24. 捕われ続ける。

 ベッドに座るタクミは、頬に薬品を染み込ませたコットンを当てるたび顔をしかめ、「うっ」と、苦しそうに呻く。

 紫色の腕には保冷剤が括り付けられている。

消毒が終わりガーゼをテープで止めると、安心したような顔で強張らせていた体から力を抜いた。

 ヒカルがタクミの横に座ると、やけに冷たいベッドがギシギシと軋む音を立てる。

 彼はピンセットなどをベッド脇の小さな机に置いて整理しながら話し始めた。


「俺は父親の顔を知らない。今は母親の顔や声をはっきりとは思い出せない。俺の母は……生まれたときから俺のことが大嫌いだったんだ」

「どうして? 子供がセラピストだったら当たりって聞いたことあるよ」


 当たりね、どこで聞いたんだそんなことははは……とヒカルは苦笑する。

 実際セラピストが産まれるのは稀なのでそういう点では“当たり”かもしれないが、特にセラピストという職業に“当たり”の要素はない。

特に給料良いわけでもないしなあ、と言いかけたが、あまりに現実的すぎるので他の言葉を発した。


「俺の髪、ニッポン人にしては珍しい色でしょ。この色、父親にそっくりらしいんだ。この顔もそっくりなんだって。母親は父にそっくりなこの見た目が嫌いだった」


 それからヒカルは、母親がほとんど顔を見せなくなったこと、祖父に引き取られたことを話した。

 その間タクミは自分に起きたことと照らし合わせながら心配そうな顔をして見つめていた。


「俺もしばらく母に言われたことやされたことを忘れられなくて、スクールでは明るくしていても、家では母のことばかり考えてた」

「それって今では考えてないってこと?」


 なんだか君は年齢の割に大人びたことを言うね、とヒカルはおじさんくさいことを言う。

 少し悩む時間があってから、母のことをただの思い出として考えていることを話した。

自分が進んでいる“今”とは無関係なただの思い出であると。


「そう考えてからマコトやミカゲ……セラピストの仲間やイノウエさん、そして患者さんたちのために生きようって決めたんだ」


 ヒカルはベッドに寝転がった。


「でも母親の影響って思った以上にすごいんだよね。この間タクミくんのお母さんと話したとき、自分の母親のこと思い出してついカッとなっちゃった」


 ヒカルに続いて寝転がったタクミをじっと見つめてその柔らかい髪に指を通す。タクミはくすぐったそうに顔をくしゃっとさせて笑った。


「あのときはきっと、小さい頃から心の奥底で思っていたことをやっと言語化出来たんだと思う。だからあの後、俺はすっきりした気分だった」


 髪が指からぱらりと落ち、そのままヒカルの指はタクミの耳をなぞる。

 彼が落ち着きたいときに見せる癖だ。

 ヒカルは小さな、絞り出すような声で、ごめんね、と言った。

タクミはそれを聞いて、彼が消えてしまいそうに思い心臓の鼓動が速くなる。


「どうして謝るの」


 その焦るようで今にも泣き出しそうなタクミの様子にヒカルは気付いて、そして今度は自分の耳を指でなぞり始めた。


「俺がすっきりして油断したせいで、君は聞かなくて良い言葉を聞いてしまった。見なくて良いものを見てしまった。これからも君は時々、お母さんの恐ろしい声や姿を思い出すだろう。君を俺みたいにはしたくなかった……」


 タクミの身体がまた強張った。

 “お母さんの恐ろしい声や姿”と聞いて、尚更はっきりそれらが頭に浮かんだのだ。その丸い瞳に、少し影が落ちる。

 ヒカルは彼の背に腕を回し、ぎゅっと抱き締めた。

 彼はヒカルの胸に顔を埋め、目を瞑る。

ヒカルの胸の鼓動は穏やかでとんとんと寝かしつけられているように思えた。


「俺らはきっと母親のあの眼差しにいつまでも捕われ続ける。でもそうやって捕われて手足が不自由なままどうやって前に進むのか? 俺らはそれを試されながら生きていくんだ。君はまだ子供だから、周りの人にたくさん迷惑をかけてもいい。1人である程度歩けるようにまずは訓練をしないとね」


 もちろん、いつでもどこでも、俺に頼って良いんだからな。

 ヒカルはそう言って親指で自分を指す。

 タクミはヒカルの柔らかい服で涙を拭き、ぱっと顔を上げた。

未だ睫毛に雫が残るその丸い目には、先ほどとはだいぶ違った輝きが湛えられていた。


「うん、僕、ヒカル先生みたいに前に進むよ」


 そう言って彼は、ヒカルの腕の中で丸くなって寝てしまった。

そのままヒカルは抱き締めながら、ひどくうなされ始めた彼の背中をゆっくりとさする。

 涙からタクミのレモンの香りがぶわっと立ち上がり、部屋中をその香りが満たす。

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