ひすい
楓椛
第1話
半透明緑色の瞳に、僕は恋をした。
真っ青で雲一つない空が、広く穏やかな水面に反射して、嫌気がさすくらいきらきらと輝いている。僕は今、1年ほど前に彼女と来た湖に来ている。「元」彼女、の方が正しいのかな。来年も一緒にここに来よう。彼女と交わした約束を忘れられなかったから。
じっと水面を見つめながら、僕の心に穴を開けた彼女との思い出をめぐらせる。
一目惚れだった。
大学の校内ですれ違ったとき、向こう側から歩いてくる彼女の視線を感じ取ってしまった。
普段、人の顔なんてそれほど気にしないしむしろ俯きがちに歩く。でも、そのときはなぜか彼女のことが目について離れなかった。
半透明緑色の瞳から放たれる美しい光に吸い寄せられるようにして、僕は彼女の瞳の輝きに一瞬で釘付けになった。
初めて見る色だった。
中高生の時から、あまり目立つタイプではなかったし、彼女もいたことがなかった。合コンなんかも苦手。せっかく田舎から憧れの東京に出てきたというのに、キラキラしたキャンパスライフとは無縁だった。要するに、女の子と話すことも、自分から話しかけることもほとんどなかった。
でも、彼女と初めて出会ったときは、気づいたら声をかけてしまっていた。
「あっあの……!」
彼女が振り向く。
「……」
「えっと……。僕、ここの1年生で、その……」
「……」
彼女は何も言わなかった。
そうだよな。僕みたいな地味な男に急に話しかけられたんだ。困るよな。ああ。こんなに綺麗な子を困らせてしまった。
彼女は笑った。何も言わずに。
何も言えずに。
僕と彼女との会話は目で行う。
彼女と付き合うようになって、僕もだんだん目を見るだけで彼女の心がわかるようになっていった。彼女は僕に、様々な瞳の表情を見せてくれた。嬉しそうな。楽しそうな。時には悲しそうな。怒っているような。僕が彼女に喋りかけると、彼女は目で答えてくれる。それだけで僕たちの会話は充分だった。
「その服、すごく似合ってるね」
「……」
「今度、ドライブに出かけようか」
「……」
「ここ、一緒に行きたいんだけど、どうかな」
「最近疲れてそうだけど、大丈夫?」
「……」
言葉じゃなくても、その目で意思疎通をしてくれることに、とてもうれしく、また自分たちだけの世界観がある気がしてなんだかうれしかった。
僕はいつしかその瞳の輝きから目が離せなくなっていた。
綺麗な景色を眺めている時、彼女の瞳は1番の輝きを見せる。なにも考えずにただじっと景色を見るのが好きなんだそうだ。僕は、その瞬間の瞳の輝きが1番好きだった。
僕達は自然に囲まれていて、景色が綺麗な場所にたくさん出かけた。僕の目的はもちろん彼女の瞳が見たいからだけど。美しい空気感に包まれたその場所では、言葉を使わないことだって不自然じゃなかった。むしろ心地が良かった。
彼女と結婚しよう。僕の中でそう思うことはもはや当たり前だった。それくらい彼女に惚れていた。自然の中へ出掛けることが多かったけれど、その日は東京の真ん中、夜景が見えるレストランへと彼女を呼び出した。そして、少し緊張しながらも、言葉に出した。
「僕と結婚してください」
彼女は涙を流した。
半透明緑色の瞳から溢れたそれは、都会のネオンよりも綺麗だった。
しかし、その涙は喜びや感動のものではなかった。初めて見る表情をしていた。
「……」
今日も、彼女との思い出のこの湖に来ている。ここは去年来たときと変わらず、美しい。丁度連絡が取れなくなってから1年だなあ。
結婚まで考えたんだ。彼女が僕の日常から去ってから、僕の心には穴が空いた。しばらく埋めることのできないであろう深い穴が。
じっと水面を見つめながら、彼女のことを考える。前に来た時は、景色より彼女の向ける視線に夢中だったな。なんて。
あの時の視線を、気配をどこからか感じる。同じ状況にいるからだろう。寂しくなってきた。
僕の心のざわめきを写したように水面が波打つ。緩やかな波形を描いて。すると、そこに誰かが映った。驚いてとっさに振り返ると、1年前と変わらない、いや、もっと美しくなって、あのひすいのような瞳が輝いていた。
久しぶりに見たその笑顔と瞳の輝きに僕はまた、虜になった。
その光に吸い寄せられるように。声を出せずにいると、
「お待たせ」
半透明緑色の瞳が、私は嫌いだった。
西の国の血が混ざった私は、見た目が少し、みんなと違っていた。特にこの目。ほとんどの人が黒か茶色の目をしているこの国で、私のこの目は特異だった。
私は、人と違うこの目のせいで、幼い頃からいじめられていた。幼稚園、小学校、中学校。おかしなあだ名をつけられたり、外国人だと差別をされたり、いろいろあったけれど、全部この目のせい。私はこの目が嫌いだった。
高校生にもなると、いじめられ続けた私の性格は、静かで目立たない、教室の隅でひっそりとしているような、暗いものに出来上がっていた。見た目で嫌がらせを受けることはもうなかったが、人と接することは苦手なままだった。
ある冬の日。学校から暗い道を歩いているときに、とある事件に巻き込まれた。当時ニュースで話題になっていた誘拐犯グループの車に乗せられそうになった。犯人たちの会話は今でも耳に残っている。
「珍しい顔してるな」
「外国風で綺麗だ。目の色なんかすごいぞ」
「こいつを連れて行け」
またこの目のせいで、嫌な思いをした。
間一髪、通りすがりのサラリーマンが警察を呼び、本人も加わって助けてくれたおかげで、私は無事だった。
しかし、この時のショックで声を、言葉を失った。
なんとか高校を卒業し、近くの大学へ通い始めた。
ある日、とても落ち着いた雰囲気の男性を見かけた。反対側から歩いてくる彼は、どこか昔の自分に似てる気がして、つい見つめてしまった。
彼と目が合った。見つめられたことを不愉快に思われたかな。心配になって、すぐに目をそらし、彼の横を通り過ぎていく。
「あっあの...!」
声をかけられ、驚いて振り返った。
「えっと……。僕、ここの1年生で、その……」
少し焦っている彼がなんだか可愛らしく思えて、思わず微笑んでしまった。
それが彼との初めての出会い。
どうやら、彼は私が嫌いなこの目を好きでいてくれているらしい。
言葉を失った私とも、私の表情をうまく読み取って、会話してくれる。こんな人、今までで初めてだった。彼がとても優しい、愛にあふれた目で私を見てくるから、私も彼を見つめる視線に、精一杯の愛を込めた。
彼とは、景色が綺麗な場所にたくさん出かけた。私がぼうっと景色を眺めるのが好きだから、彼が連れてきてくれたのだろう。景色を眺めてるとき、なぜか彼の視線をずっと感じていたけど。
幸せだった。人生の中で一番満たされた時間を過ごしていた。
でも、その幸せを感じるたびに、いつ、この満たされている時間が終わるのか、自分なんかが幸せでいいのかなんていう不安に駆られた。昔から満たされない生活をしていた証拠かもしれないけれど、そんな気持ちが私の中でどんどん膨らんでいった。言葉が発せない、周りと見た目が違う自分と一緒にいたら、彼まで周りに咎められる対象になってしまうんじゃないか。彼のことが好きで、大事に思うからこそ、先のことを考えると、自分は身を引いた方がいいんじゃないか。そう思うようになっていった。
悩みが大きくなっていったある日、いつも出かける場所とは雰囲気の違う場所に呼び出された。東京の夜景が一望できるレストランだ。こういう景色もまた違っていいな。綺麗だな。素直にそう思っていた。彼の雰囲気も、どこかいつもと違う気がした。
「僕と結婚してください」
勝手に涙が溢れた。彼の顔を見ると、いつもと同じ優しい目をしていた。
でも、その優しい目を愛しく思うほど、苦しくなった。
何も言えずに、私はその場から去った。
私は一つ決めた。来年も一緒に行こうと約束したあの日、あの場所に行って、まだ間に合うならば、返事をしよう。自分の声で。
それから毎日、事件のショックで失った声を出すリハビリに励んだ。病院に通い、同じような経験をした方のお話を聞いて、メンタルのケアもした。思うように声が出せないことの辛さは、思っていたよりも大変なものだった。
目指した目標の日、彼がそこにいるとも限らないのに。でも、私はただリハビリに励んだ。どうしても、自分の声で返事をしたかった。少しでも彼の隣にいても、マイナスな印象を他人から受けないようにしたかった。今の私には、声を取り戻すことが、自分に自信を持つことへの近道だと思ったから。
約束の日、去年と変わらず美しい湖に来た。自分の声を取り戻して。
彼を探した。去年、2人のお気に入りの場所になった、ベンチのところにいるのかな。そもそも、疎遠になった彼女との約束なんて覚えているのだろうか。しかも、1人で。
いなかったらそれはそれだ。もう諦める覚悟もできている。少しの期待を胸に、ベンチに向かった。
去年と同じ場所に、彼は座っていた。穏やかに輝く水面をのぞき込むような姿勢で。高鳴る心臓を落ち着かせながら、ゆっくりと近づいた。水面に私の姿が反射する。そこは、穏やかな波形を描いていた。私に気づいた彼が、驚いた顔をしてこちらに振り返った。
勇気を出して、私は言った。
「お待たせ。」
視線だけじゃなく、2人の音波が初めて交わり合った。心の波も絡まった。2人だけの波形を描いて。
ひすい 楓椛 @rainy_moon
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