第四夜 青頭巾


    ――上田秋成の『雨月物語』を元にした一席です――




 下野国しもつけのくに・富田の里の奥山に、ひとつの寺があった。

 もとは小山氏の菩提院であって、代々よよ大徳の往まいする寺と、里人達の心服を欲しいままにしていた。


 彼は、その院主であった。

 篤学とくがく修業の聞こえめでたく、里人の帰依きえ一入ひとしお盛んであった。


 さて長享二年晩春、所用で越国こしのくにに赴いたおり、彼は何心なくひとりのわらべを連れ帰った。歳は十二ばかり、殊更ことさら変哲もない男児で、身の回りの世話を任せるのに丁度良かろうと思われたからである。


 しかし、四方を古木に護られた小暗い僧庵において、かの童はいかにも雅びであった。


 ――今朝の空は如何いかがかの。

 ――はい、抜けるように青うございます。

 ――今宵の菜はお前が煮たそうだの。大層おいしく煮えておるの。

 ――はい、勿体もったいのう御座います。


 起臥おきふしに交わすそれぞれの言葉が、いつからか彼にとって何よりも貴重なものとなった。そして長年怠りなく務めてきた仏事や修行には、自然と力が篭らなくなった。


 盆がめぐり、里人の目はすでに醒めていた。

 秋の虫を聞く頃、彼は童と同衾した。

 やがて積雪が山寺を包み、人々の脚をさらに遠ざけた。



          ◎



 明けて延徳元年睦月半ばの昼近く、目覚めた彼は怠惰に欠伸あくびを楽しみ、傍に臥す稚児のぬくみを愛でながら、再び夜具を掻き揚げた。夜具は一冬の寝汗を吸ってもなお柔らかく、薄紅の地に白いかえでを散らせていた。


 もとより歳老いた彼の趣味ではない。かつて身を投じた過酷な修業は、ついに彼の心を仏にしなかったが、仏に近い体躯を与えてくれた。彼は雪をふすまとして安んじて眠ることが出来る。むしろ厚い夜具や衣類を好まない。しかし稚児は三寸の厚みを持つ薄紅色の蒲団を望んだ。それゆえ彼は稚児を愛すると同様に、その綿の塊をも愛した。


 ――なるほど、冬の朝ならこれも悪くない。

 彼は時刻を忘れていた。

 ――しかし、これはちと暖かすぎるのではないか。


 彼は額に汗を感じて、稚児を気遣い、傍に腕を伸ばした。

 恐ろしく熱い肌が掌に触れた。稚児の額であった。

 おびただしい汗と荒い息――稚児はただならぬ傷寒を病んでいたのである。


 彼はすぐさま薬を求めて寺の内を駆け巡った。

 それが徒労に終わると、一散に石段を駆け降りた。

 石段はすでに一町の雪坂と化しており、彼は全身を車にして転がり落ちねばならなかった。


 ――薬はないか。医者はおらぬか。


 村人達はとうに彼を見捨てたかたちであったから、容易に戸口を開こうとしなかったが、夜着のまま裸足のまま叫び回る雪達磨だるまを窓越しに見て、さすがに胸を打たれた。


 ――あれが死んでしまう、ああ、あれが死んでしまう。


 彼は十幾遍同じ言葉を繰り返した後、庄屋の軒先でつるりと昏倒した。



          ◎



 国府の重だたしき官医を迎えてまで手を尽くしたものの、稚児は日を経て重く病んでいった。

 彼は稚児の不幸を仏罰と信じ、再び一心に仏道に帰依した。

 本堂の諸仏は心なしか眉を歪めていた。

 彼はそれらが和らぐ時を待ち、昼夜を忘れて念仏に努めた。


 しかし、梅雨が瓦を打つ濁音の中、稚児はついにむなしくなった。


 寺中の人々は表面おもてづら嘆きながら内心安堵して、死骸を荼毘だびに付そうとした。しかし院主は無言のまま彼らを退けた。


 彼は稚児を抱いて本堂に端座した。

 懐中の玉を失い、泣くに涙なく、叫ぶに声なく、果ては全ての扉を硬く閉じ、何びとも堂内に寄せつけなかった。

 稚児の顔に頬ずりし、手に手をとりつつ三晩明かすと、はじめて涙が澎湃ほうはいとして涌き流れた。


 その時、堂内が騒然と沸き上がった。諸仏が嘲笑するのであった。


 ――笑わば笑え。貴様らなどに何が解るものか。


 彼は嘲笑する諸仏を前に、稚児と戯れた。

 飽くことなく愛撫し愛咬した。

 梅雨の湿気に蝕まれた死骸は、やがて爛れはじめ、赤黒い雫となって彼の指の間から滴り落ちた。

 彼は腐肉にまみれながら、幸福に眠った。


 ふと目覚めると、床に蠢くものがある。鼠である。稚児の腐臭を慕って来たのであろう、無数の鼠が稚児をどぶ色にしている。

 彼は猛り狂って鼠を追い散らした。

 鼠は一旦死骸から遠のき、彼が眠るのを待って堂の片隅に黒く固まり、螢火のように眼を光らせていた。


 ――畜生、お前らに渡してなるものか。これは俺のものだ。


 彼は稚児の下腹から流れ出しているはらわたを、元に収めようとした。

 しかし粘りつく腸の手応えを愛しんで、一瞬躊躇ちゅうちょしていると、腹の奥から鼠が逃げた。


 ――畜生、お前らに喰らわせてなるものか。


 彼ははらわたを頬張った。

 甘い。空腹の口に、いかにも甘い。

 彼は口一杯の腐肉を舌で掻き廻し、唾液を混ぜ、心ゆくまで咀嚼そしゃくしてから、ゆっくりと喉に落とした。

 胸の内から声が聞こえた。


 ――お前はこれほどうまいものを食ったことがあるか。

 ――いや、ない。

 ――修行を快く思ったことがあるか。

 ――いや、いつもただつらかった。

 ――仏は何をしてくれたか。

 ――いや、何もしてくれなかった。


 彼は忽然と己の意志を悟った。

 鬼になろう。生きながら一匹の鬼となろう。


 鬼として余生を貫こう。


 彼は稚児の肉を吸い骨を嘗め、ついに喰い尽くした。

 それでも喰い足りず、さらなる死骸を求めて墓所に向かった。


 寺中の人々は、腐汁にまみれた彼を見るなり顔から血の気を抜いて、一散に石段を逃げ降りた。

 石段は確かな石段であったが、彼らは全員車になって転がり落ちねばならなかった。



          ◎



 ――院主こそ鬼になり給ひつれ。


 噂はたちまち村を染めた。


 彼は自分が鬼であることを完璧とするため、夜な夜な村里に下りて人を脅かし、また新墓を暴いて生生しい人肉を喰らった。


 もはや噂は国中に聞こえ、彼は全く鬼であることになった。


 彼は、そんな噂にほくそ笑みながら、二十日あまりの下弦の月が昇ると、常のごとく墓所に赴いて墓土を堀った。

 さほど空腹ではなかったが、食い頃の死骸、それも豊満な娘の死骸がある以上、鬼として見過ごす訳にはいかなかった。


 彼は一丁のなたを携えていた。肉を喰らった後、これをもって骨を叩き割り、その髄を啜るのである。


 晩秋の透明な夜気の中、月影に浮かぶ痩せ枯れた鬼。

 白髪はぼうぼうと生い乱れ――。

 彼は、そんな己の姿を遠目に想い、挑惚として泥土を堀り続けた。


 その時、山門の方角で錫杖しゃくじょうが鳴った。

 ――もうし、諸国遍歴の憎である。今宵ばかりの宿を貸したまえ。


 僧と聞いて、彼は答えなかった。

 すると病葉わくらばを踏む響きが、速やかに近づいてきた。


 ――あなたが院主であられるか。

 ――院主はもう居らぬ。わし一人だ。

 ――愚僧は快庵と申す者。一夜の宿をお願いしたい。

 ――こちらに来なされ。


 彼は快庵を庵に招き、茶をたててもてなした。

 無論、頃合いを見計らって、殺して食うもくろみであった。

 彼は快庵をめ回した。

 紺染め頭巾のこめかみが破れ、そこだけ一寸ばかり盛り上がっている。


 ――そのこぶはいかがなされた。

 ――村里で石を投げられた。大方乞食と間違えられたのであろう。

 ――このあたりは僧形の鬼が出るでな。


 月明りが庵の内を隅なく照らし、遥かな谷水の響きが、間近のごとく聞こえていた。


 快庵は茶碗に目を伏せたまま、穏やかに問うた。

 ――あなたの稚児殿は、いかなる愛しさであったか。


 彼は身を翻し、隠し持つなたを構えた。

 ――村人に泣きつかれて来たか。わしをいさめに来たか。


 快庵は茶碗を置き、僧衣を正して、おもむろに座禅を組んだ。

 ――ひもじければ愚僧の肉で腹を満たしめたまえ。


 ――むむ、いい度胸だ。

 彼はなたを振りかぶった。


 谷水がひとしきり聞近になった。


 そのとき快庵の口から、月明かりに消ゆるばかりにささやかな音声おんじょうが漏れた。


 ――江月照松風吹こうげつてらししょうふうふく 永夜清宵何所為えいやせいしょうなんのしょいぞ――


 証道歌かよ、と彼は悟った。

 かつて大徳と呼ばれた誇りが、血に満ちて脳裏に達した。

 禅問答のたぐいなら望む所だ。


 ――江月照松風吹こうげつてらししょうふうふく 永夜清宵何所為えいやせいしょうなんのしょいぞ――


 彼は愕然と眼を見開いた。


 ――秋の澄んだ月は江面かわもを照らし、風は爽やかに松林を吹きぬける。この永い夜、清らかな宵は、何の為にあるのか――


 解りきったはずのものを、思いあぐねる自分がもどかしかった。

 ここで気のきいた答弁をしなければ、快庵は彼を侮蔑しながら死んでゆくであろう。

 いやだ。自分は恐れられて殺すのだ。


 しかし、とうとう窓に陽が射しても、彼は返答出来なかった。

 快庵は静かに頼笑んで、自分の青頭巾を脱ぎ、彼の頭に軽く乗せた。


 ――しばらく考えられるが良い。


 錫杖しゃくじょうの響きが、山を越えて去って行った。



          ◎



 雪を聞き、桜を聞き、蝉を聞きながら、彼はその二句を呟き続けた。


 ――江月照松風吹こうげつてらししょうふうふく 永夜清宵何所為えいやせいしょうなんのしょいぞ――


 蝉が衰える頃、ようやく彼は死骸の甘さを思い出した。

 墓を暴くため脚に力を込めたが、すでに不様に固まって、ほどく術を持たなかった。

 のみならず、唇の動きまでが堅く固まり、同じ二句をなぞるだけであった。


 ――江月照松風吹こうげつてらししょうふうふく 永夜清宵何所為えいやせいしょうなんのしょいぞ――


 彼は白分の唇を呪いながら、歯噛みさえ出来なかった。


 稚児の肌が心に浮かんだ。

 稚児のはらわたが心に浮かんだ。


 しかし、いかにしても結跏趺坐けっかふざほどけない。



          ◎



 やがて昨年と同じ夜、彼は背後に、同じ旅の僧が近づく気配を感じた。


 彼は快庵を頭中で殺戮した。


 まず敏捷びんしょうかつ果敢に跳躍し、鋭い爪をもって相手の両眼をえぐる。のけぞった喉を、すかさず真一文字に切り裂く。ほとばしる血潮を顔に浴びながら、物凄く笑う。


 しかし、すでにすがりつく力もなかった。


 ――ああ、あの稚児は真に愛らしかった。食ってしまいたいほど愛らしかった。こんな糞坊主など、去年、墓場で一息に殺してしまえば良かったのだ。


 しかし唇は勝手に蠢き続ける。


 ――江月……照……松風……吹……永夜……清宵……何……所……為…………


 快庵は彼の呟きを聞きとり、即座に禅杖を振り上げ、一喝して振り下ろした。


 ――そもさん、何の所為ぞ!!


 青頭巾の脳天が重みを増した。


 所詮しょせん自分は鬼となる器ではなかったのか――。


 弱気を起こした刹那せつな、彼は一介の白骨と化して、破れ畳にからからと崩れ落ちた。



                         【終】


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