第3話 暴力

 離婚が決まり、父とわたしは、父の地元に戻ってきた。まだ、母の荷物が引き取られずにいたため、これまで住んでいた部屋を引き払うわけにもいかず、今までの保育所では、祖母に強硬に連れ去られる危険があったからだ。それは、わたしを護るための手段だった。

 父の地元で部屋が見つかるまで、わたしは、父の父、祖父たちの家に避難することにした。部屋探しのほかに、保育所も探さなくてはならなかった。とはいえ、父も、そういつまでも仕事を休むわけにもいかなかったので、遅々として、生活環境を整えることは進んでいかなかった。


 祖父たちは、わたしが初めての孫だったこともあり、更に女の子だったこともあって、殊更にかわいがってくれた。

 日中、父が仕事に行っていても、わたしがひとりで置いていかれることもなく、寂しい思いをすることはなかった。

 その間に、わたしたちが生活する拠点が整い、平和な二年が過ぎていった。


 わたしは、五歳になっていた。この頃には、朝はわたしたちの家から、父と保育所に向かい、帰りは夕方、祖母が迎えに来てくれた。祖母と一緒に、父が仕事を終え、迎えに来てくれるまで、わたしは、祖父母宅で過ごしていた。


 その日は、父の仕事が終わらず、帰りが少し遅くなると連絡があった。

 わたしは、祖父母宅で夕飯を食べ、お風呂に入り、後は、父が迎えにきてくれるのを待つだけだった。ただ、日中の行動で疲れていたのかもしれない。そのうち睡魔に襲われ寝落ちしてしまった。




 わたしは、隣の部屋からのガラスが割れるような音で、目が覚めた。ただ、はっきりと覚醒したわけではなく、意識は朦朧としていた。


「婆ちゃん、うるさいよ。なにかあった?」


 わたしは、寝惚けまなこを擦りながら、部屋の襖を開けた。

 そこでは、座卓がひっくり返り、上にのっていたであろう、コップや皿が飛び散って割れていた。畳の上は、なにかの水分で派手に濡れていた。それに、凄くお酒臭い。

 その向こう側で、祖母が頬をおさえて震えていた。わたしと祖母の真ん中に、泥酔した祖父が立っていた。


「うるさいってなんだッ! ひなッ!」


 突然の、祖父の大声で、わたしは身体中に震えが走った。祖母が駆けつけてくれ、わたしを自分の背に庇う。

 しかし、男女の力の差は歴然。祖父が、祖母を押し退けてわたしに手を伸ばしてきた。

 もう、恐怖以外、なにも感じなかった。祖母が祖父の手を掴み、わたしを放させようとがんばってくれたが、効果はない。


 祖父の太い手が、細いわたしの首を掴んだ。苦しかった。暴れて抵抗する力も湧いてこなかった。息苦しい……から、息ができないに至った時、初めて事態が理解できた。

 わたし、死んじゃうんだ……。

 そう、思った時、祖父の指に加えられていた力が緩んだ。そして、その場に膝をついた。静かになった。そこから聞こえてきたのは、祖父の大きないびきだった。


 外で、お酒を呑んできて、家で暴れた。それだけのことだった。次の日の朝、祖父はなにも覚えていなかった。

 祖母にとっては、それほど代わり映えのない日常だったようだ。祖父が仕事から帰ってくる頃には、わたしは自分の家に帰っていて、会うことができない。祖母だけが毎日わたしの面倒を見て楽しそうなのが腹立たしかった……らしい。

 そんな言葉、わたしにとっては、どうでもいいことだった。


 次の日も、同じようなことが起きた。この日は、わたしが保育所から戻ってきた時には、祖父はすでに家にいて、仕事着を着替えもせずに、お酒を呑んでいた。

 最初の頃は、家で少し呑んで、後はわたしと遊んでくれる、優しい祖父だったのだ。

 しかし、今日の祖父に、わたしはこれまでの想いを抱けなかった。

 わたしは、こっそりと隣の部屋に逃げ込んだ。部屋の隅で、震える膝を抱えて、父が迎えにきてくれるのを待った。


 わたしのその態度が、祖父の逆鱗に触れてしまったのだろう。

 それまで、静かに呑んでいたが、おもむろにお酒の入った瓶を振り上げた。その数瞬、座卓に振り落とされた。瓶の欠片が部屋中に飛び散った。祖父は、瓶に残っていたお酒を全身に浴びていた。

 そんなことを気にすることなく、隣の台所に向かって行った。わけが判らないわたしには、その行動を目で追うことしかできなかった。


 振り返った祖父の目が怖かった。わたしはあまりの恐怖に泣き叫ぶこともできず、その場で固まってしまった。

 祖父の手には包丁が握られていた。

 その刃物を奪い取ろうと伸びてきた祖母の手から、紅い血が落ちた。切っ先が触れたのだろう。祖母は咄嗟に、自分の傷ついた手を押さえた。


 祖父が、わたしに向かって歩いてくる。わたしは後退あとずさるが、もともと部屋の隅なのだ。すぐに壁に背中が届いた。

 そして、わたしの首のすぐ横の壁に、握られていた包丁が突き刺さった。


「ひなは、爺ちゃんのことがキライなのかッ!」


 わたしに返事ができる余裕なんてあるはずがなかった。ただ、その壁に突き刺さった刃物の切っ先を横目に、震えるだけだった。

 もう、この時のわたしから見た祖父は、悪魔ではないかとさえ思えた。笑った顔からは優しさなど、微塵も感じられない。嬉々として刃物をわたしの首筋にあてているのだ。正気の沙汰とも思えなかった。


 今回は、本当にダメだと思った。

 わたし、死んじゃうんだ……。諦めがついて、目を閉じた。その時は、もう落ちついていたのかもしれない。

 最後に、父に逢えなかったのを悔しいと思った。

 つい、口をついて、言葉が零れた……。


「お父さん……」

「待たせてごめんな! 怖かったよな」


 聞き覚えのある声が聞こえた。目を開けると、そこには父がいた。父の他に数人のおとなの人もいた。祖父は、そのおとなの人たちに後手うしろでに取り押さえられていた。


 その日、祖父は傷害容疑で現行犯逮捕された。

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