第二夜 残像
自分のしがみついている会社をそう言うのもなんだが、倒産瀬戸際のベンチャー企業の決算期は、
その土曜も、俺は灯の落ちたオフィス街を、終電ぎりぎりの地下鉄に向かって、脚を引きずるように歩いていた。もはや脚を速める気力もない。終電前に社を出られたこと自体、数日ぶりだった。タクシーのチケットなど出ない若造会社であり、連日自腹を切るにはマンションが遠すぎる。いつもなら社に残って、空いている適当なソファーを見つけ、そこで寝ているところだ。晩飯はコンビニで買えばいい。しかし、明日は二週間ぶりに休める。できれば帰って寝たかった。電車が駄目なら、タクシーを使うだけのことだ。
深夜近くでも、地下鉄の上の国道は車が絶えなかった。それでも週末のためかいつもよりまばらで、そのぶん景気よくアクセルを踏んでいる。
近場の出入り口から地下鉄に下りようとしたとき、少し先の歩道橋から、なにか白い物が落ちた。瞬間宙に流れたコートと長い髪は、女のようだ。飛び下りたと言うより、落ち残っていた木の実が自然に枝を離れるように、なんのてらいもなくただ落ちた。
直下にはちょうど深夜トラックがこちらに向かって疾走しており、ブレーキも何も間に合わないまま、素直にその女をフロントの上角で跳ね上げた。折れ曲がった女は、ビルの間に信じられないほど大きな弧を描き、俺の前の舗道に顔から落ちた。
驚くのがいいのだろう、そう思いながら、俺は足元に広がった髪を見下ろしていた。女の頭は奇妙に薄かった。堅い舗道に顔が埋まるはずもない。顔の方が頭に埋まっているのだろう。そう言えばとてつもなく嫌な音が聞こえたような気もする。扇のように広がった髪は、じきに内側から濡れだして舗道に張り付き、頭の薄さをなお際立たせた。
女が身を起こした。
元気に腕立て伏せをするように、両手を突っ張ってのけぞり、地べたから俺を見上げた。生きているはずはない。いわば直前まで生きていたことの名残りなのだろう。目が合ったのかどうか、その顔からは判別のしようもなかった。女はまた朽木のように倒れ、元どおり舗道に張り付いた。
気がつくと、俺は地下鉄への階段を下っていた。ようやく背後の上の舗道で、ドライバーや他の通行人の騒ぐ声が聞こえ始めたから、それらを見届けて下りてきたのではないだろう。何を考えていたのか、それすら覚えていない。下手に関わり合いになって、貴重な休日前の夜を完全に失うのが、疎ましかったのだろう。あるいはそこまで思考する余力もなく、ただ一刻も早く、蒲団に潜り込みたかっただけなのかもしれない。
ホームに下りると、ちょうど終電のドアが開いた。
間に合った――俺は安堵して人の群れを分け、吊革のひとつに手首を預けた。ベッド・タウンまでの長い時間、坐席で眠りを貪れるほど、この街は甘くない。
甘えたい人間は、勝手に旅立てばいい。
◎
行きつけのスナックで酒と晩飯を済ませ、マンションのソファーに倒れ込んだ頃には、すでに二時半を回っていた。
風呂はもう目覚めてからでいい。明日は久方ぶりに一日休める。午後からは、このところ無駄に会員料だけ払い続けているアスレチック・クラブで、萎え気味の体を少しでも戻そう。今夜はこのまま――いや、野菜が足りない。
俺は冷蔵庫から野菜ジュースを取り出し、レモンをたっぷりと黒胡椒を少々振り入れ、馬のように飲んだ。今、体を壊すつもりはない。バブルを上手く抜けたおかげで、すでに個人資産は五千万を超えた。会社さえ以前のように、いや、かろうじてでも持ち直してくれれば、三十までに億を超えるだろう。
洗顔を済ませベッドに潜り込み、泥のような眠りへ――しかし、いつものような眠りは訪れなかった。
部屋の明かりを落とし目を閉じても、闇というものが均質な黒でないのは、自明の理だ。頭が起きている限り、視神経は様々な光のノイズを見せ続ける。いつもなら、それはものの二・三分で真の黒、つまり眠りに転じるのだが、今夜はなぜか今になって頭が冴え、はっきりと焦点の合った、しかし形のないノイズを散らし続けた。
翌日も仕事であれば、ぐずぐずとそれにこだわっているより、風呂にでも入って気分を変えるところである。しかし今夜は、起き出すにも体の方が重すぎるし、頭だけ冴えたら冴えたで、これからのイメージ・トレーニングでもしていればいい。
俺は来週の仕事の段取りを、より良い詰めに向けて組み立てながら、瞼の中の闇を見続けた。そしてその内、闇の中に何か楕円形の光の塊を認めた。それは、目をきつく閉じていると現れる幻の光の乱舞のような苛立たしさを伴っていたが、今はただ軽く目を閉じているだけだし、その光の塊は、いつまでも遠く小さく、ゆらゆらとそこに留まっている。
いぶかしさに
照明の残像ではない――しかし再び目をとじると、やはりその
あの女の顔である。
遠すぎて細部など掴めなかったが、その細部が見えないこと自体、細部をすでに潰れた肉で紛らわせていたあの時の顔に、間違いないように思えた。
奇妙なことに、恐怖は微塵も感じなかった。それは、あの舗道で見知らぬ女が息絶えたくらいでは驚けなかったほどの倦怠感が、まだ残っていたからなのだろう。幻覚など今まで何度も見ている。分不相応の国立大を狙って無茶な徹夜を続けていた日々、また就職当初、早期に頭ひとつ抜けるために深夜まで株式を追っていた日々、金縛りと共に壁のポスターから人が抜け出すなど、珍しくもなかった。慣れていない頃は、緊張のあまり頬の内側を噛んでしまったこともあったが、成人後はただ時を待てば解けた。実害はなにもない。
明日の午後は、アスレチックをよして、セラピストに会うことにしよう。予約は入れていないが、上客だから拒みはしないはずだ。一晩眠りたいだけ眠れば済む程度の精神疲労だろうが、念を入れるに越したことはない。
女の顔が、また少し大きくなった。知った女なら遠目に見分けられるくらいの距離だ。恐くはなくとも、苛立たしいことに変わりはない。俺は瞼を開いて、しばらく無意味に天井を見つめ続けた。目を開けている間は、やはりただ照明の傘が見えるだけで、周囲の闇にも、ふだんのノイズしか漂っていない。
いっそ風呂にでも、そう思って起きようとしたが、体が石のように動かない。それも全く恐くなどなかった。ただの金縛り――寝入り
目の前に女の顔があった。
ひしゃげた皮膚に舗道の石畳のパターンが刻まれ、さらに血や
俺は口が動かないので、気持ちだけでつぶやいた。
「やあ、幻のお嬢さん。それとも、奥様? どっちにしても自分から旅立つくらいだから、生きている間も、さぞ影の薄い人生だったのだろうね」
女の顔が、さらに近づいた。
生暖かい息を錯覚した。
鼻や頬のあたりに骨が覗いているため、いよいよ表情など判らない。
ただ、半分ちぎれた唇の端は、何かを嘲笑するように吊り上がっていた。
◎
目覚めると、カーテンの隙間から差し込む陽差しは、すでに昼下がりの斜光だった。半日近く眠ってしまったためか、若干頭が痛むようだ。しかし、体の疲労は確実に抜けている。
今からでは午後の予定も組めない。とりあえず風呂に入り、それから買い物に出て、久しぶりに我流の凝ったシチューでも作ろうか――。
とりあえず冷蔵庫のミネラル・ウォーターを取り出し、蓋を切って喉を潤す。先日初めて買った銘柄の水は、いささか鉄分が多すぎる気がした。
風呂に給湯しながら、洗面台に立つ。鏡に映る顔には、やはり精気が戻っている。これならセラピストなど当分必要ない。
ただ、唇の端に、何か赤黒い塊が着いている。
おっと、これは久しぶりの金縛りで、また頬を噛んだか――。
俺は鏡に顔を寄せて、頬の内側をあらためようとした。
ぽっかり開いた俺の唇のすぐ内側で、女の崩れた口元が笑っていた。
【終】
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