第6話 襲来
虐待を疑われて、ご近所に通報されたあの日以来、暫くは平和な日々が過ぎていった。
六歳になったわたしは、もう、ひとりでしっかりと留守番ができるようになったと思っていた。だいたいが、玄関から一番遠い北側の部屋で、本を読む毎日だったが。
同じアパートの住人たちも、わたしたちの事情を知ってからは、やけに同情的だった。
年が明けて、二月の中頃。この日は、冬にしては暖かかった。
この日の保育所へのお迎えは、いつもよりだいぶ早い時間に、祖母がきてくれた。今日は、父が迎えに来られる日のはずだったので、わたしは、祖母に迎えにきた理由を尋ねた。
「今日は、お父さんが迎えに来れる日だよね。どうして、
「なに言ってるの? ひなのお父さん、今日はお仕事の研修でいないって言ってたじゃないの? 忘れちゃったの?」
「え? それ、行くのやめたって言ってたよ。忘れちゃったのは婆ちゃんだよ」
祖母の言った、父のお仕事の研修。それは、昇進試験に合格した時の数日に渡る、研修所での研修だった。ただ、わたしをおいていくわけにもいかず、祖父母宅に預けていくわけにもいかなかったので、父は研修そのものを辞退したと聞いていた。
わたしの所為で、父は昇進を棒に振ったのだ。
この時の、祖母の受け答えを、おかしいとは思いながらも、当時、その症状を知るほどの知識を、わたしは持っていなかった。
わたしが小学生になってしばらく経ってから、当時の祖母のそれは、アルツハイマー型の認知症だったということを知ったのだ。
わたしの家に、祖母とふたりで帰る。いつものように、アパートの二階に上がり、祖母と一緒に部屋を確認する。この時は、いつもと変わらない。ただ、父が帰ってくるまでに、まだ四時間以上もあったということを除いて。
祖母が帰るのを見送った後、わたしは父の携帯に電話をした。仕事中は、すぐに繋がる事が少ないので、携帯の留守番電話に内容を録音するのだ。
祖母が、保育園にいつもより早く迎えに来たので、もう、家にいることを伝えて、電話を切った。
暫くたった後、家の電話が鳴り、スピーカーから、わたしを呼ぶ父の声が聞こえた。その声を確認してから電話に出ることが、父との約束だった。
「ひなのお迎えがないから、三十分くらい早く帰り着くと思うけど、それまでだいじょうぶかい?」
「うん、だいじょうぶ。本、読んで待ってる」
わたしは、父に、そう答えて電話を切った。
父の帰りが遅くなる時、祖母が保育所に迎えに来るのは、いつも五時くらいだった。だから、ひとりでの留守番は、わたしが家についてからの二時間くらいしかなかったのだ。
この日は、父も普段通り帰れる曜日だったので、午後七時過ぎには会えるだろうと思っていた。
北側の部屋の窓から見える外は、すっかり暗くなっていた。
もうすぐ、七時になろうかという時間だった。もう少ししたら、父が帰ってくる。そんなことを考えていた時、突然、部屋のインターホンが鳴った。ほぼ同時にドアを叩く音も聞こえてきた。
いつも父は、帰りつく直前に電話をくれる。その電話は、アパートの駐車場についたことを意味していて、二、三分と経たずに、父自身でドアを開けて帰ってくるのだ。
だから、今回のこれは、父ではない。その対象を確認するべく、映しだされている画像を見ようと、インターホンのある部屋に向かった。
その僅かな時間のうちにも、インターホンが連続して鳴らされている。恐る恐る覗いた画像に映っていたのは、祖父だった。
インターホンを叩きながら、なにかを言っているけれど、ドアを一枚隔てた部屋の中では聞き取れるはずもない。
どうして、わたしたちの家の場所を知らないはずの祖父が、ここにいるのか? どうして、こんなにも怖い顔をして、インターホンを連打しドアを叩き続けているのか? 当時のわたしには理解ができていなかった。そこに感じたのは、只々、祖父への恐怖、それだけだった。
奥の部屋に急いで戻り、父の携帯に電話をかける。数回の呼び出し音が鳴った後、通話に切り替わり、父の声が聞こえてきた。
父の声に一瞬安堵したけれど、わたしは今の状況を電話口で捲し立てていた。
「
父にとっても、祖父の襲来は予想外の出来事だったようだ。この時は、電話口の向こうで、言葉に詰まっていた。
その父から言われたのは、もうすぐ帰りつくこと。それまで、部屋の中にいること。ドアは決して開けないこと……だった。わたしは、怖くても、父の言いつけを守って、帰りを待つことしかできなかった。
父との通話の間も、ドアを激しく叩く音もインターホンの音も鳴りやまない。
固定電話の子機を握りしめたまま、インターホンの映像を見つめていたわたしは、祖父の次の行動に驚いた。
右手が、ポロシャツの胸ポケットを探り始めた。手にしていたのは、小さなライターだった。祖父がタバコを吸うのは知っていた。だから、こんな状況でも喫煙するのだろうと思った。それで、少しは落ちついてくれたら……と、思いもした。
しかし、わたしの願いは叶わなかった。
祖父は、自分の手にする、火をつけたライターを、こともあろうか、ドア横の壁にあてがったのだ。
今、考えれば、そんなにすぐ壁に火が燃え移るわけはないのだが、この頃のわたしは、それを知らなかった。『燃えちゃうっ!』と思った。
「もう、やめてよっ!
思わず、玄関のドアを開けて、叫ぶわたし。外壁の前に佇む祖父の左腕を掴んで引っ張った。その勢いで、祖父が火をつけて右手に持っていたライターが、アパートの共用廊下に落ちる。落ちてライターの火も消えた。火事に至らなかったことに、わたしがほっとした瞬間だった。
ライターを取り落とした、祖父の右手がわたしの右頬を捉えた。平手でおもいきり叩かれたのだとは、すぐには気づけなかった。
わたしは、叩かれた勢いで、開けっ放しの玄関のドアまで飛ばされた後、その反動で玄関の中に頭から転がり込んだ。
血の味が口の中に広がっていくのを、生まれて初めて感じた。玄関にも、ポタポタと血が滴っているのが見える。その時、着ていた生成りのパーカーの胸元も、鼻から落ちた鮮血で紅く染まっていた。
酔っぱらって呂律の回っていない祖父の言葉が、その時のわたしに理解できるはずもなく、倒れたわたしのパーカーの胸元を掴まれても抗えるわけもなく。再度、振り上げられた祖父の右手を見ても、身構えることすらできずにいた。
痛いとか、怖いという想いや感情までもが、きっと麻痺していたのだろう。わたしの目に映るすべての時間の流れが遅くなった気がした。小学校に上がる前のわたしは、走馬灯などという言葉を知るはずもない。
でも……、何度目だろう、諦めちゃったのは……。
「ちょっとっ! なにしてるんですかっ! こんな小さな子どもにっ!」
叫びながら、わたしと祖父の間に、無理やり自分の体をねじ込ませてきて、わたしを掴む祖父の腕を振り払ってくれる人がいた。
それが、ちなつさん(仮名)だった。
ちなつさんのおかげで、祖父の手から逃れられたわたし。そんなわたしを庇ったちなつさんにまで、見境もなく手をあげようとしている祖父。もう、おかしくなってるとしか思えなかった。そんな祖父の行動に、わたしを庇っているちなつさんの手にも、ギュッと力が入るのがわかった。
でも……。
いけないことだとは思うけど、ちなつさんに、庇うように抱きしめられて、わたしは安心してしまったのかもしれなかった。ちなつさんの肩越しに、父の姿が見えたような気がしたけど、覚えているのはそこまでだった。
お酒に呑まれて、自分よりも弱い相手にだけ手をあげる祖父。でも、次の日になると、わたしに暴力をふるったことなど、なにひとつ覚えていないのだ。
「こんなにかわいがってるのに、俺には懐かない」
祖父は、職場の同僚や知人に、事あるごとに、こう愚痴をこぼしていたそうだ。
叩かれたわたしが、次の日に、なにもなかったこととして、祖父に甘えて懐けるわけがないではないか。
どうして、そんなことがわからないんだろう……。
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