第四夜 青頭巾
――上田秋成の『雨月物語』を元にした一席です――
彼は、その院主であった。
さて長享二年晩春、所用で
しかし、四方を古木に護られた小暗い僧庵において、かの童はいかにも雅びであった。
――今朝の空は
――はい、抜けるように青うございます。
――今宵の菜はお前が煮たそうだの。大層おいしく煮えておるの。
――はい、
盆がめぐり、里人の目はすでに醒めていた。
秋の虫を聞く頃、彼は童と同衾した。
やがて積雪が山寺を包み、人々の脚をさらに遠ざけた。
◎
明けて延徳元年睦月半ばの昼近く、目覚めた彼は怠惰に
もとより歳老いた彼の趣味ではない。かつて身を投じた過酷な修業は、ついに彼の心を仏にしなかったが、仏に近い体躯を与えてくれた。彼は雪を
――なるほど、冬の朝ならこれも悪くない。
彼は時刻を忘れていた。
――しかし、これはちと暖かすぎるのではないか。
彼は額に汗を感じて、稚児を気遣い、傍に腕を伸ばした。
恐ろしく熱い肌が掌に触れた。稚児の額であった。
おびただしい汗と荒い息――稚児はただならぬ傷寒を病んでいたのである。
彼はすぐさま薬を求めて寺の内を駆け巡った。
それが徒労に終わると、一散に石段を駆け降りた。
石段はすでに一町の雪坂と化しており、彼は全身を車にして転がり落ちねばならなかった。
――薬はないか。医者はおらぬか。
村人達はとうに彼を見捨てたかたちであったから、容易に戸口を開こうとしなかったが、夜着のまま裸足のまま叫び回る雪
――あれが死んでしまう、ああ、あれが死んでしまう。
彼は十幾遍同じ言葉を繰り返した後、庄屋の軒先でつるりと昏倒した。
◎
国府の重だたしき官医を迎えてまで手を尽くしたものの、稚児は日を経て重く病んでいった。
彼は稚児の不幸を仏罰と信じ、再び一心に仏道に帰依した。
本堂の諸仏は心なしか眉を歪めていた。
彼はそれらが和らぐ時を待ち、昼夜を忘れて念仏に努めた。
しかし、梅雨が瓦を打つ濁音の中、稚児はついにむなしくなった。
寺中の人々は
彼は稚児を抱いて本堂に端座した。
懐中の玉を失い、泣くに涙なく、叫ぶに声なく、果ては全ての扉を硬く閉じ、何びとも堂内に寄せつけなかった。
稚児の顔に頬ずりし、手に手をとりつつ三晩明かすと、はじめて涙が
その時、堂内が騒然と沸き上がった。諸仏が嘲笑するのであった。
――笑わば笑え。貴様らなどに何が解るものか。
彼は嘲笑する諸仏を前に、稚児と戯れた。
飽くことなく愛撫し愛咬した。
梅雨の湿気に蝕まれた死骸は、やがて爛れはじめ、赤黒い雫となって彼の指の間から滴り落ちた。
彼は腐肉にまみれながら、幸福に眠った。
ふと目覚めると、床に蠢くものがある。鼠である。稚児の腐臭を慕って来たのであろう、無数の鼠が稚児を
彼は猛り狂って鼠を追い散らした。
鼠は一旦死骸から遠のき、彼が眠るのを待って堂の片隅に黒く固まり、螢火のように眼を光らせていた。
――畜生、お前らに渡してなるものか。これは俺のものだ。
彼は稚児の下腹から流れ出している
しかし粘りつく腸の手応えを愛しんで、一瞬
――畜生、お前らに喰らわせてなるものか。
彼は
甘い。空腹の口に、いかにも甘い。
彼は口一杯の腐肉を舌で掻き廻し、唾液を混ぜ、心ゆくまで
胸の内から声が聞こえた。
――お前はこれほどうまいものを食ったことがあるか。
――いや、ない。
――修行を快く思ったことがあるか。
――いや、いつもただつらかった。
――仏は何をしてくれたか。
――いや、何もしてくれなかった。
彼は忽然と己の意志を悟った。
鬼になろう。生きながら一匹の鬼となろう。
鬼として余生を貫こう。
彼は稚児の肉を吸い骨を嘗め、ついに喰い尽くした。
それでも喰い足りず、さらなる死骸を求めて墓所に向かった。
寺中の人々は、腐汁にまみれた彼を見るなり顔から血の気を抜いて、一散に石段を逃げ降りた。
石段は確かな石段であったが、彼らは全員車になって転がり落ちねばならなかった。
◎
――院主こそ鬼になり給ひつれ。
噂はたちまち村を染めた。
彼は自分が鬼であることを完璧とするため、夜な夜な村里に下りて人を脅かし、また新墓を暴いて生生しい人肉を喰らった。
もはや噂は国中に聞こえ、彼は全く鬼であることになった。
彼は、そんな噂にほくそ笑みながら、二十日あまりの下弦の月が昇ると、常のごとく墓所に赴いて墓土を堀った。
さほど空腹ではなかったが、食い頃の死骸、それも豊満な娘の死骸がある以上、鬼として見過ごす訳にはいかなかった。
彼は一丁の
晩秋の透明な夜気の中、月影に浮かぶ痩せ枯れた鬼。
白髪はぼうぼうと生い乱れ――。
彼は、そんな己の姿を遠目に想い、挑惚として泥土を堀り続けた。
その時、山門の方角で
――もうし、諸国遍歴の憎である。今宵ばかりの宿を貸したまえ。
僧と聞いて、彼は答えなかった。
すると
――あなたが院主であられるか。
――院主はもう居らぬ。わし一人だ。
――愚僧は快庵と申す者。一夜の宿をお願いしたい。
――こちらに来なされ。
彼は快庵を庵に招き、茶をたててもてなした。
無論、頃合いを見計らって、殺して食うもくろみであった。
彼は快庵を
紺染め頭巾のこめかみが破れ、そこだけ一寸ばかり盛り上がっている。
――その
――村里で石を投げられた。大方乞食と間違えられたのであろう。
――このあたりは僧形の鬼が出るでな。
月明りが庵の内を隅なく照らし、遥かな谷水の響きが、間近のごとく聞こえていた。
快庵は茶碗に目を伏せたまま、穏やかに問うた。
――あなたの稚児殿は、いかなる愛しさであったか。
彼は身を翻し、隠し持つ
――村人に泣きつかれて来たか。わしを
快庵は茶碗を置き、僧衣を正して、おもむろに座禅を組んだ。
――ひもじければ愚僧の肉で腹を満たしめたまえ。
――むむ、いい度胸だ。
彼は
谷水がひとしきり聞近になった。
そのとき快庵の口から、月明かりに消ゆるばかりにささやかな
――
証道歌かよ、と彼は悟った。
かつて大徳と呼ばれた誇りが、血に満ちて脳裏に達した。
禅問答の
――
彼は愕然と眼を見開いた。
――秋の澄んだ月は
解りきったはずのものを、思いあぐねる自分がもどかしかった。
ここで気のきいた答弁をしなければ、快庵は彼を侮蔑しながら死んでゆくであろう。
いやだ。自分は恐れられて殺すのだ。
しかし、とうとう窓に陽が射しても、彼は返答出来なかった。
快庵は静かに頼笑んで、自分の青頭巾を脱ぎ、彼の頭に軽く乗せた。
――しばらく考えられるが良い。
◎
雪を聞き、桜を聞き、蝉を聞きながら、彼はその二句を呟き続けた。
――
蝉が衰える頃、ようやく彼は死骸の甘さを思い出した。
墓を暴くため脚に力を込めたが、すでに不様に固まって、ほどく術を持たなかった。
のみならず、唇の動きまでが堅く固まり、同じ二句をなぞるだけであった。
――
彼は白分の唇を呪いながら、歯噛みさえ出来なかった。
稚児の肌が心に浮かんだ。
稚児の
しかし、いかにしても
◎
やがて昨年と同じ夜、彼は背後に、同じ旅の僧が近づく気配を感じた。
彼は快庵を頭中で殺戮した。
まず
しかし、すでにすがりつく力もなかった。
――ああ、あの稚児は真に愛らしかった。食ってしまいたいほど愛らしかった。こんな糞坊主など、去年、墓場で一息に殺してしまえば良かったのだ。
しかし唇は勝手に蠢き続ける。
――江月……照……松風……吹……永夜……清宵……何……所……為…………
快庵は彼の呟きを聞きとり、即座に禅杖を振り上げ、一喝して振り下ろした。
――そもさん、何の所為ぞ!!
青頭巾の脳天が重みを増した。
弱気を起こした
【終】
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