第10話 再婚話破談事件
小学校の卒業式を間近に控えた三月。
わたしが小学校を卒業するタイミングで、父とちなつさん(仮名)は結婚するつもりでいたようだ。以前から父の気持ちを聞いていたし、優しいちなつさんのことも好きだったから、わたしにとってなんの抵抗もなかった。ちなつさんが、わたしのお母さんになってくれるんだ……と、寧ろ、喜びのほうが大きかった。
それまでのちなつさんは、まだ小さかったわたしと、よく一緒にお風呂に入ってくれた。そこで、わたしは、『女性の体』のことを教わった。
まだ早いけどね……って言いながらも、初潮や生理のこと、大きくなったら必要だからと、体のつくりや、それが変化していくことを教えてくれたのは、わたしが喋ることができなかった頃だった。
「ひな(仮名)のお父さんも医学的には知ってる。たぶん、普通の男の人よりはずっと詳しいよ。わたしが丈夫なほうじゃなかったからね。でも、女の人の体って、それだけじゃないんだよ。ひなが、それが原因で辛くなった時、本当の辛さは理解できないと思うんだ。男の人には無いことだから……。だから、お父さんに、正しくひなの辛いを伝えられるように、ひなが勉強しておかないとね」
この頃のわたしは、声で伝えられなかったこともあって、すべてを聞き逃さないようにしないといけないって思っていた。小学校の三年か四年生の頃だった。
頷くことで、理解したことを伝える。
その後、父からも同じようなことを聞かされた。
ちなつさんがお兄ちゃんたちを連れて、わたしの
この頃は、ちなつさんの子どもであるお兄ちゃんたちも、わたしを妹のようにかわいがってくれていたのだと思う。
そんなある日の深夜。たまたま目が覚めてしまった。トイレに行って、水分を補給して、部屋に戻ろうとした時だった。父の部屋から、ちなつさんの声が聞こえてきた。
恐る恐る、部屋のドアを開けた。いや、開けてしまった。
そこでは、父とちなつさんが裸で抱き合っていた。今では、この意味も解るが、この当時のわたしには、ふたりがなにをしていたのか理解できるはずもなかった。
後日、ちなつさんが教えてくれた。
ちなつさんは、父と初めて結ばれた時に、体の相性の良さを感じたんだそうだ。抱きしめられて安心して、キスされて興奮して、触れられて挿れてもらって感じたんだそうだ。好きな人に抱かれることは幸せなことなんだと思うって言っていた。
父とちなつさんとの行為を初めて見てしまった時、わたしは、裸のちなつさんがとても綺麗だと思った。
この時、ふたりの行為に嫌悪感を抱かなかったのは、今にして思えば不思議である。
それから暫くして、父とちなつさんが、お揃いの指輪をしているのを見かけた。一緒に買いに行っていたらしい。いつの
それに、普段、五人で出かける時、ちなつさんは、いつも父と腕を組んで歩いていた。父は空いてるほうの手で、わたしの手を繋ぎ、ちなつさんは下のお兄ちゃんと手を繋ぐことが多かった。上のお兄ちゃんにも時々声をかけていたけど、さすがに中学生にもなると、思春期で反抗期なのかもしれない。少し離れてついてくることが多くなった。
多少の距離感はあっても、仲は良かった……はずだった。
ふたりの結婚は、もう、秒読みだと思っていた……。
そして、わたしが小学校を卒業する年の春休み直前の連休。わたしたちは五人で、一泊の旅行に出かけた。初日のテーマパークでは、それぞれに遊び倒し、夜は一緒にご飯を食べ、そして、部屋は、それぞれの家族で別々になった。
この夜、父とちなつさんが、それぞれの子どもたちに、自分たちの結婚のことを話すつもりだったらしい。
上のお兄ちゃんが高校一年、下のお兄ちゃんが中学一年の時だった。
父が結婚したら、わたしたちはちなつさんの家に引っ越しをすること。それは、もとより、わたしと父のふたりで住んでいた家よりも、ちなつさんの家のほうが多少なりとも広かったから。その後、新築することも考えていたようだ。
父が結婚して、引っ越しと同時に、わたしは中学校を転校すること。
そして、わたしは、名字が変わること……。
ちなつさんの子どもたちに極力影響が出ないように、父が考えた結果らしい。住むところも学校も名前もなにも変わらない、ふたりのお兄ちゃんたちを羨ましく感じながらも、父が大好きという女性と一緒になれるのなら、それでもいいかなとも思っていた。なにより、わたしも大好きだったちなつさんが、わたしのお母さんになってくれる……。
それだけがとても嬉しかった……のに。
次の日の朝、朝ご飯の席に出てきた上のお兄ちゃんは盛大な不満顔をしていた。下のお兄ちゃんも仏頂面だった。そして、ちなつさんが最後に現れる。華奢な体が更に小さくなったように見えた。伏し目がちながらも、その目が赤かったのが、わたしにも解った。
わたしは、お兄ちゃんたちが、父とちなつさんの結婚に反対したんだと感じた。
上のお兄ちゃんは、本当のお父さんと会えなくなるのがイヤだと言った。下のお兄ちゃんも、その言葉に頷いていた。
わたしの父はそれまで、そのことをいっさい規制してはいなかった。いつでも会いに行けばいいと言っていた筈だ。
お兄ちゃんたちのお父さんは、ふたりが会いに行くといつも、いろいろなモノを買い与え、贅沢な夕飯を外で食べさせた後で帰宅させていた。
でも、ちなつさんは、そのことを、子どもたちが買収されていくみたいだと言って嫌がっていた。
それに、ちなつさんが離婚を決めた原因が、お兄ちゃんたちの本当のお父さんの浮気だった。そのため、いくら縒りを戻したいと向こうに思われていても、ちなつさんは頷かないって言っていた。
そして、ふたりのお父さんも、四六時中一緒に子どもふたりと生活をすることには抵抗があったらしく、ふたりともに引き取る……とは、一度も言われたことがないと、ちなつさんが苦笑を浮かべながら話してくれたことが、わたしの脳裏を掠めていった。
勝手だなって思った。
お兄ちゃんたちの反抗に、ちなつさんも我慢の限界だったようだ。
「そんなに、お父さんのほうがいいんなら、お父さんのところに行けばいいでしょっ!」
そう言って、泣きだしてしまった。
そんなちなつさんの肩を、父が抱き寄せようと手を伸ばした時、その手を、上のお兄ちゃんが払い除けた。そして、父を睨んだ。
「
うーん、上のお兄ちゃんの反応も解らなくはない。でも、お兄ちゃんたち? お父さんとはもう一緒に住めないんだよ……とも、思ったけど黙っていた。
ちなつさんだって、父を好き、というだけで結婚はしないだろう。そこには、経済的な一面も絡んでくるのだろうし。これからのお兄ちゃんたちの学費だって……。
そもそも、今回の旅費だって、父はちなつさんにはいっさい出させていなかった。
お兄ちゃんたちのお父さんからの養育費は、それぞれが十八歳までだって、ちなつさんが言っていたのを聞いたことがあった。
でも、父は事あるごとに、わたしたち三人の学費はなんとかなると言い。だから、養育費の受け取りを終わりにしてもいいのでは……と。これまで支払ってきただけでも、前の旦那さん、すごいことじゃないか……とも言っていた。
ちなつさんも、その方向で動きかけていたらしい。父と結婚して、一緒に住むようになったら、それ以降の養育費の支払いを断るのだと……。
父から、そういう話を聞いていたわたしは、この場での、上のお兄ちゃんの短絡的な考えに呆れてしまった。とても、
わたしの父に対して手を上げた上のお兄ちゃんを睨みつけるわたし。その目つきが気に障ったのだろう。場所も弁えずに、巨漢の、上のお兄ちゃんがわたしを突き飛ばした。四倍くらいもの体重差によるその行為に、わたしは派手に転がった。
周りにいた人たちも呆気にとられてるようで、身動きさえできずに、ただ、成り行きを見つめていた。
床に転がるわたしのもとには、ちなつさんが駆け寄ってきてくれた。優しく起こして立たせてくれる。
父が、立ち上がったわたしに、背中を向けたまま声をかけてきた。わたしとお兄ちゃんの間に立っていた。
「ひな? だいじょうぶか? 痛いところはないか?」
「うん」
「ひとりで部屋に戻っていられるかい?」
父の言葉に、わたしは返事をするしかなかった。優しい言葉遣いではあったけれど、発せられた雰囲気はすごく冷たくて怖かった。わたしから父の顔は見えなかったけれど、相対した上のお兄ちゃんも、父の形相を見ていたのだろう。俯いたまま、肩を震わせていた。
わたしがひとりで、先に部屋に戻った後、暫くしてからドアの外から物音が聞こえてきた。部屋のドアを少しだけ開けて、その様子を窺う。
体重差が倍以上もある、上のお兄ちゃんを、お父さんが連れて戻ってきた。上のお兄ちゃんが、お父さんに向かって、いろいろひどいことを叫んでいる。でも、抵抗していたのは言葉だけで、後ろ手に拘束された巨体が、お兄ちゃんの自由になっていなかったのが、とても不思議だった。
ちなつさんと、下のお兄ちゃんは、ふたりの後を黙ってついてきた。
四人が、ちなつさんたちが泊まった部屋に入っていった。わたしも後を追う。
そこでは、漸く拘束を解かれた上のお兄ちゃんが、未だに、『渡さない!』だの、『返せ!』だのと騒いでいる。『母とセックスしてるのが許せない!』とも叫んだ。
ちなつさんが、お兄ちゃんの頬を叩く。叩かれたことに逆上したお兄ちゃんが、ちなつさんに掴みかかる。お父さんが、
その勢いが怖くて、
そして、それまで、ずっと我慢していたわたしの想いが爆発した。お兄ちゃんを見下ろして。
「お兄ちゃんたちは狡いよっ。ちなつさんてお母さんがいて、わたしのお父さんだってお兄ちゃんたちの事考えてるっていうのに。そんなにホントのお父さんがいいんだったら、お父さんと一緒にいればよかったじゃないっ。それなのに、みんなしてわたしのお父さんまで盗らないでよっ。わたしにお父さんを返してっ」
わたしの言葉を聞いて、お父さんもちなつさんも、苦しそうで悲しそうな表情が浮かんできた。お父さんの泣きそうな顔を見て、わたしはおとなたちを傷つけたことを知った。でも、感情の暴発に任せて、口をついて出た言葉は取り消しようがなかった。
この騒動の後も、暫くの
でも、お父さんは、呑んだ後で、ちなつさんを家まで車で送り届けるために飲酒はせず。それどころか、ちなつさんの家にお泊まりもせず、当然、ふたりで抱き合うこともなく、遅くなっても必ず、わたしたちの家に帰ってきた。
それなのに、何故、そんな想いまでして会いに行くのだろうって、この頃のわたしは思っていた。今となってはわかる気がする。それが、お父さんの未練という想いだったのだということが……。
しかし、次第にその頻度も小さくなっていった。ふたりにとっては、わたしの我が儘の果ての暴言が、別れるきっかけになってしまったようだった。
また、お父さんとふたりだけの生活が戻ってきた。
明らかに沈み込むお父さんを見て、わたしは笑えなくなった……。
みにくいアヒルのひな鳥は美しく大空をはばたけるのか 浅葱 ひな @asagihina
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