Perfume3.悲痛な決断と伯剌西爾での三日間。
35. そこで見てて。
オオサカから来た彼女がそちらへ戻ってから2ヶ月経ってもう季節は冬。
家に泊めたことを話すとヒカルが散々冷やかしてきたが、それももう収束してきた頃だ。
彼女は毎日のように院長に怒られて大変だといったような手紙をマコトに送って来ていたが、彼は新しい情報を得ない限り返信はしていない。
クリニックは暖かいので油断して薄着で看板を出しに外へ行ったヒカルがぶるぶると震えつつもどうにか作業をしていると、彼の真後ろに人が立った。
彼をふわりとキンモクセイの香りが包む。
「あの」
可愛らしい声。聞き覚えがある。
「
「覚えているよ、今日は診療に来たの?」
夏に腹痛を訴える母と共に来院し、卒業したらクリニックで働きたいと言っていた彼女だ。
彼女はふわふわの茶色がかった髪をツインテールにして、無地の大きいワンピースを着ている。清純で、素朴で、かつ彼女に最も似合う服装だった。
「あの、少しでも早くセラピストのお仕事を学びたくて、あの、お忙しいとは思ったのですが、あの、これしか思い浮かばなくて」
アヤノは上手く自分がここにきた経緯を説明出来ず
真っ直ぐ彼の目を見てから、頭を深く下げる。
「お願いします、この冬の間だけここで働かせてください!」
「いいよー」
思っていたよりも遥かに早く軽い返答に、アヤノはただでさえ丸い目をさらに丸くする。
ヒカルはドアを開けて、招き入れた。
「ほら入って。制服とかは受付で資料を整理してるマコトに聞いてね。今日はただ俺の診療を見てて」
「は、はい!」
暖かい院内に入るとすぐにマコトと目が合う。ヒカルとは対照的な冷たい雰囲気に身体がすくむ。
彼はアヤノとの面識はなく、開院前ですよと言いかけたがその前にヒカルが話し始めた。
「この子、冬の間だけクリニックのお手伝いしてくれるよ。俺の側につかせるから準備して」
「あなたはまたすぐに迎え入れて……」
マコトはため息をつきつつもアヤノに握手を求めて笑った。その笑顔は思ったよりもずっと優しくて自分が彼の言葉とは裏腹に歓迎されているとわかる。
それから彼は「靴はスニーカー、髪も結ってあるからオッケー」と服装をチェックしながら新品のシャツとエプロンを棚から取って渡した。
女性用の更衣室に案内してほしいと指示されたイノウエは、アヤノを見るなり抱き締める。
「はああ可愛い! こんな若い女の子が入って来てくれておばさん嬉しい」
浮かれた表情のまま戸惑う彼女の手を引いて更衣室へ入っていってしまった。
その様子を見ていたマコトたちは、
「イノウエさん、よく『娘も欲しい』みたいなこと言ってたもんな」
「やっぱり俺たち男だけじゃ不満だったかな? じゃあ俺は第一診療室で仕事を始めるよ」
ヒカルは「あはは」と朗らかに笑いながら手をひらひらと振って診療室へ入っていく。
よく来院する老人が何度も頭を下げて退室するのと入れ替わる形で制服のエプロンを着たアヤノが入室した。
シンプルなシャツを着たその姿はOLというより学生服のようで彼女の実年齢よりも幼く見える。
「今日はただそこで見ててね」
言われた通りこの日彼女は何にも触らず、一言も言葉を発さず、部屋の角に背筋を伸ばして立っていただけだった。
彼を見ていて飄々としているヒカルの診療の合間と診療中のギャップの大きさに目を奪われる。
診療するとき嗅覚に集中するからか、しばらく虚ろな目をしてやがて閉じる。
彼の金色の睫毛が自由に動くそのさまを1日中じっと見ていた。
翌日、誰よりも早く出勤したアヤノを一同がめちゃくちゃに褒めた。
ヒカルはすでにクリニックの前につくられた患者の列を見てこの日の忙しさを予見しつつ、彼女に指示を出す。
「今日はマコトの仕事を見てて。第二診療室ね」
そう言って彼はもう患者をクリニックへと入れた。
この日ヒカルを見ていたのと同じようにマコトを見ていて気付いたのは、ヒカルとは診療のやり方が本質的に違うことだった。
ヒカルは集中して香りを嗅ぐことによって最も適切な香りを閃く、いわば“天才型”だ。一方マコトはじっくりと考え込んで今まで文献などから手に入れた知識を探り当てて適した香りを導き出す、いわば“思考型”。
どちらも常人には到底できない芸当だということはセラピストではないアヤノにもわかる。
彼は相変わらずぶっきらぼうな話し方をしていたが、出来るだけ彼女に仕事を見せてやろうとしていることはヒカルだけが理解していた。
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