36. 私の憶測。

 この2日間でアヤノはさらにここで働きたいという思いを募らせる。

それは彼女の母、明美あけみも、クリニックの皆も彼女の言動から察していた。


「……それで、どういう契約なんだ?」


 アヤノが来てから2日目の閉院後、マコトが受付の椅子で腕と脚を組んで、看板を仕舞い込んだヒカルを待っていた。


「何の話?」

「アヤノの契約! 給与とか経歴調査とか必要な手続きをまったくしていないだろう」

「ああその話ね」


 ヒカルはわざとらしく手をパンと叩いて、人差し指を1本立てる。

 人の生命を預かるクリニックでの仕事は、その人物が信用に値するか判断するために経歴や思想を調査しなければならないことになっているのだ。


「給与は彼女は断ってたけど、最終日に無理やりでも渡すよ。もちろん、経歴は昨日のうちに全部調べたから調査書取ってくる」


 そう言って彼は居住スペースから、丁寧に書き上げられた1枚の紙を持って来た。

調査書はまずセラピストが独自に調べ上げ、次に本人が書いたものと照らし合わせることによって確定版なるものが作られる。

 それを見たマコトは、“経歴”と書かれたすぐ下を注意深く何度も読んだ。


「これどういうことだ、父親は不明だと?」

「そう、その件なんだけど」


 ヒカルは彼の正面の椅子に息を吐きながら座った。背を椅子にもたれかけると、マコトと同様に腕と脚を組む。

 彼女の母親が精神的苦痛からくる腹痛で来院したとき、“先日父は癌で亡くなった”とそう言っていた。しかし改めて彼女の経歴や家族構成について調査してみると父親は誰の戸籍にも書かれていなかったのだ。アヤノの戸籍にも、母親の戸籍にも。

 その話を静かに聞いていたマコトは、腕の力を頼りにするようにふらついて立ち上がる。


「俺にはどうしてそんな嘘をついたのかわからない。本人に直接聞こう」

「やっぱりそうするしかないかあ」


 ヒカルも立ち上がり、2人は適当に別れの挨拶をしてそれぞれの家へ帰った。


 翌朝も1番に出勤したアヤノと彼らは休憩室で向かい合って座る。この部屋特有の古びた雰囲気がこういう真面目な話にはうってつけだ。

 調査書を机に滑らせ、尋ねた。


「これアヤノちゃんの調査書なんだけど……父親のことについて、話してくれるかな?」


 アヤノは紙に素早く目を通してそれを机に置く。背筋を伸ばし、手を綺麗に重ね、まるで面接のような雰囲気だ。

 彼女とヒカルは見つめ合い、彼女の様子をマコトが窺っている。

 突然勢い良く頭を下げた。2人はそのあまりの勢いに驚いて思わず身体を後ろに引く。


「すみません! あのとき嘘をついていました」

「どうして?」


 他には誰もいないのにヒカルに理由を尋ねられた彼女は周りを確認するように見てから話し始める。

 これはクリニックで働き始めたときから見せている彼女の癖のようだ。マコトは、もしかして癖なのかな、くらいにしか考えていなかったが、この場面でのこの挙動を見てそうだと断定した。


「母はずっと父がいないことを認めたがらないんです。“つい先日旦那を亡くした可哀想な妻”だと、本気で思っている。私が物心ついたときにはもう、そう言っていました。だからあの診療のときも母がいたので本当のことを言えなかったのです」

「父がいない、というのは?」

「たぶん私が生まれる前に出て行ったと思います。本当のことはわからないので私の憶測ですが」


 調査の際、祖父母は彼女が幼いときに亡くなっていることは調査済みだ。

 唯一の家族である母親は妄言を並べ、父親が今どこにいるのか、どのような人なのかを聞くこともできない。それが彼女の今まで生きてきた18年間。

 どれほど辛かっただろう。


「そっか、全部話してくれてありがとう。今日は薬を買ってきて欲しいんだけど、イノウエさんに詳しいことは聞いてね」

「いいえ、混乱させてすみませんでした。失礼します」


 アヤノは立ち上がって深々とお辞儀し、更衣室へ入って行った。

 休憩室には横並びに座っている2人が残される。


「泣きそうになってんじゃねえよ。これやる」


 ヒカルの肩を肘で小突き、ミニボトルを置いて彼もまた立ち上がった。

そのボトルはいつもマコトが使っているもので、開けてみると香ばしいコーヒーが入っていた。


「ありがとう、優しいねえ」


 ふにゃっと柔らかくそう言うヒカルに、「うるせえ」と強い調子で返して部屋を出る。

しかし、彼の横顔は赤かった。

 また強がっちゃって。

 ヒカルはそう言いたかったが、怒られるのも嫌なので何も言わずにアヤノたちに渡すメモを胸ポケットから取り出した。

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