第7話 ちなつさん家

 あの夜、酔った祖父に力任せに叩かれた所為せいで、玄関まで飛ばされて転がされたわたしは、ちなつさん(仮名)に、それこそ身を挺して庇われたことで、漸く安心できたのかもしれなかった。

 ちなつさんの肩越しに父を見た気がしたところで、わたしは意識を失ったようで、そこからの記憶がわたしにはなかった。


 父と祖父が取っ組み合い、というより、一方的に父が祖父を取り押さえたのだと、その時の顛末は、次の日、病院のベッドで、ちなつさんが教えてくれた。

 祖父に叩かれた右の頬は腫れたまま、ドアにぶつけた後頭部にはこぶができていて。ぶつけた反動で玄関に打ちつけた、左手の小指は骨折していた。切れた口の中は未だに血の味がするような気がしてならなかった。

 事件当日の夜と次の日は病院で過ごした。治療と検査の二日間だった。




 ちなつさんは、わたしが五歳になった頃、父がおつきあいを始めた女性だった。お互いに、バツ1、子持ち。当時の職場の同僚が紹介してくれたのだそうだ。歳は、父の3つ上。すごく華奢で色白で、とても綺麗な女性ひとだった。

 そのちなつさんが、入院しているわたしのベッドの横にいる理由を教えてくれた。朝、父と入れ替わるようにやってきた、その理由をだ。そして、これからのことも……。


「ひなのお父さんには、会社に行ってもらった。昨日の事情を説明して、急いで、ひなとお父さんが新しく住むところを見つけないといけないからね。何日か休みをもらってきなさいって。引っ越しもそうだし、小学校のこともあるよね」

「引っ越し……?」

「そうだよ。ひなだって、今までのお部屋で、ひとりで待ってるの……怖いでしょ?」


 ちなつさんの話し方は優しかったけれど、その言葉に、昨晩の祖父の行為が脳裏をよぎり、体の震えが止まらなくなった。

 そんなわたしを、ちなつさんは抱きしめてくれた。その暖かさを感じて、少しだけ落ちつきを取り戻した時に気がついた。

 祖父が、ちなつさんにまで手をあげようとしていたことを……。

 

「ちなつさんは、じいちゃんに叩かれてない? だいじょうぶ?」

「だいじょうぶだよ。ひなは自分のことを心配しないと……。まだ、痛いでしょ?」

「……うん」

「わたしは、ひなのお父さんが間にあってくれたから、だいじょうぶ。ひなは優しいね」


 そう言いながら、ちなつさんは、わたしの頭を撫でてくれた。

 そして、父が、生活環境のすべての準備を終えるまで、わたしは、ちなつさんの家で待っているように言われた。それまで、『わたしが預かる……』と。

 ちなつさんが、退院の手続きを済ませ、ちなつさんの車で、ちなつさんの家に向かう。

 これまでにも、お互いの家を、行き来はしていたので、まったく知らない世界に放り込まれるというわけではなかったけれど、わたしにとって、ゴールが見えない生活は不安でしかなかった。

 当然、保育園もお休みだ。


 そんな不慣れな生活環境に放り込まれたわたしを、ちなつさんのふたりの子どもも、とても気遣ってくれた。

 この時、上のお兄ちゃんが小四。下のお兄ちゃんが、わたしとは三ヶ月違いの早生まれで小一。ふたりは、わたしに対して腫れ物に触るように優しかった。彼らにしたら突然、妹ができた感覚だったのだろう。そう、弟ではなく妹だ。


 普段のお兄ちゃんたちは、この頃はまだ、日中、小学校に行っていて、家にはいない。ちなつさんは、わたしのために、一週間、お仕事のお休みをとってくれていた。

 後から聞いた話だが、この期間の、ちなつさんの収入は、父が補填したそうだ。

 朝、お兄ちゃんたちを、小学校に送り出し、掃除や洗濯の家事をこなし、お昼ご飯を用意してくれて、わたしと一緒に食べる。

 ここでのわたしは、顔の腫れも頭の瘤もまだ目立っていたので、外に出て遊びまわるというわけにもいかなかった。午後は、家から持ってきてもらった本を読んですごした。

 そのうち、下のお兄ちゃんが下校してくると、ちなつさんは買い物に出かけるのだ。下のお兄ちゃんはついて行きたそうにしてたけど、わたしがいるから我慢しているようだった。


 ちなつさんの家で、お兄ちゃんたちが留守番をしている時の過ごし方は、ゲームだった。下のお兄ちゃんからしたら、上のお兄ちゃんが下校してくるまでが、自分主導でゲームができる唯一の時間だったようだ。

 それでも、一緒にやるか? と聞いてくれるのは、優しさからだったのだろう。

 ただ、わたしは当時、今もだが、ゲーム自体に興味がなかったのだ。だから、やったこともなかった。欲しいとも思わなかったから、父にねだったこともなかったのである。

 まったくの初心者を通り越して、未経験者なのである。下のお兄ちゃんのプレイぶりを見ていても、食指も動かず……。これは、今でも変わっていない。


 一緒にと誘ってもらった手前、下のお兄ちゃんの隣に座り、コントローラーを手にしてみる。操作方法を教わり、ゲームの内容を簡単に教えられる。

 しかし、未経験なのだ。更に、格闘系のゲーム。最初から、わたしが上手にできるわけはなく……。相手になれるわけもなく……。

 痺れを切らしたのは、下のお兄ちゃんのほうだった。

 この時、かすかに聞こえたのが舌打ちだったとは、後になって知るのである。


「相手になんねぇな!」

「うん。……ごめんなさい」


 釈然とはしなかったが、わたしが謝った。部屋の隅に戻って、本を手にする。


「本読んでるほうがおもしろいのか?」

「うん、わたしはね。お兄ちゃんが好きなゲーム、今しかできないんだから、ひとりでやってていいよ」


 上のお兄ちゃんが帰ってくると、主導権は、そちらに移っていくのだ。わたしとしては気を遣ったつもりだった。ただ、下のお兄ちゃんの思惑とは違っていたのだが。

 三ヶ月違いの小学一年生の彼は、学年がひとつ上でも、年齢的には、わたしとそれほど変わりはない。自分よりも弱い対戦相手を見つけて、勝つ気分を味わいたかったらしい。

 自分が、普段、上のお兄ちゃんからされていることを、わたしにもしてみようと思ったのだとか……。

 後から、ちなつさんが教えてくれた。


 しかし彼は、早々にその輪を抜けたわたしが気に入らなかったようだ。

 わたしの目の前に仁王立ちして、わたしが手にした本を奪い取る。パラパラとページをめくっただけで、わたしに投げ返してきた。

 その行為に腹を立てたわたしが反抗する。下のお兄ちゃんとの口論へと発展したところで、買い物に出ていたちなつさんが戻ってきた。

 早々に、自分の母親であるちなつさんのもとに近づいていく、下のお兄ちゃん。なにやら、そのちなつさんの耳元で囁いている。


 一頻ひとしきり、話を聞いた後で、ちなつさんがわたしを呼んだ。

 これは、叱られるパターンだと、わたしは思った。下のお兄ちゃんは、ちなつさんの本当の子どもで、わたしは、預かってもらってる他所の子どもだと思ったのだ。

 でも、わたしが叱られることはなかった。話を聞いてくれて、今回は、大事にしているものを投げ返したのがいけない……と、下のお兄ちゃんを叱ったのだった。

 渋々、わたしに謝る、下のお兄ちゃん。すごい不機嫌そうな顔をしていた。



 それから、下のお兄ちゃんは、学校から帰ってくるとすぐに、『友だちと遊んでくる』と言って、出かけるようになった。

 本来なら、あの時は、わたしが我慢しなければいけなかったのだろう。

 このことがあってから、彼は、なにかとわたしに張り合ってくるようになる。


 高校はどこに入った……だの、試合でどこに勝った……だの、未だに、時々、メール(普通のメールアドレスしか知らないから)を送りつけてくる、困ったお兄ちゃんだ。

 そもそも、君は、わたしより一年上なんだよ。生まれたのは三ヶ月しか違わないけどね。

 


 三月になったのを機に、漸く、わたしと父の新しい生活が始まった。

 今度のアパートは、3DK。前より、ひと部屋増えたことで、わたしの部屋ができた。そこには、真新しいベッドと、前の家で用意してくれていた机が置かれていた。

 しかし、自分の部屋ができたことの嬉しさを噛み締める余裕は、その時のわたしにはなかったみたいだ。


 寝つくまで、そばにいて……と、父に我が儘を言い。寝ついたかと思うと、祖父の行為が夢に現れて目覚めてしまう。

 見た夢が怖くて、ちなつさんの家で、ひとり待っていた時の寂しさが抜けなくて、毎夜、父のベッドに潜り込み、その胸元にしがみついていないと眠れなくなる日が、一年ほど続いた。

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