レンズ越しの雑音 7

 その日は、特になにかがあった日などではなかった。ただちょっと風変わりな夢を見た程度の日だった。

 だから。

 「少しだけ中を見ていこう」と鳥居をくぐったのは、単なる気まぐれにすぎなかったんだ――。




 こけむした石造りの柵で囲まれたその敷地は、それほど広くはない。佇む一本の松と、その根元に待ち構える祠のお陰で狭く感じる。箇条は僕より先に奥へ足を踏み入れ、祠を見つめた。

 遠目には大きい丸い石に見える祠。しかし近づいてみると、石は縄がかけられ、木でできた台に供え物が置かれている。刻まれている文字は複雑で読み取ることは難しい。


「むぅ……やっぱり読めないスね」


 うめく箇条から視線を外し、横の看板に目を向ける。しかしやはり、黒い文字は意味不明。というよりも、所々かすれていて読めない。


「供え物がある、ってことは、誰かがここに来ているってことだろうね」

「まあそうでもしないと、周りも雑草だらけになっちゃいますしね。ある程度きれいに保たれてるのは誰かさんのお陰でしょう」


 言いつつ、箇条が石に手を伸ばす。

 僕が止める間もなく、細い指が刻まれた文字をなぞった。石が経験してきた長い年月を辿るように、込められたモノを読み取るかのように、そっと。

 箇条の横顔には真剣な色が乗り、口元で小さくなにかを呟いている。平時とはいささか異なる顔つきに、僕は止めることも忘れ見入っていた。

 細められた目元が、ゆっくりと文字を滑る。かがんだ不意に髪が風に揺れる。それをかき上げ、彼女はなお集中する。邪魔できる雰囲気ではなく、思わず固唾かたずを呑んで見守ってしまう。


 と、箇条から目を離せずにいた、そのとき。



「――?」



 突然、微かに残っていた周囲の音が、途絶えた。

 ここから近い大通りの喧噪。人気ヒトけが少ない裏通りとはいえ確かにある人の気配。建物に紛れるカラスの鳴き声。風の音。木の葉の擦れる音。

 あるはずの周囲の音が、ぱたりと消えた。


「ダメですね。さっぱり分かりません。先輩に良いとこ見せたかったんですけど、お手上げです」


 そう言って立ち上がる箇条の声は、まっすぐ耳に届いた。いや、まっすぐ過ぎた。無音の密室で話しているかのような声に、さすがに違和感を覚える。

 そして、その違和感を感じたのは、どうやら僕だけでもないらしい。箇条は周囲を見渡してから眉をひそめた。


「……なんか、今日は静かですね」

「そう、だね」


 僕は携帯を取り出し、時刻を確認する。

 午後五時まえ。

 放課後に学校を出て、道草しながら歩いていれば当たり前な時刻だった。普段ならとっくに駅に着いている。少し急いで歩かなければ、いつも乗っている電車には間に合わない。そうなれば、この田舎の駅では一時間近く待たされる。

 そう考えていたおり。ふと、いつもより携帯の画面が明るいことに気づき、僕は目を細めた。

 いや、違う。画面が明るい訳じゃない。周囲が暗いのだ。

 携帯を閉じて空を見上げれば、原因はすぐに判明した。


 太陽が、雲に隠れた。


 さっきまで周囲を照らし、薄暗い裏通りでさえも明るくしてくれていた太陽が、消えた。よくあることだ。

 よくあること……なのだけど。


「箇条、そろそろ行こう。電車に乗り遅れる」


 状況が状況なだけに、この現象はとても不気味に思えた。なにか不吉なことでも起こる予兆ではないか。そう思わせるほどに、音と太陽が消え静寂に包まれた世界が怖くなった。普段一人でこの裏通りを利用していても感じたことのない、得体の知れない不安感に襲われていた。

 だから、僕は急かす。電車を理由に、はやくここを去ろうと。


「ちょっと急げば間に合――」

「……」


 返事がないことを不思議に思い、横に目を向けた。


「箇条?」


 箇条は棒立ちになり、真っ直ぐと前を見つめていた。

 視線の先は、僕たちがくぐった鳥居の方だ。声なんて聞こえていないかのように、わずかに見開いた瞳がジッとなにかを見つめている。


「どうし――」

「せん、ぱ、」


 僕の服の裾が、キュ、と握られる。

 声が震えていた。箇条の表情は青ざめていて、信じられないものを見たような反応をしている。


「あ、あれ」


 下手に動いたら危険だ、みたいな動きで、小さく片手を持ち上げる。

 細く白い指が、鳥居の下に向けられた。


 僕は血の気が引いていくのを感じながら、ゆっくりと指の先を辿り――。








 黒いノイズに包まれた、影と再会した。

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