37. 先に逝くことをどうか。
診療していたヒカルの耳を、女性2人のひどく鋭い叫び声が震わせる。
外から聞こえたその声に、患者も含めクリニックにいる誰もが窓に目を向けた。
アヤノたちに買い出しを頼んでから30分。ちょうど彼女らが帰って来ても良い時間だ。
妙な胸騒ぎがする。
診療を中断して外に出ようかと考えていると、ドアが強めにノックされた。
イノウエが青ざめた顔を見せる。
「診療中失礼します。院長、お話したいことがあるのですが良いですか」
患者は急を要する状態ではなかったので待っていてもらい、診療室から出たところで先に呼ばれていたマコトとともにやけに早足の彼女について外へ出る。
隣の花屋の前でうずくまるアヤノが見えた。
アヤノのところまで来るがイノウエは彼女を通り過ぎて花屋へ無遠慮に入っていった。
マコトはイノウエの様子に気を取られて気が付かなかったが、ヒカルはすぐに異臭を感じ取り鼻を塞ぐ。
そしてここの店主である
「アヤノちゃんが花を買いたいというので寄ったときにはもう……」
目の前に広がったその光景を見て、彼らは息を呑む。ヒュッと変な音が喉から鳴った。
——天井から垂れ下がるロープ、そのロープに首を掴まれたまま力なく浮いているハルエ。パーマが強くかかった髪が彼女の穏やかであったはずの顔を隠している。
それを見てからやっとマコトも部屋に異臭が満ちていることに気が付いた。
彼らも俯いてなるべくハルエを見ないように部屋の中を見渡すと、彼女の足元に落ちている真っ白な紙に目が止まる。
それは綺麗に折り畳まれた1枚の手紙であった。
ヒカルはそれを拾い上げるとすぐにこの部屋から出た。彼は視覚的にも嗅覚的にもひどい刺激を受け続けたがゆえに、体の奥底から口まで何かが物凄い勢いで迫ってくる感覚が止まらなかったのだ。
震える手をどうにか操って紙を開くと、“遺書”の2文字が目に飛び込んでくる。
万年筆が折れそうなほど力の入った違和感のある文字列がその先に短く続く。
『花屋も、子育ても、何もかも失敗しました。
その2文だけだった。
しかしこのたった2文を書くのに彼女はどれだけ苦労しただろうか。とても推し量ることはできない。
「……自殺、か」
そう低くつぶやいたマコトの声は少し上ずっていていつもと異なる。
彼はわなわなと震える唇を強く噛み、その目を瞬きを許さぬほど見開いていた。
ヒカルは、彼が特にハルエに可愛がられていたことを思い出す。基本的に無愛想な男なのであまり歳上に気に入られるタイプではないのだが、クリニックと花屋が隣であるという接点から2人は頻繁に交流していくうちにハルエは彼の意外な弱さを知り、マコトは彼女の懐の深さに甘えるようになっていったようだ。
彼の涙を見るのはいつぶりか。
「夏に“食欲がない”、“眠れない”って訴えて来院されたのに、俺はハルエさんがここまで思い詰めていることに気付けなかった。ごめん」
ヒカルは彼女の診療を受けた責任、それに加えてマコトに涙させてしまった責任を感じていた。
しかしマコトはクリニックに向かって足を進めながら、
「俺だって最近花屋さん見かけないのに何も声掛けられなかった。彼女からそれ以上のことを言われなかったのなら、ヒカルの責任じゃないよ」
と優しく声をかける。
彼はイノウエに必要な連絡をするように指示してクリニックへと入って行ってしまった。
ヒカルもこれ以上患者を待たせるわけにもいかないので診療に戻る。背後にはイノウエが手紙を書く準備をしている気配がある。
彼らの脳内にあのようなショックな光景を目の当たりにしてしまった18歳の少女のことはなかった。
クリニックに戻ってから診療中も、ヒカルはマコトに対して憤っていた。
あんなに気に掛けてもらっていたというのに、イノウエに指示を出してそれ以降は関わらないなんて。彼はもっと取り乱し、本当に自殺なのか、背景には何があったのかを知りたがるかと思っていたのだが。
彼のクールなんて言葉を超えた冷酷さに、失望していた。
憤りは自分自身に対しても抱いていた。
なぜあのとき、あまり深く尋ねなくて平気なはずだ、なんて根拠のない決定をしたのだろう。
時が経つにつれて、自分の抱くこの怒りの感情は誰に対し向けられたものなのかわからなくなっていき、混乱していった。
そんな鬱々とした気分のままでも何の問題もなく普段通り閉院時間を迎える。
そういえばあれ以来イノウエもアヤノも姿を見ていない。それに気付かなかった自分がどれほど感情に飲まれていたかを思い知る。
最後の患者をいつもの診療室から見送る。
彼は冬が嫌いだ。なぜなら閉院時間には窓の外が真っ暗になっているから。どうしても気分が落ち込んでしまう。
月が見えない空を30秒眺めてからようやく椅子から立ち上がった。
そのときドアが開けられ、そこに現れた仁王立ちするマコトの真っ直ぐな視線とぶつかる。
「今日家来ないか。1人は耐えられない」
ヒカルはそれにただ微笑みだけを返した。
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