第8話 小学二年 声がでなくなる事件
祖父の件で、急遽、通う小学校が変更になったわたしだったが、そこは、子どもとしての順応力や適応力が優っていたようだ。まぁ、今だからこそ、言えることなのだが……。
わたしの通い始めた小学校は、市内では、比較的大きなところだったので、ほかの子どもたちにしても知らない顔のほうが多かったのだ。
新一年生全員が、見知らぬ同年代に萎縮し、新たな教科書を前に不安を抱え込んでいた。
幼稚園が一緒だった子ども同士でグループを作っているのは、ほんの数組しかいなくて、それ以外は、皆、緊張している。
わたしの隣の席に座る男の子も、そんな大勢の中のひとりだった。わたしよりも大柄な体格をしてるのに、なんとなく、内気そうな、気弱そうな男の子、
家は近所だったけれど、通学班は一緒ではなく、最初の頃は、自分の席についてから、昨日見たアニメのことなどを話すだけだった。
その光汰くん、なにかにつけて、授業の中でわたしの真似をするのだ。
最初に気づいたのは、短冊状の画用紙にクレヨンで『自分の名前を書いてみよう』という授業中だった。
小学一年生に上がる前の段階で、ひらがなが書ける子が殆どだったから、ひらがなの授業の次に、この『書いてみよう』があったのだ。
ほかの子たちが、自分の好きな色のクレヨンで、自分の名前を書いている。青だったり赤だったり橙だったり……。全員がその一色なのだ。
しかし、わたしは、それを
それを、隣の席から覗き込んでいた光汰くんも、同じように色を変えて書き始めた。
できあがったそれは、先生の手によって、教室の後ろに、席順と同じに貼り出された。
男の子の光汰くんが上で、わたしが下。でも、この時は、そんなこと、どうでも良かった。光汰くんが、わたしと同じような感覚を持っていることが嬉しかったのだろう。
わたしたちは、これを機会にして仲良くなっていった。
しかし、下に貼り出されたわたしが、光汰くんの真似をしたのだと、この後、クラスで、よく
それは、光汰くんも同じだった。周囲に
そんな状態のまま、わたしたちは二年生へと進級する。
ある日の授業中、光汰くんが先生からの質問に答える時に言葉を噛んだ。その、おかしなイントネーションに、教室中で笑いが漏れた。わたしも笑った。先生だって……。そんな彼を
光汰くんは、顔を紅くして俯いてしまった。
次の日、光汰くんは、朝、学校に来なかった。わたしは、『風邪ひいちゃったのかな?』くらいにしか思っていなかった。みんなもそうだったし、先生も休む連絡は受けていたようだけど、詳細は知らなかったみたいだ。
その日は、いつも、わたしのあとを追っかけてくる光汰くんがいなくて、ちょっと寂しいような、物足りないような一日だった。
更に次の日、状況が一変する。
二時間目の授業中、廊下から、先生たちの慌てる声が聞こえてきた。その声は、わたしたちの教室の横で、暫く続いていたけれど、そこから遠ざかっていくことはなく、少しして教室後方の扉が勢いよく開けられた。教室中が、その扉に視線を向ける。
そこに立っていたのは、数人の先生と、見知らぬ女の人。そして、その女の人の影に隠れるように、光汰くん。
「光汰くん、だいじょうぶ? 心配したよぉ」
心配した……と、声をかけた、わたしのそばまで、その女の人は近づいてきた。そして、わたしの前で腕組みをして、怖い顔で睨んでいる。
「あなたが、
その、威圧的な声に、わたしは頷くことしかできなかった。
「上手に答えられなかった光汰のことを、笑ったのはあなたね?」
わたしは、最初、なんのことを言われているのか理解できなかった。だから、首を傾げただけだったのに。そんな、わたしの態度も気に障ったのだろう。
わたしは、クラスの全員の前で、光汰くんに謝らされた。謝ったけれど、それが、納得できずに、わたしは叫ぶ。
「みんなだって笑ったじゃない! わたしだけじゃないよ!」
反論するわたしを、光汰くんのお母さんが、更に睨む。クラスの子たちの中には、震えてる子もいた。その子たちをも睨みつけ、萎縮させ、黙らせた。
先生たちが飛び込んできたけれど、光汰くんのお母さんの、わたしに対しての罵詈雑言は止まらなかった。
そして、「これだから、
その言葉に、わたしがもう一度反論しようと、光汰くんのお母さんを睨み返した時だった。担任の先生が、わたしの頭を押さえつけ、無理やり、頭を下げさせた。
一度は謝ったわたしにとっては、理不尽そのものだった。
「先生だって、一緒に笑ったのに……」
わたしがそこまで言ったところで、わたしの頭には、もっと力が加えられた。
そして、わたしは、そこから先の言葉が声として出てこなくなった。
その日、声が出なくなったまま、わたしは家に帰った。
父が帰ってくるまでに、何度も声を出してはみた。しかし、殆ど聞き取れない、呼吸を少し大きくしたくらいの掠れた音しか出てこなかった。だから、仕事から帰ってきた父には、『こえがでなくなった』と書いたノートを見せた。
今日のできごとを、父に伝えるには筆談しかなかった。最後まで、わたしの拙い文章を読んで、父は、『ひと晩、様子をみて、明日になっても治ってなければ、病院に行くよ』と言ってくれた。
次の日の朝、やはり、声は出ないままだった。病院で診てもらっても、医師ですら首を捻っていた。炎症も起きてないし、ポリープができてるわけでもない。喋ろうとすると、掠れた音が聞こえるだけだった。ただ、それも長くは続けられなかった。喉の奥のほうがキュッと締められたような感覚に陥るのだ。
いくつもの病院で診察してもらった。結局は、重度なストレスによる発声障害と診断された。
診断結果が告げられた翌日、父が一緒に学校に来て、校長先生をはじめ、学校側との話し合いになった。
まずは、学校側からの事情説明が行われたけれど、到底、納得のいくものではなかった。わたしが必死に書いて伝えた説明とは、食い違うところがいくつもあった。
父も、学校側からの説明に頷くことはなかった。それどころか、何故、教室への乱入を阻止できなかったのか。何故、保護者である父に、当日、連絡がなかったのか。何故、
対応をした教員に事情を確認して……云々。担任からの報告だけで、この騒動の終結を図ろうとしているのは明らかだった。それも、捻じ曲げられた報告だけで。
このことで、わたしの中で、担任が『嘘つき』に認定された。
そして、学校側のあまりにも杜撰でお粗末な対応に、ついに、父が激昂した。それには、隣に座っていたわたしのほうが驚いた。こんなに怒った父は、今まで見たことがなかったからだ。
まずは、教室への乱入を防げなかった先生たちを、この場に呼んでもらい状況説明をさせた。その先生たちは、騒動の間、教室の後方で慌てていただけだったが、一部始終を見ていたのだ。
その後、担任がこの場に連れてこられた。
父が担任に事態の説明を求めた。それを最後まで聞いた後で、何故、先生は、
そんなことはしていない、と反論していたけれど、目撃証言は父によって押さえられていて、逃げ道などどこにもないのだ。校長先生たちにしても、いい加減な対応をしていた負い目があったのだろう。誰もが担任の側にはつけなかった。
先生どうしで口裏を合わせることもできなかった。父が、最初から録音していることを告げ、必要が生じた際には、証拠品として提出することも告げ、偽証しようものなら、それも含めて、争う用意があるとまで告げたからだった。
翌日、声も出ないまま学校に登校し、朝、教室で席につくと、隣の光汰くんが、わたしに謝ってきた。わたしは、『なぜ、光汰くんが謝るの?』とは思ったけれど、なにせ喋ることができないのだ。ただ、彼が話すのを聞いていただけだった。『自分がしっかりと伝えなかったから……』という言い訳を聞いたところで、彼の話を遮った。
そして。
『もう、わたしにかまわないで』
上手でもない字で、ノートの最後のページにこう書いて、光汰くんに見せた。光汰くんとは、それ以来、挨拶も交わさなくなった。事あるごとに、話しかけたそうにしていたけれど、わたしが取り合わなかった。
この騒動の
一方、喋ることができなくなったわたしは、クラスで虐められるようになった。呼び掛けても返事をしないからと、蹴られたり突き飛ばされたりした。
そんなことをされても、睨み返すだけで反論ができないわたしは、格好の的だったのだろう。
この年頃の虐めは、陰湿極まりないモノではなかったので、わたしは、それを放置することにした。
ただ……。
『わたしは、やられたらやりかえすよ!』
と書いたノートを、その場にいた同級生たちの目の前で、机に叩きつけた。その宣言の後、それでも蹴ってきた子に飛びかかっていったことで、わたしに手を出す子はいなくなった。
同時に、わたしも孤立してしまったけれど……。でも、どうせ声が出ないのだから、苦しい想いをしてまで、返事をしなくてもよくなったのは幸運だった。
三年生に上がった時、光汰くんとはクラスが別々になった。クラス替えがされた結果、そこで、彼には、彼のお母さんの事情をなにも知らない、新しい友だちができたのだろう。その後、彼は中学受験をして、中高一貫の男子校に通うことになったので、わたしとの接点は完全に無くなった。
それから、当時のクラスは、担任のほかに、副担任が常時授業に立ち会うことになった。暫くして、担任は学校を休むようになり、わたしたちが三年生になって少し経った頃に辞めてしまった。
この頃のわたしが、『おとなって、イヤなことがあったら辞めちゃえばいいんだ。ズルいよね』って思ったのは仕方のないことだと思う。
だって、わたしは、二年以上も声が出ないまま、学校に通わないといけなかったのだから……。
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