはあっちのおデブさんたちのほうだと思うし」
「吉川たちに訊いたら絶対にぼくが悪いって言うと思うけど」
「だから違うって」と愛梨は言った。「ロボットと人間は違わない、だっけ?」
「話、聞いてたんじゃん」
「まぁ、大声でしゃべってたし」
「やっぱり、ぼくが変なことを言っているって思う……?」
責められる前に自分を卑下することで防衛戦を張る。自己否定をしておくことで、他人に否定された時のダメージを最小限にする準備をする。もしかしたら肯定されるのではという淡い期待を持ちながら。
「うん」
明るく渇いた声で愛梨はうなずいた。
「確かに意味がわからないし、変なこと言ってるなって思った」
「だよね」
ぼくの防衛戦はあっさりと破られた。
「でも、ハルが一生懸命に説明しているのを聞いているうちに、そういう考え方もありなのかなと思った」
「え?」
そのときのぼくはとても希望に満ちた顔をしていたと思う。自分に共感してくれる言葉をかけてもらえただけで救われた気分だった。たとえそれがぼくを励ますための偽りの共感の言葉だとしても。
「あれってつまり、人間もロボットも、人間の想像力の限界からは逃れられないってことだよね。人間は想像したことしか実行できないし、ロボットは人間の想像した範囲でしか動けないっていう。違う?」
ぼくに確認するような視線を向けて、愛梨は続ける。
「人間は休まなければ掃除をし続けることはできないけれど、休まずにすむ身体があったら? と想像して、二十四時間掃除ができるロボットを作った。火に耐えられる身体があったなら、瓦礫の間の小さな隙間に入れる身体があったなら、と切望して、火の中に飛び込んだり、瓦礫の中に入って人を探しだすロボットを作った。全ては人間の想像力や願いが出発点。逆に言えば、人間の想像力の及ばないことは、ロボットにはできない」
「そういうこと、かも」
「何か納得してないみたいだけど」
「そんなことないよ」
正直、愛梨の言っていることはぼくの考えと少し違うみたいだった。けれどそんなことよりも、ぼくの意見について頭ごなしに否定せず、理解しようと考えてくれていることが嬉しかった。
「まあ、いいや。とにかく、私が言いたいのは、ハルの声はあんなふうに、意味わかんないの一言で切り捨てていいようなもんじゃないってこと。ハルに限らず、誰の声でもそうだけどね。絶対あいつら、ハルの言ってることを理解しようという気さえなかったよ」
「そう思う?」
「思う思う。おまけに、去り際に吐いた言葉、聞こえた? お前はキレやすい、だって」
愛梨は吐き捨てるように言って、気持ち悪いとばかりに顔をくしゃくしゃにして舌を出した。
「あれこそ、意味がわからない」
「たぶん、ぼくがキレやすいから成敗してやったってことだと思う」
「あんな意味のわからない言葉を理解しようとしなくたっていいんだって」
愛梨はため息をついて続けた。
「もし、あいつの言ったことが今、ハルの言ったとおりの意図だったとしても、なおさら意味がわからないよ。毎日ハルにちょっかい出して、ストレス溜めさせてキレやすい状態にしているのはどっちだよって話。自分は一回ハルにぶたれただけでぶちキレるくせに」
愛梨が吉川の悪口を言ってくれるのも嬉しかったけれど、それよりも気になることがあった。
「毎日って、毎日見てたの?」
「だって目立つでしょ。毎日居心地の悪い空気を作っている集団がいて、そこから目を赤く腫れさせて逃げ出してくる人間がいれば」
涙は隠しているつもりだったが、失敗していたらしい。情けなくて恥ずかしい。
「毎日は泣いてないと思うけど」
なけなしの反論も愛梨には届かなかった。
「私はああいう人間が大っ嫌い」
きれいな顔を歪ませる愛梨を見て、ぼくは思わず笑ってしまった。
「何? なんで笑っているの?」
「だって、ぼくよりも怒っているみたいだから」
愛梨と話しているうちに、吉川たちとの関係はどうでもよくなっていた。
「私も経験あるからさ。逃げようのないところに追い込まれて、どうしようもなくなった経験がさ」
「え?」
愛梨の表情から笑みが消えていた。
「前の学校でいじめられていたの?」
「ちょっと違う。まず学校ではなかった」
「じゃあ、どこ?」
「もっと逃げようがないとこ」
愛梨はそう言うとぼくから離れ、屋上のフェンスに寄り掛かった。
「そういえば、暑くないの?」
ぼくは愛梨の長袖、長ズボンという服装を見て言った。
「暑いよ」
あっけからんと愛梨は答えた。
「じゃあ、なんで着ているの?」
「私の身体、傷があるんだ。もう数年もすれば目立たなくなるらしんだけど、今はまだ、隠しておきたい」
「それも、愛梨が逃げてきたことと関係があるの?」
「うん、そうだよ」
愛梨はそれ以上口を開きたくないようだった。
二人のあいだを湿った風が通り過ぎて行った。
「雨、降ってきたね」
愛梨が言った。
空を見上げると、いつの間にか雲が立ちこめていた。頬に雨粒が当たった。
「ちょっと話が湿っぽくなっちゃったからかな?」
愛梨はそう言って笑った。
「中に入る?」
ぼくは提案した。
「陽はこれからどうするつもり?」
「どうするって、授業に行くよ。愛梨は行かないの?」
「行かないつもり。ハルは本当に何も知らないんだね。私、転校してきてから数えるくらいしか授業にでてないんだよ。同級生の間でもとっくに話題になっていると思うけど」
「何で授業に出ないの? 愛梨は何組?」
「C組」
ぼくは記憶の中から、C組の時間割を探しだす。
「C組の五限は国語だっけ。中川先生の。愛梨は知らないかもしれないけれど、あの人は怒らすと怖いんだよ」
「だからだよ。授業の担当が中川って男の先生だから私は行かないんだ」
愛梨は笑みを浮かべた。けれど、さっきよりも元気がなさそうに見えた。
「それに、どうせ今から行っても怒られるよ」
愛梨が言った。言われてみればその通りだ。
「ねえ、教室よりに保健室に行こうよ」そう言う愛梨の表情は陽だまりのように柔らかだった。「保健室のベッドはふかふかで、昼寝をするのにちょうどいいよ」
これが愛梨との出会いだった。
ぼくは愛梨の後をついて保健室に行った。
そして、この出会いの後も、水が低いところへ流れるように、ぼくは愛梨のほうへ引き寄せられて行った。
それがやがて、愛梨を溺れさせることになるとは知らずに。
愛梨と出会ってぼくは救われ、いろいろなことを知った。
愛梨が、猫が好きで、犬は嫌いで、けれど子犬は好きだということ。カレーよりもシチューが好物だということ。
何より、愛梨が誰よりも人の苦しみに共感できるやさしさを持っていることを知った。そしてぼくはそれに甘えた。
そのやさしさの理由を知ったのはずっと後になってからだった。
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