実家に帰った話

@syusyu-11

彼女


 父が逝ったのを期に、私は十年ぶりに故郷の土を踏んだ。

 夜明けに空港につき、そこからバスを乗り継いで、山と海に挟まれた故郷へ。

 十年ぶりに見たその場所は、まるで時が止まっているかのように見えた。


 呆け始めた母と話したり、法事にて親戚にからかわれたり等は苦痛の時間だったが、こればかりは長らく帰らなかった自分が悪いのだと分かっていた。

 兄らに実家の件を任せ続けてきたのだから、その兄らに小言を言われるのも当然だろう。

 だが、疲れるものは疲れる。

 宴会の始まるだだっ広い実家からこっそり抜け出し、ヤニでも補給しようか、という場面だった。


「久しぶりだね、祐樹」

「……お久しぶりです。岸間ねえさん」


 実家の裏山、緑が生い茂る崖の上、茜に染まり始めた空を背景に、私の旧友が声を掛けてきた。

 年上の彼女を友と呼んでいいのかは分からなかったが、幼いころはよく一緒に遊んだものだ。

 白いワンピース、短い黒髪、日焼けした笑顔、思春期に達した男友達は、みんな彼女を避けて暮らしていた。


「祐樹、タバコを始めたのか?あんなチビだったお前が」

「中々いいもんですよ」

「ふーん、一本くれよ」

「年齢的にダメでしょう」

「ちぇ」


 崖からとん、とんと軽い足取りで跳ねて降りてくる。ワンピースが翻る。

 童女の下着に興味は無いが、なんだか申し訳ない気がして目をそらす。

 彼女は私の隣に立った。


「で、どうだよ。東京は」

「こっちより暑いです」

「こんな南国よりもか?」

「えぇ、鹿児島よりもずっと」

「はぇー」


 びっくらこいた、とでも言いたげな顔だった。

 彼女はいつも自分が年上だと威張っていたが、こと知識だとか教養に関しては、いつも私たちより疎かった。

 すれば、彼女はいいことが思いついた!とでも言いたげな顔になって、私の手を引く。


「じゃあ涼んでいこうぜ祐樹。ちょうど、今から涼しい時間だ」

「図書館はもう閉まっていますよ?」

「クーラーより身体にいいさ。風に当たりに行こう」


 とてて、と彼女が走り出す。

 振り払おうと思えば振り払えるほど、引く腕は細くて、力も弱いのだけど。

 私は嬉しいような悲しいような溜息を吐いて、それについていく事にしたのだった。


 この時間の空は好きだった。実家から港への下り坂、よく空が見える。

 紫色と、金色と、茜と、青色が混ざったような空の色。

 日が沈んでいく空の色。

 微かに星が瞬きだす空の色。

 肺がすくような、胸が冷えるように涼しくなっていく空気も、好きだった。


 坂を下る。空を見上げる。

 坂の横に並ぶ家々は気にしないことにした。

 子供のころ老人が住んでいた家は、知人が住んでいた家は、その多くが廃墟となっていた。

 それが見ていて悲しい、というわけでは無いのだけど、ただ単にコケとシダ植物、雑草に埋もれるそこには虫やら蛇やらが多くて、それを見たくないというのが主だった。

 顔の横を蚊が飛ぶ。少しびくりとする。

 手を引く彼女に少し笑われたように思う。

 いい年したおっさんになって、照れるなんて久しぶりのことだった。


「虫嫌いは変わんねぇのな」

「いやぁ、お恥ずかしい」

「やーいビビりー」

「煽ってくるなぁ」


 彼女は私の不満の声に、笑い声で返した。

 つられて笑いそうになったが、こんな夜も近い時間に、父親の通夜に、いい年したおっさんが、声をあげて笑うなんてできなかった。

 歯を食いしばった。


「……大人になっちまったなぁ」

「…年が年ですからねぇ」

「そういうもんかね」

「そういうもんですよ」


 走る足がゆっくりになる。立ち止まる。

 私も足を止めた。膝が痛かった。


「ここにあったさ」


 気づけば、私たちは坂を抜けて、母校の近くまで来ていた。

 小学校。その通学路。

 ぽつりぽつりと立つ街灯がともり始めていた。


「駄菓子屋あったじゃん」

「……ありましたね」


 覚えている。ここで仮面ライダーのベルトを買ってもらったことがある。

 縁日で売っているようなパチモンだったけど、はじめて父におもちゃを買ってもらった思い出だ。

 おじいさんが一人で経営していた。

 家とお店が一体になっていた。

 今は、シャッターを閉じて、空き家を示す広告の紙が貼ってあるだけ。


「学校もあったじゃん」

「閉校したという話ですな」


 十二年も前のことだ。

 同窓会にも出た。最後の運動会も見物しに行った。


「全部なくなっちゃったな」

「まぁ、仕方のないことですよ」

「そういうもんか」

「そういうもんです」

「そういうもんか…」


 今更気にする話でもない。

 十二年前にも、彼女と同じ話をした。

 もうこの町に子供は居ないんだぜ、と。彼女が少し悲しい笑い話にしてくれた。


「あ、そうだ。鳥羽の野郎が廃校跡にレストラン作ったんだってよ」

「へぇ」

「明日行って来いよ。暇だろ?」

「まぁ、暇ですが…」

「じゃあ行け。絶対な」

「はいはい」


 あいつとも暫く会っていなかった。

 いや、あいつだけでなく、殆どの友達と暫くの間会っていない。

 だから会いに行け、ということだろう。

 彼女は世話焼きだった。昔から。


 彼女は溜息を吐いた。

 紫と青の空に溶けていくような気がした。

 私は背伸びをした。彼女もそれにならった。


「じゃあ行こうか」

「まだ歩くんですか?」

「おうよ。この辺はまだ蒸し暑いからな」

「走った所為だと思うんですが」

「知らんな…海まで行きゃぁ、ちっとは涼しいだろ」

「夜の海ですか」

「夜の海だよ」


 彼女はいたずらっぽく微笑んだ。

 また、とててと走り出した。

 年老いた膝の骨に悪かった。


 空はもう夜といって差し支えなかった。

 深い宝石のような紫色、青色、ラメのようにも見える星明りが無数。

 探せば星座もあるだろう。

 夏の星座なんて、もう忘れてしまったけど。


 海は近かった。

 子供のころは冒険だった。今はウォーキングにも足りない距離。

 堤防に、小学校の卒業生が描くメモリアルだとか、アートだとか、そういったものが掠れて残っていた。

 苔めいた黒ずみ。

 波風で掠れて、砂のような石ころのようなテトラポッド。

 海は空と同じ色をしてた。

 月の光を反射して、黒に近い青で、宝石みたいだった。


「とうちゃーく」


 彼女は私の手から離れ、堤防の上にとん、とんと軽い脚運びで登り、くるりと回る。

 夜の海の風に、ワンピースが揺れていた。

 なんだか、胸が苦しくなった。

 彼女は微笑んでいた。


「なぁ祐樹。どうだ?涼しいか?」

「風が生ぬるいです」

「嘘でも涼しいって言え」

「あぁ、もう涼しいなぁ」

「よし」


 沈黙。

 彼女は堤防の上に座り込んだ。

 私は堤防にもたれかかって、海を背にタバコに火をつけた。

 紫煙の向こう、山の上から海の上にかけての空。グラデーションがきれいだった。

 いつまでも見ていられるような気がした。

 タバコを一本吸い終えたころ、彼女が口を開く。


「鳥羽にもよろしくな」

「はい」

「後崎にも」

「はい」

「あと、川端と、前園と、木根と、古村と、小さいほうの川端と…」


 彼女はぽつりぽつりと、友らの名前を挙げていった。

 もう、顔も思い出せない友もいた。

 もう、名前すら忘れた友もいた。

 オーストラリアで観光業をしている友も居たし。

 東京に出てから姿を消した友も居た。


 ようやく言い終えて、彼女は言う。


「じゃあ、俺、もう行くから」

「……行ってらっしゃいませ」

「前みたいに、連れて行ってくれ、とか言わないのな」

「私ももう慣れましたから」


 溜息。

 私のものか、彼女のものか。


「大人になったなぁ」

「なっちゃいましたねぇ」

「なっちゃったかぁ」


 少し笑った。

 彼女もそうだったし、私も、思わず笑ってしまった。

 咥えたタバコを落とさない程度に。

 小さく、細く、ずっと笑い続けていたような気もする。

 笑い声は少しずつ小さくなっていって、途切れて。


 私がもう一度海や月を見るために振り返れば、彼女はもう居なかった。

 まるで夏の夜空に溶けたみたいに、自然と姿を消していた。



 次の日、廃校跡に行ったが、お盆だったので開いていなかった。

 でも鳥羽とは会えた。

 会えたので、墓参りに行った。

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