レンズ越しの雑音 8

 息を呑む音が、いつもより大きく聞こえた。

 となりで硬直している箇条と同じくして、僕も恐怖で身じろぎ出来なくなる。背筋が凍り、膝が震える。一度存在を捉えてしまったが最後、よそ見をすれば真っ先に襲われる――そんな、理由のない確信が足をすくませる。

 周囲の音が消え失せて、太陽が雲に隠れ、今が昼であることを忘れさせる束の間の時間。

 意識は強制的に目の前の影に固定され、ザザザ……という雑音が支配。底なしの暗闇に引き寄せられて、目をそらせなくなる。

 現実感が急激に冷めていく。血が頭に上り、目眩がする。これを「夢だ」と逃避して目を閉じたいのを必死に保つ。

 その間も、影は鳥居の下でジッとこちらを見つめていた。


 なにをするでもなく。

 なにを言うでもなく。

 ただ、そこにいる。


「に、逃げた方が、よくないですか……?」


 血相を変えて警戒する箇条の声は、恐怖に染まっていた。やはり僕だけに見える幻覚ではないらしい。神社から出さないような影の立ち位置に、焦燥感。

 一刻も早く逃げ出すべきだ。このまま留まっていてはいけない。

 本能がそう叫んでいる。頭が警告している。


 ――だけど。

 僕はどうしても、確認せざるを得なかった。


「し、のぎ」

「先輩……?」


 ぼそりと口にした名前はしかし、虚しく雑音に消えた。

 影は動かなかった。反応と思える変化は何一つなかった。相も変わらず、耳障りな雑音が漂っている。それが揺らぐことも、夢でのように声が混ざることも、ない。

 夢で見た影がどうしてこんなところにいるのか、僕には全くもって理解できなかった。しかし、現実として受け入れがたくても、事実目の前にコレはいる。であるならば、姉と結びつけてしまうのは仕方ない。

 だって、夢でコレは言っていた。


 『助けて』と。


 不思議な夢だと思ったんだ。その予感がこうして現実になった。助けを求めた姉が姿を現わしたと考えれば納得できる。

 よく物語でもあるだろう。

 怨念や願い、想いの強さは、ときに想像もつかないような現象を起こすことが。


 影が、腕を持ち上げた。

 誘うように。


「は――」


 僕に向けて、真っ黒な手のひらを伸ばされる。

 気づけば影は、僕の目の前に居て。

 恐怖と吐き気で息が止まって。


 そして、暗闇はあっという間に視界を塗りつぶし――。


 雑音は大きく、深く。

 僕を侵食する。



『ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ――』



「は、ぁ……っ! ぁ、ああああああ――!」




「先輩っ!」

「あ、」

「しっかりしてくださいっ!」


 頬をひっぱたかれた衝撃と強い呼びかけに、我に返った。

 箇条は僕の顔を真っ正面からのぞき込み、心配そうな表情を浮かべていた。


「な、ん――」

「大丈夫ですか?」

「影、は……?」


 いつのまにか、周囲は数分前の状態に戻っていた。

 大通りから聞こえてくる喧噪に、風に揺れる木の葉の音。太陽は雲から再び顔を出している。

 僕が見る世界は、正常だった。


「どれだけ、こうしてた?」

「ほんの数分ほどです。気づいたら影はいなくなってました。先輩はそれからもしばらく棒立ちで……」

「そ、そっか。ごめん」

「よかった、いつもの先輩に戻って……さっきの、なにがあったんですか?」


 さっきの、というのは、間違いなく棒立ちになっていたときのことだろう。あまりの驚きからか、僕は放心していたらしい。


「い、いや。ただ最近、ちょっと似た経験を夢でしたから、混乱してたんだと思う。もう大丈夫だから、心配しないで」

「夢……?」


 箇条はいぶかしげに眉をひそめた。

 口元に指を添えて、何事かを考え込む。冷静さを残しているその姿を見て、僕は驚きつつ聞いてみる。


「怖く、なかったの……?」

「そりゃあ怖かったですよ! マジで死ぬかと思いましたよ! でも先輩がいたし――っていうかはやく行きましょう! ここにいたらまたなにか起きそうですし」


 そう言うと、箇条は掴んだままの服の裾を強引に引っ張ってズンズン、と歩き出した。

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