第三話 事態急変

前回


久住くずみ双葉ふたば:小さい系カップリング女子。

根尾ねお弓矢きゅうや:政治家志望。訳知り顔の男。


世界情勢:なんか変なのが現れたせいで経済がヤバい。

ストーリー:五年後に飛んだ。 

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 二〇二一年二月一一日、沈黙を貫いていた神聖しんせい大日本だいにっぽん皇國こうこくは半年振りに大空から声明を発表。環境分析の完了を宣言し広報窓口の開設を表明。


 四月二八日、皇國こうこくは大規模な軍事パレードを実施。戦艦大の飛翔体や十五〜三十メートル級の巨大ロボットが洋上を飛び回り、長距離誘導弾や色取り取りの光線が乱舞する光景が世界中に報道される。後の分析により誘導弾の着弾点が判明すると、その長い射程と極めて高い命中精度に国際社会は戦慄せんりつする。


 五月三日、国際連合は安全保障理事会決議二六八一により皇國こうこくに対し情報開示と武装解除を要求。


 五月四日、国連安保理決議に対し皇國は『救洲きゅうしゅう』北西部『永崎ながさき州』で入国審査を行うと発表。武装解除についてはこれを黙殺。


 六月四日、アメリカ合衆国、皇國こうこくに対し国連査察の受け入れと武装解除を要求。


 六月六日、皇國こうこく、留学生の受け入れを発表。武装解除については引き続き黙殺。


 七月四日、米国、皇國こうこくに対し先制攻撃として空爆を実行。「太平洋上の自由作戦」が開始される。なお後に空爆は皇國こうこくに一切の損害を与えていなかったことが判明している。


 七月五日、皇國こうこく、米国民に対する入国拒否を発表。


 七月十日、米国、皇國こうこくに対し二度目の空爆。皇國こうこくに損害無し。


 七月二四日、米国、皇國こうこくに対し秘密裏に核攻撃を行う。皇國こうこく、首都『統京とうきょう都特別区』並びに他八都市にて震度弐の空間震を観測したと発表。


 七月二五日、皇國こうこく、米国政府に対し公開質問状を発表。


 八月一日、皇國こうこく、米国に対し公開質問の回答を要求する最後通告。


 八月六日、皇國こうこく、米国に対し宣戦布告。


 八月七日、第二次真珠湾攻撃(皇國こうこく側呼称:布哇ハワイ海戦)にて米軍大敗。


 八月九日、皇國こうこく軍(皇國こうこく側呼称:新皇軍しんこうぐん)、米西海岸より本土上陸。侵攻を開始。


 八月一五日、皇國こうこく、ワシントン・DCコロンビア特別区を占領。全都市の占領と戦争の終結を宣言。米国大統領、副大統領、他閣僚を拘束。


 八月一七日、皇國、米国占領政策及び戦争責任者の最終処分を発表。


 八月二四日、皇國、米国大統領最後の演説を監視付きで許可。日程を降臨節こうりんせつ、九月八日と発表。


 九月二日、大統領演説に対し能條のうじょう緋月ひづき首相の臨席を表明。


 九月八日、大統領演説。




⦿⦿⦿




「本当に良いのだな?」


 能條のうじょうは力なく拘束された大統領に対し問いかける。


皇國こうこく貴殿きでんに対し、国民に伝えるべき言葉を余す事無く認められるよう時間を設けた。覇権国家の誇りをして皇國こうこくに挑んできた貴国きこくにこれ以上の非礼を重ねることが無いようにだ。それを、演説文を一切用意していないとは、この場の言葉だけで国民に語り掛けるという事か。」


 能條のうじょうの言葉は通訳と思われる男性によって大統領へと伝えられる。


気遣きづかい無用。今更格好をつけても仕方がない。ゆえに長く話すつもりもない。」


「あいわかった。」


 能條のうじょうは大統領の回答に対し即座に頷き、その場を離れて合図を送った。


「親愛なる合衆国市民の皆さん、まずは祖国の歴史にこのような恥辱を刻んでしまったことを大変深くお詫び申し上げます。しかし私は信じている。今でも、自由と民主主義の精神は皆さんの中で強く生き続けていると。私は疑ったことなど一度もない。アメリカの夢は、決して死なないと。だから私の最後のお願いを聞いて下さい。皆さんが飽きるほど聞いた私の言葉を……。」


 ぐすり、と鼻をすする音が聞こえた。


 大統領は目の前の女の様子に驚愕を隠せなかった。

 能條のうじょうは手巾を目頭に当て、涙を拭いていたのだ。


「失礼、続けられよ。」


 涙声に戦慄せんりつを覚え言葉が出ない。

 さらに周囲を見渡すと、立ち会った皇國こうこく側の人間はみな多かれ少なかれ涙目であったり落涙したりしていた。


 彼女らは何を思って泣いているのか、考えれば考えるほど背筋が凍る。

 一年前、この世界に突然現れた謎の勢力は、ひょっとすると想像以上にとんでもない存在なのではないか。


「どうした? みなまで言う必要は無いという事か?」


 能條のうじょうは腰の刀に手を掛けた。


 恐ろしい想像は止まらない。

 ひょっとしてこのセレモニーは、見せしめではなく本当に誠意のつもりで行っているのか。


 思い起こせばこの国の態度は最初からおかしかった。

 これまで繰り広げられた時代遅れの帝国主義的示威じい行為は、もしかすると彼らにとっては単なる挨拶あいさつなのか。

 侵攻は相手の意を買った武士道のつもりなのか。


 彼のよく知る日本とはまるで違う国家、……。


「いや、言う!」


 大統領は腹をくくった。

 くくらないわけにはいかなかった。

 確かめなければならない。

 そして戦う意思がくじけてはならない。


 祖国のを誓う彼のスローガンはこれまでで一番大きく、力強い声で米国全土に響き渡った。

 一瞬の沈黙のあと、能條のうじょうは大粒の涙をこぼしながら手を叩き始めた。


「素晴らしい! 何と素晴らしい! 一年前の今日より半年をかけて我々はこの世界のありようを調べに調べた。当然、貴国の歴史、貴殿きでんの経歴もだ。そして今確信を持った。貴殿きでんは国家指導者の鑑である。敵ながら誠に天晴! 大変に良きものを見せて頂いた。感動した!」

 

 この女は本気でこんなことを言っているのだろうか。

 この場に参列した者は、みな正気とは思えない。

 泣き上戸の酔っぱらいのような能條のうじょうの様子に大統領は心底辟易していた。


「それは光栄なことだ……ご褒美に何をくれる?」


「無論、相応ふさわしい名誉である。恒久的に保障しよう。」


 能條のうじょうは抜刀した。

 大統領は大きなため息を吐いた。


「どうせ嫌われ者だ。そんなものより一日も早く合衆国を市民に返してくれ……。」


 その言葉に、能條のうじょうはまた大袈裟に震えながら泣き始めた。

 手に持った刀を落としさえした。


貴殿きでんは……、貴殿きでん何処どこまで……。」


「随分泣き虫なんだな……。あんたの方こそそんなことで国家指導者が務まるのか? お嬢さん。」


 ほとほとあきれ果て、心底うんざりした大統領はもう一刻も早くこの茶番を終わらせることを願い、挑発めいたことを言ってみた。

 能條のうじょうは刀を拾い上げる。


「不覚であった。わたし臣民への愚弄ぐろうは聞かなかったことにしよう。」


 拾われた刀が振り上げられ、大統領は流石に硬く目を閉じて歯を食いしばった。




⦿⦿⦿




 ここでテレビの映像が跡切とぎれた。


 四年前にはこの後で大統領が能條のうじょうに斬り殺されるところまで映し出されていたが、ショッキングな映像なので現在報道されるものはここでカットされている。


「何度見ても空恐そらおそろしい映像ね……。」


 コーヒーカップを片手にニュース映像を見ていたすめらぎ奏手かなで国家公安委員長が呟いた。

 上質なチェアにふんぞり返り、脚を組んで座る姿勢は五十路いそじを過ぎた女性とは思えないほど無駄に色気が湧き立っている。


 麗真うるま魅琴みことの母親である彼女は娘のような強靭な筋肉の持ち主ではない。

 しかし背丈は高い部類に入り、その肢体が放つ色香はやたらと自己主張が激しい。

 男としては目のやり場に困ってしまう。

 そしてその血を魅琴みことに受け継ぐだけあって切れ長釣り目の美女であるため、非常に人気が高い。

 彼女の冷たい目付きと美しい体付きを堪能しながら踏まれたいという声もよくSNSに上がっている。


 息子がいたらひょっとすると性癖がゆがんでいたかもしれない。


「結局この後米国占領は一年も経たずに終わりましたね。まあその後の政権は皇國こうこくとべったりになって結局属国化したようなものですが。」


 机の脇に立つのは根尾ねお弓矢きゅうや、彼女の秘書である。

 すめらぎは彼の言葉を受けて皇國こうこくの思惑を推し量る。


「彼らとしてはあの広大な領土に進駐し続けるより、都合の良い政府に立ってもらって国際社会との窓口になってもらった方が国益に叶うという判断だったのよ。それと、『先制攻撃してきた戦争相手も責任者さえ処分すれば自主独立を尊重しつつ友好関係を結びますよ。』とアピールしたい意図もあったのでしょうね。」

「正直、不謹慎な話ですがあまりにスピード決着したものだから恐れおののくより笑ってしまいましたよ。あの超大国があそこまで見事にワンサイドゲームで完敗したのは痛快ですらありましたね。」


 苦笑する根尾ねおに対し、すめらぎの鋭い視線が横目に捉える。


根尾ねお、本当に不謹慎だから他の場ではおよしなさい。米兵だけでなく、あの戦争で世界中の経済がそれこそガタガタになって恐ろしい数の人間が死んでいるのよ。我が国だって例外じゃない。」


 雇用主であり政治の師でもあるすめらぎいさめられた根尾ねおだったが、寧ろ笑い声が少し大きくなった。


「先生、貴女あなたも嘘吐きだ。貴女あなたにとってこの状況が面白くないわけがないじゃないですか。」


 根尾ねおの言葉にすめらぎの口角がわずかに上がる。


「そうでもないわよ。同盟国にして覇権国家、そして重要貿易相手国の失墜はわたくしの夢にとっては大きな後退になったのは間違いないもの。まあ確かに、それを埋めて余りあるショートカットの道筋も見えて来たけど……。」


「あの、先生?」


 根尾ねおの隣でひょっこりと頭を出した小柄な女性はもう一人の秘書、伴堂ばんどう明美あけみだ。


度々たびたびおっしゃってますその、先生の夢って何なんですか?」

「あら、そういえば貴女あなたには言ってなかったかしら?」


 すめらぎはコーヒーに口をつける。

 根尾ねおはまだにやにやと笑っている。


「世界最強よ。」


 すめらぎの言葉に伴堂ばんどうは目をぱちくりさせていた。


「せ、先生、何ですかその冗談……。」

わたくしは大真面目よ。わたくしはこの世界で最強の存在になりたいの。それがわたくしの長年の夢。」


 正確に言えば、世界で最も大きな権力を握る全人類の第一人者となるのが彼女の夢である。

 自らがそれに値する人物であると一片いっぺんの弱みも無く、一点の曇りも無く、あまねく認識される完璧な存在になるために彼女は日々邁進まいしんしてきた。

 そのためにありとあらゆるものを利用するつもりでいる。

 それがすめらぎ奏手かなでという女である。


皇國こうこくの存在を知った時、わたくしはそれまで何気なにげなくいだいていた夢を形にすることに決めた。そして実際に現れたそれは想像以上だったわ。見事に目の上のこぶを取り除いてくれた。ま、問題はこの後だけどね…。」

「それをどうにかするのが貴女あなたの腕の見せ所、ですね。」


 根尾ねおすめらぎの政治手腕に関しては信用していた。

 彼女は間違いなく日本国初の女性首相に上り詰めると確信していた。

 だからこそその彼女から学び自分が政界に出た時の糧にしようとしているのだ。

 すめらぎとしてはそんな根尾ねおが優秀なので利用するだけ利用している。


「それにしてももう一つの問題はあのよ。わたくしが世界最強となった後、その座をあのに継いでもらいたいと思っているのに。今でも『もう一つの血』に縛られている……。」

「それに彼女は貴女あなたに充分尽力できる筈ですし、その『もう一つの血』の目的を果たすにもそれがスマートだと自分じぶんも以前言ったんですがね……。」


 二人の言葉はすめらぎの娘、麗真うるま魅琴みことに対する親心でも親切心でもない。

 ただ彼女を自分の為に利用しようと思っているだけだ。


 すめらぎの方は娘の魅琴みことを自分の遺伝子の優秀性を示すアイコンとしか思っていないし、根尾ねおの方は自分の政界での立場を確固たるものにする道具だとしか思っていない。

 そう言う所を見透かされているので、二人とも魅琴みことから距離を取られているのだ。


「精々強がっているといいわ、魅琴みこと。どうせわたくしから逃げられはしない。政治家を甘く見ないことね……。」


 子は親の心を見透かしている。

 対して親は子の心を知ろうともしていない。




⦿⦿⦿




 月日は流れ、岬守さきもりわたる麗真うるま魅琴みことは大学生となっていた。

 高校時代のもう一人の友人、久住くずみ双葉ふたばとは離れ離れになった。

 何やら夢を追いかけると意気込んでいた。


 わたる魅琴みことの二人は同じ大学に通っていたが、魅琴みことは現役で合格し、わたるは一年浪人したため、今二人の学年は一つ違いになっていた。


 魅琴みことは今年で卒業する。


 六月初旬のある夜、わたるは大学の同期と店で飲んでいた。


麗真うるまのやつ就職決まったって?」


 飲み相手の虎駕こが憲進けんしんわたるとは中学時代の同窓生でもある。

 魅琴みこととはあまり接点が無かったが、わたる魅琴みことの関係は色々と察していた。


「あいつよくこの情勢でこの時期に決めたな……。面接とか全く得意な印象無いんだが。中学の頃はほとんどボッチだったじゃん。」

「ま、色々あったからね……。」


 そもそも魅琴みことは人とあまり関わらないだけでコミュニケーション能力は決して低くなかった。

 そして高校時代に久住くずみ双葉ふたばと友好関係となったことをきっかけとして、次第に人と持つ交流も増えて行った。


 わたるとしても複雑な想いをいだいていた。


「内定先は教えてくれないんだよね……。」

「おまえ、まさか就職まで尻追いかける気か……。」


 虎駕こがは呆れ果てた様子だ。


 わたるは現役で到底合格できない大学に浪人して一年間必死で勉強して合格していた。

 高校も中学時代の成績からはやや上狙いであった。


 そんな彼の姿勢は、傍から見るとそういう風にしか見えなかった。


「もういい加減そんな意気地無しムーブばっかやってないで告って確保しちまえよ。おまえならいけるだろ。」

「いやぁ~……。」


 わたるには自信が無かった。

 その自信の無さは歳月と共に躊躇いを増し、手が付けられないほどある感情の拗らせが重なっていた。


「そんなに自信が無いなら例えばすめらぎ先生の門を叩いて立派な政治家になって迎えに行くってのも手だぞ。」

「いや、それは無い。」


 即答。

 それは本当に脈が無いことをわたるはよく知っていたし、自身にとっても彼女の下についている男を先輩と仰ぐのは考えただけで本当に鳥肌が立つ。


すめらぎ先生は立派な愛国者だぞ。 どこぞの今までの自分たちを棚に上げて安全保障は大丈夫なのかとほざいてるやつらなんかよりずっと日本に必要な人だ。」


 虎駕こがの言葉に若干の熱が籠る。

 わたるはそんな彼の様子に少し引いてしまった。


「前から思ってたけど、きみそういうキャラだっけ?」

「この大学生活中に色々知って目が覚めたんだよ。祖国の真の歴史と危機を知ってな。」

 

 またその話か。――航は眩暈めまいがする思いだった。

 この虎駕こが憲進けんしんという男はもう何度も航にそういう話をしてきていた。

 先日も、「古くはソ連、今は中国やロシア、北朝鮮の脅威に目を背けて憲法改正や防衛力強化に反対してきた奴らが、目の前に大日本帝国が表れて初めて危機意識を持った。」などと皮肉を言っていた。

 まあこの意見はわたるもなんとなくわかるような気がした。


 ただ、「こいつここ最近ヤバい方向に行ってないか?」とわたるは学友の行く末が心配になる。

 そういえば虎駕こがは元々弁護士を目指していて、法学を学んでいたようだったが、最近弁護士になるのはやめたと言っていた。


 この男、思想に嵌って人生を脱線し始めていないか。

 友人として止めようとそれとなく注意はしているのだが、どこまで効果があるのかわからない。



⦿⦿



 その後、話が脱線しそうだったのでどうにか身内話に軌道修正したいわたると、今後の日本について大いに語りたい虎駕こがの方向性がかみ合わず、ぐだぐだのまま終電の時間となりその日はお開きとなった。


 寮に戻り、わたるは酔いも冷めやらぬ中、魅琴みことからのSMSを見つめていた。


 魅琴みことは今大阪にいるらしい。

 あらためて内定先を聞いてみたが、魅琴みことからは三社ほど名前が返ってきた。

 どこに就職するかはまだ決めておらず、決めても教えるつもりはないらしい。

 その際魅琴みこと虎駕こがと同じことを言っていた。


 もう潮時なのか?これ以上は言い逃れ出来ないレベルでストーカーになってしまうか。ここで引くべきなのか。――わたるはこれまでの魅琴みことと過ごした日々を思い返しながら考える。


 考えれば考える程溢れてくる思い出。


⦿


 魅琴みことを追いかけるようにして入ったゼミの歓送迎会。


 合格発表の帰り道、浪人を経ての合格を何だかんだで祝ってくれたこと。


 現役時の受験では久住くずみ双葉ふたばと一緒に慰めてくれたこと。


 魅琴みこと双葉ふたばが二人で楽しそうに昼食をとっていた昼休み。


 三人で下校した銀杏並木いちょうなみき


 中学の頃、虎駕こがの探し物を手伝っていると魅琴みことも一緒になって探してくれたこともあった。

 ちなみにこれが魅琴みこと虎駕こがの唯一の直接的な接点であった。


 そして小学生の頃は、魅琴みことわたるにとって唯一の友達だった。

 とんでもない出会いだったが、今ではその出会いは彼にとって……。


⦿


 あ、ヤバいまたこれ思い出しちゃった。――わたるは思い出巡りをやめようとした。

 しかし、意識すればするほど思い出と妄想はどんどん膨らんでくる。


 近頃の魅琴みことは大人になってその端麗な顔立ちと悩ましげな肉体からほとんどの男が気後れするほど強烈な魅力を惜しみなく放っている。

 妄想の中にのみ存在する、一糸纏いっしまとわぬ体の見事な流線がわたるの心を打ち付ける。

 そんなものが記憶の中に焼き付いているある意味で体を重ねた光景と重なってしまったら、もう辛抱止められるはずがないではないか。


 そわそわして貧乏ゆすりしながらも、次第にいてもたってもいられなくなる。

 腹の底から致しがたい激しい衝動が決して抗えない勢いで湧き立ってくる。

 わたるは奇声を上げながら頭をかくと、ティッシュの箱と共に布団の中へと転がり込み、ズボンのファスナーを下して脱ぎ捨てた。


 実のところ二人の出会いはわたるにしっかりトラウマを植え付けていた。

 二次性徴が始まるころから片鱗はあったのだが、今やすっかり彼の性癖はゆがんでしまっていたのだ。


 そしてこれこそが、わたるが今一つ自分に自信を持てず魅琴みことにアプローチできない最大の理由である。


 この寮は壁が薄く、結構隣に声が漏れたりするのだが、隣の部屋から美青年の艶っぽい嬌声を聞かされる隣人は様々な意味でたまったものではないだろう。


 自らの劣等感を克服するため、わたるは日々体を鍛え続けている。

 おそらく成人してピークを迎える彼のなめした縄のような肉のたぎりからは彼がどのような妄想に耽溺しているかは及びもつくまい。

 隣人は隣に住む中性的で端正な顔立ちと瑞々みずみずしい雄の肉体を持つ青年の声にいかなる姿を想っているだろうか。


 気の毒なことだ。



⦿⦿



 酷い気分の落ち込みを伴う倦怠感けんたいかんに包まれていたわたるはそのまま眠ってしまっていた。

 目は覚めたが夜はまだ明けきっていない。


 シャワーを浴びた後、日が昇らない内に潮風に当たりたくなった。

 とにかく考えを落ち着かせたかった。


 ふらふらと寮の駐輪場へと足を運び、自身のオートバイにキーを差し込んだところで前夜飲酒していたことを思い出し、電話を取り出した。


 呼べるかな……。――タクシー会社に電話をしたのは初めてだった。


 運転手は最初、宅飲みで帰れなくなったのかと思っていたようだが、どうでもいい事情にもかかわらず快く乗せてくれた。

 どうやら青春を感じたようで、若さを羨ましがって笑っていた。



⦿⦿



「ありがとうございます。帰りは始発に乗りますので。」


 わたるはタクシーに礼を言うと、海浜かいひん公園内へと入って行った。


 自由の女神像のレプリカがいやに悲しそうに佇んでいた。

 潮の香りが侘しさを際立たせる。


 ふと左方に目をやると男女が接吻を交わしている。


 こんな時間にもカップルがいるのかと驚いたが、何やら二人に近づく複数の人影。

 不審に思うよりも先にわたるは走り出していた。

 人影は巨大な袋状のものをいきなりカップルに被せる。


 もしわたるの走り出しが遅れていたらこの二人はどうなっていただろうか。

 わたるは男の一人に不意打ちを食らわして海に落とし、もう一人の男と揉み合いになった。

 幸いカップルに被せられた袋は覆い被せられたところでわたるの妨害が入ったので、二人は簡単に抜け出すことができたようだ。


「逃げろ!」


 揉み合いながらわたるは叫んだ。

 その隙に男の拳がわたるの顔面に入る。

 いつも想定している妄想上のモノと比べ、全く屁でもないパンチだと思った。


 すかさず殴り返すわたる

 鍛え抜かれた体がイメージしたパンチの動きはかつて自分を完膚無きまでに打ちのめしたものだ。

 もっとも、威力はイメージ通りとは程遠ほどとおかった。

 しかし、十分だ。


 相手が怯んだのでその隙に自身も逃げようとした時、わたるは背後から現れた三人目の男に鳩尾みぞおちを殴られ、そのまま倒れ込んでしまった。


 そして何かの布で鼻と口を塞がれ、意識を失った。


「予定変更だ。とりあえずこいつ一人だけ持っていくぞ。」


 最後の男は先程までわたると格闘していた仲間に指示を出した。

 紛れもなく日本語であった。

 海から先程わたるに落とされた男が息を切らしながら這い上がってきた。


「この男、使えそうだ。二人攫うより戦力を稼げたかもな……。」


 空がしらみ始めるより先に、その場から怪しげな人影は立ち去って消えていた。




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虎駕こが 憲進けんしん

西暦2003年(皇紀2663年) 5月3日生

身長 175㎝

体重 68㎏

血液型 A


能條のうじょう 緋月ひづき

皇紀2624年(西暦1964年) 7月30日生

身長 169センチ

三位寸法 胸90 胴62 腰87

血液型 O


次回より本編第一章「脱出篇」開始。

更新は、9月8日㈫

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